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第2話『グラジオラス』(前)
昨日、覚醒剤取締法違反だか大麻取締法違反だかで、とある勢力の組員が数人、古鷹某所で逮捕されたらしい。
けれど親愛なるクラスメイトたちは、そんなニュースには関心がないご様子だ。まあ高校生なんてそんなものだし、俺だってそのひとりである。薬物の密売なんて、普通に生きてさえいれば一生無縁のまま天寿を全うすることができるのだから。
春頃に起きた無差別連続通り魔事件と比べたら少々センセーショナルさに欠けるそのニュースは、だから教室で話題に挙げられることはなかった。どうやら彼ら彼女らは別の話題で持ちきりだったようで、何やら隅のほうでひそひそと盛り上がっている。
そんな六月二日、火曜日。俺が教室に着くと、あんずは既に登校してきていた。前から二列目、一番右端。廊下側の机が彼の席であり、その左隣に俺は腰かける。
いつものようにあんずとたわいのない世間話をしていると、やがて椎本先生が前の扉から教室に入ってきた。委員長が号令をかけたので、俺たちは立ち上がる。彼女が教壇のところまで移動するのを見計らってから、挨拶をして、着席した。
連絡事項を伝えてくる先生。その口から薬物だの密売だのという単語が出てくることは当然なく——怪訝そうに眉間に皺を寄せて、何かを見つめている椎本先生のことは少し気になったものの——ホームルームは普段と同じように進行していく。そうして、いつもと変わらない一日が始まろうとしていた。
しかし。
「——さ、西城さん!?」
ホームルームが終わって、一限目の授業の準備をしていたとき。突然、教室に悲鳴のような声が響いた。
俺を含めた三年B組の生徒の視線が、一斉にそちらに向けられる。驚いたことに、その声の主は椎本先生だった。彼女が担任となって約二か月、そんな風に大きな声を上げている先生を目にしたのは初めてのことである。
椎本先生は教壇ではなく、前から四列目、窓際の机の前にいた。その席に着いている女子生徒——西城花姫はというと、きょとんとした表情を浮かべて彼女のことを見上げている。
「どうされたんです? 先生。そんなに声を荒げて」
「どうされたは西城さんのほうでしょう! その机、誰にされたの!」
「ああ、これですか。何か問題でも?」
「問題しかありません!」
先生はさらに声を荒げる。けれど西城のほうはのん気なもので、どうして自分が怒鳴られているのか——というより、椎本先生が何に対して憤っているのかさえ、よくわかっていないようだった。
そんな彼女の様子に先生はひとつ嘆息を漏らして、それから自分の手首に巻かれている腕時計に視線を向けた。
「確か、一限は浮橋先生の古文だったわよね。臨時の学級会を開くから、私のホームルームと交換してもらえるように、今からお願いに——」
「そんな馬鹿なことをするつもりなんです?」
椎本先生の言葉を遮るように、西城は彼女を睨みつけた。その視線に込められたすさまじい迫力は、西城の席から少し離れた俺にでさえ十分に伝わってくる。
だから、そんな鬼気迫るような鋭い眼差しを正面から受けた先生が反射的に、あるいは気圧されるように一歩後ろに下がってしまったとしても、誰も彼女を責めることはできないだろう。
「この程度のことで、無関係な人たちの授業時間を奪うつもりなんですか。受験生の授業は大切なんですよ、先生」
「こ、この程度って……西城さん、わかってるの? それとも本当にわからないの? これはいじめ——」
「死ななきゃ安いもんですから」
先生は絶句した。理解しがたいものを目にしているかのように、目の前の少女のことを見つめている。
もっとも、と。普段通りの口調のまま、西城は呟いた。
「——直接手を出してきた場合は、容赦しないですけど」
それは独り言のような言葉だったけれど、彼女の凛としたその声は確かにクラスメイトの全員に届いたのだろうと、そんな確信のようなものを俺は覚えた。
それからのことだが、授業は驚くほど何事もなく進行していった——正確には授業のためにこの教室に訪れた教師全員、西城の机に対して椎本先生と似たようなリアクションをしていたのだが、当の本人である彼女自身がどこ吹く風だったので、それ以上何も言うことができなかったと表現したほうが正しいのかもしれない。
そんな西城の振る舞いのおかげで、少なくとも午前中は、比較的いつもと変わらない一日だったように思う。
余談だが、彼女の机は四限の授業が終わってすぐに先生たちの手によって取り換えられた。
西城花姫の机に何があったのか、結局、俺はそれを目にしないままだった。
見るまでもなかった。
* * * * *
昼休み。
西城の机が取れ替えられて、その主である彼女も先生たちと連れ立ってどこかへ行く様子を一瞥してから、俺は購買へと向かった。
本日の昼食はカスタードのデニッシュとチョココロネである。それらが入っているビニール袋を右手に提げて教室に戻ろうとしたとき、見知った顔の女子生徒がふたり、廊下で話している姿が視界に入る。あまり見ない組み合わせだな、となんとなく考えながら扉に手をかけようとすると、そのうちの片方と不意に視線が合った。
「あ、火宮くん。ちょうどよかった!」
東屋は少し困ったような表情を浮かべて、俺に向かって手招きをしてきた。
東屋香織はクラスメイトの女子だ。ミディアムロングの黒髪をアイロンで少し巻くような、校則で許されている範囲内でお洒落を楽しむ、普通の少女である。
個人的にはつい先週に彼女のことを振ったばかりなのでいささかの気まずさがあるのだけど、名指しで呼ばれたからには応じないわけにはいかない。東屋に手招きされるがまま、俺は素直に彼女たちのそばへ近寄ることにした。
「火宮くんに、お客さんみたいだよ?」
「へ?」
彼女の言葉に、思わず間抜けな声を出してしまった。東屋はそんなこちらの様子に構うこともなく、それじゃあ私はこれで、とそそくさと教室に戻っていく。
俺に客、というのは、まあいい。特にここ最近は天野がつきまとってきていたし、誰かが俺の元を訪れてくるという状況にはもう慣れつつあった。
けれど、今日俺のところにやってきたのは見知った金色ではなく、初めて会話をする銀色だったのだ。
「初めまして、火宮さま。わたくし、A組の龍崎風歌と申しますわ」
と、先ほどまで東屋と話していた彼女——龍崎はそう言って、恭しく頭を下げた。
龍崎風歌。
天野とほぼ変わらない小柄な体格に、ふわふわとしたウェーブのかかった銀髪が特徴的な同級生の少女だ。
そのシルバーブロンドは人為的に染めたものではなく、純度百パーセントの天然物らしい。噂によると、彼女の母親がどうやらロシアの生まれらしく、龍崎はその遺伝子を色濃く受け継いで生まれてきたのだそうだ。
ハーフの美少女というだけでも十分に目立つ容姿をしている彼女ではあるけれど——事実、龍崎のことを知らない生徒なんてひとりもいないだろうと断言できるくらいに彼女は有名人なのだが、それは龍崎がハーフだからではない。
ひと言で言うと、彼女は芸能人なのだ。
もっと直接的に表現すれば、龍崎風歌はアイドルなのである。
現役女子高生四人組による『Elements』。それが、彼女の所属しているアイドルグループだ。
エレメンツはいわゆるローカルアイドルと呼ばれるグループなのだが、メンバー全員が高校生ということもあって、基本的にはインターネットでの活動をメインとしている。けれどその活動スタイルと、メンバー全員のスペックの高さ、楽曲やMVのクオリティの高さから多大な人気を博し、ただのご当地アイドルでありながら今では全国的に知られている存在となっていた。
当然、俺も龍崎のことを知っているし、彼女が隣のクラスに在籍していることも知っていた。知ってはいた、けれど。
「えっと……龍崎さんが、俺に何か用?」
そんな龍崎がどうして俺に会いにきたのだろう。そう考えて尋ねてみたけれど、しかし彼女は、
「あ、いえいえ。わたくしが火宮さまに御用があるわけではありませんの。わたくしはただの飛脚ですので」
と、俺の問いかけを否定した。
ですわとかですのとか、お嬢様風な口調が地味に気になったものの——飛脚?
江戸時代にあった、貨物や金銭を送り届ける仕事である、あの飛脚のことか?
思わず首をかしげた俺に、これですわ、と龍崎はあるものを手渡してきた。
それは昨日の放課後、雄助に貸した俺の電子辞書だった。
「…………」
「九条さまはほかにご用があるとのことで、わたくしがお届けに参りました」
「ああ、そうなんだ……ありがとう」
「どういたしまして、ですわ」
俺は表情では穏やかな笑顔を作りつつも、心の中では雄助への悪口雑言を叫んでいた。
あの野郎、よりにもよって龍崎をパシらせやがった。
廊下を通りがかる同級生たちの視線が痛い。早くこの状況を終わらせようと、俺は空いている左手で辞書を受け取る。
飛脚としての仕事を果たした彼女は、それでは失礼いたしますわ、と軽く頭を下げた。
ああ、これで解放される。俺はほっと息を吐いた。
が。
「はわっ」
昼休みの廊下に、突然変な声が響いた。
立ち去ろうとしていた足を止める龍崎。俺は嫌な予感を覚えながらも、聞き覚えのあるその声に目を向けた。
そこにいたのは天野唯だった。
肩にかけているトートバッグのベルトを握り締めて、驚いたように目を丸くして俺と龍崎のことを交互に見つめている。
こいつ、最悪のタイミングで現れやがった。
別に来てもいいけれど、せめてもう少し後に来てほしかった!
思わず天を仰ぐ。そんな俺にはお構いなしで、天野はそばに寄ってきたかと思うと何故かこちらの腕を取ってきた。
どうして腕を組む、とは思ったものの、わざわざ振りほどくほどのことでもなかったので、されるがまま腕を貸してやることにする。
「あ、あのっ……エレメンツの龍崎さん、ですか?」
「ええ、わたくしが龍崎風歌ですわ」
おそるおそる、といった様子で天野は龍崎に問いかけた。彼女がにっこりと笑ってそれを肯定すると、天野はぴゃっとまた変な声を上げて、俺の腕に絡ませた手の力を込めてくる。
「えっと、わたし、エレメンツのファンです!」
「まあ、ありがとうございます!」
「このあいだの新曲も、とてもよかったですっ!」
「気に入っていただければとてもうれしいですわ。……あら? どうして隠れるのですか?」
俺の腕を盾にするように、だんだんと龍崎から距離を取っていった彼女は、最終的には俺の背中にすっぽりと隠れてしまった。
そんな天野を覗き込もうとして、目の前にいた彼女が俺の横に移動する。すると天野は俺の身体を壁にしながら龍崎の反対方向へと逃げた。逃げる天野を追う龍崎。再び反対方向に行く天野。それを繰り返すふたり。
ちっこい金色と銀色が、俺の周りをぐるぐると回っている。
何なんだ、この状況は。
「……何してるんですか、あなたたち」
唐突に鼓膜を震わせたのは、呆れ返るかのような少女の声だった。追いかけっこをしていた天野と龍崎はその声にぴたりと立ち止まって、ふたりそろって顔を上げる。その視線の先には黒髪の少女が立っていた。
西城花姫だった。
……どうやら、状況はさらにカオスなことになってしまったらしい。
先ほど龍崎のことを有名人と述べたけれど、女子剣道部の主将であり、インターハイで優勝したほどの実力をもつ西城も、実は彼女に引けを取らないくらいに有名人だ。
アイドルと剣道少女、おまけに悪目立ちする金髪の後輩も一堂に会してしまっているので、こちらに向けられた関心の目はもう視線が痛いなんてレベルではなくなっている。……とはいえ、みんな西城を怖がっているのかさっさと通り過ぎていくのだが。
彼女はちらりと俺に視線を向け、後ろに隠れている天野を見て、最後に龍崎と目を合わせた。
龍崎はにっこりと笑う。それを受けて、ふ、と西城も笑みを浮かべた。ふたりはお互いに距離を詰めると、向かい合うようにして立ち止まる。彼女たちの身長差は十センチメートルくらいに見えた。
「これはこれはA組の歌姫さまじゃないですか。先日発表された新曲、既に再生数が十万回を突破したそうで? 素晴らしい限りです。ええ、ええ。同級生としてあなたのことをとてもとても誇りに思うのですよ」
「あらあらまあまあ、我が校の誇る剣道部の主将である花姫さまにご存知いただいていたとは恐悦至極ですわ。花姫さまこそ、今年の夏のインターハイも、当然代表に選ばれるのでしょう? ご活躍をお祈り申し上げますわ」
「当日は是非とも応援にいらしてくださいね。ところで、あなたご自慢のその御髪ですけど、今日はいつもより強めにウェーブを巻いてらっしゃるのですか? よぉくお似合いだと思うのですよ、ええとても」
「うふふふふふ。いえいえ、これは梅雨の湿気のせいでうねってるだけですわ。花姫さまのお美しい黒髪は梅雨にも負けないさらさらのストレートで、本っ当に羨ましい限りです。うふふふふふふふ」
ふたりとも笑っていた。けれど目は笑っていない。
皮肉の応酬とでも表現すべきその掛け合いに呆気にとられていると、唐突に、興が醒めたかのように西城が真顔に戻る。そしてそのまま踵を返して、何も言わずに教室へと戻ってしまった。
「それでは、わたくしはこれで失礼いたしますわ」
「え? あ、うん」
何事もなかったかのように話を戻した龍崎に少し戸惑いながらも、俺はなんとか頷いた。
ああ、そうですわ。彼女はそう呟くと、おもむろに天野の手を取って両手で包み込むようにぎゅっと握り締める。
「これからも応援していただけると、わたくし、とてもうれしいですわ」
握った手のひらを軽く上下に揺らしてから、龍崎は手を離す。そしてもう一度ぺこりと頭を下げると、俺たちの前から立ち去った。
やっと終わった……。
ただ貸したものを返してもらっただけのことだというのに、この極度の疲労感は何なんだろう。
俺はため息をついて、ちらりと天野に視線をやる。彼女はぽかんと口を開けて自分の手のひらを見つめていたけれど、やがてばっとこちらを振り向いてきた。
「ハ……ハ、ハルカ先輩!」
「何」
「ハルカ先輩ハルカ先輩っ!」
「だから、なんだよ」
俺の名前を繰り返し呼んでくる天野に対してややあしらいぎみに応じてやると、彼女はきらきらとした笑顔をこちらに向けてきた。
「エレメンツのフーカちゃんとお話しちゃった……握手もしてもらっちゃった……どうしよう! こんなときってどうすればいいのかな!?」
「喜べばいいと思う」
「そうだね! わーいっ!」
万歳をするように両手を上げる天野。素直なのはいいことだと思った。
そのとき、背後の教室の扉が突然開かれる。
「エレメンツの風歌ちゃん!?」
そう言って飛び出してきたのはあんずだった。普段は穏やかな振る舞いが目立つ彼らしくなく、何やら慌てている様子である。
「どうした?」
「遥がさっき話してた子、A組の龍崎さんだったの……?」
「そうだけど」
「風歌ちゃんここに来てたの!? なんで僕はそこにいなかったの!?」
いや俺になんでと言われても。そんな言葉が思わず口から出かけたけれど、ぎりぎりのところで耐えた。
それでも何故と訊かれたら答えないわけにはいかないので、とりあえず龍崎の用件と、ついでに彼女が天野と交わしたやり取りを簡単にあんずに教えてやる。俺の話を聞き終えた彼は、唐突に、あうーという奇妙な鳴き声を上げて顔を覆った。
「いいなあ……僕も握手したかったなあ……『もう一生手を洗わない』ってベタなこと言いたかったなあ……」
「それは本当にベタだな」
アイドルの手ってそんなに握りたいか?
俺自身があまり音楽に興味がないからかもしれないけれど、よくわからない感覚だと思った。
「先輩もエレメンツがお好きなんですか?」
「大好きだよ! 僕の推しは風歌ちゃんなんだけど、君は?」
「わたしもフーカちゃんが一番好きです!」
「いいよね! 風歌ちゃん! いいよね!」
そんなよくわからない感覚について考えているうちに、話題はいつの間にか、さらに俺のついていけないものへと移行していたらしい。それはそれで別に構わないのだが、廊下の真ん中でアイドル談義をするのは勘弁してほしかった。
「わかった。よくわかったから。とりあえず、続きは場所を変えてからやってくれ」
そう言ってふたりの背中を押そうとしたとき、不意に何かが足に当たった——というか軽く踏んでしまったようで、俺は視線を足元に落とした。
それは生徒手帳だった。
誰かの落とし物だろうか。あとで職員室に……いや、同級生なら直接教室に届けに行ったほうが効率的か。そんなことを考えながら手帳を拾って、名前を確認してみる。
丁寧な字で、龍崎風歌と書かれていた。
「…………」
無言で手帳をスラックスのポケットに入れて、そのまま立ち上がる。
これは今日の放課後にでも雄助に渡そう。どうせいつも通り旧校舎で絵を描いているだろうし。手帳はあいつから龍崎に届けてもらおう。うん、それが最善だ。
彼女には悪いが、今しがた会ったばかりだというのに、間も空けずに俺から龍崎の元を訪ねるようなことはしたくない。悪目立ちをしかねないその行為は、俺の平穏な日常にとって十分なデメリットになりうる。
まあ、もう今更なのかもしれないが。
今日何度目になるかわからないため息をつきながら、俺は天野のことを見た。こちらの視線に気付いたらしい彼女は、少し頭を傾けるような仕草をして、どうしたの? と訊いてきた。
なんでもない、と答えて俺は歩き出す。そんな俺の後ろを、ふたりはおとなしくついてきた。
* * * * *
「ふわふわの銀髪……小柄な身体……女の子らしい可愛らしさがあるっていうか、女の子の『可愛い』をあるだけ寄せ集めた完璧な容姿だと思うんだよ。彼女は僕の憧れなんだ」
「フーカちゃんの歌声ってね、本当に耳に心地いいんだよ。あの人の歌を聴くと心がぎゅっと掴まれちゃうみたいなの。歌姫って呼ばれるのもわかるくらい、本っ当に歌が上手なのっ」
龍崎風歌については、音楽にあまり興味のない俺でも一応の事前知識はあったのだけれど——まあ、事前知識と呼べる程度の情報では全然なかったのかもしれないが——それはあくまでも同じ学校に通う同級生としての彼女のプロフィールだったようで、俺は現在、アイドルとしての龍崎の魅力を左右から、まるでステレオのようにまくしたてられていた。
場所は屋上。三人掛けのベンチに俺たちは腰かけていた。左に天野、右にあんずという並びである。昼休みの屋上はいつもだったらそこそこな人数の生徒がいるのだが、今朝まで雨が降っていたからなのか、今は俺たち以外には誰もいないようだった。
歌姫、というのはこの学校における龍崎のニックネームだ。彼女はエレメンツのボーカル担当と呼ばれるほどに歌唱力に定評があるらしく、なるほど確かに、こうして実際に耳にしてみたら、龍崎の歌声は俺みたいな素人でもはっきりとわかるくらいに歌がうまい——天野から借りたスマートフォンで彼女たちの曲を聴きながら、そう思った。
龍崎の歌唱力はわかったものの、個人的にはそれほど興味が湧くわけではない。むしろ彼女の容姿を評価しているあんずと、歌声を称賛した天野のほうに意識が向いた。こういうところにも男女で違いがあるものなのかもしれない。
ともかく一曲聴き終えたので、端末とイヤホンを天野に返す。手渡されたそれの動きに合わせて、カバーに繋がっているストラップの向日葵が揺れたのが見えた。
そういえば、とあんずが口を開く。
「遥がA組の友達に貸した電子辞書を、その人に頼まれた風歌ちゃんが届けにきた……だったっけ?」
「アイドルをパシらせてくるとは思わなかったけどな」
思い出したらなんとなくむかついてきた。雄助め、覚えていろよ。そんなことを考えながら、俺は弁当の卵焼きを口に入れた。
弁当。
購買でパンを買った俺がいったい何故弁当を食べているのか。理由は簡単。天野が作ってきたからだ。
先ほど、屋上に到着するやいなや、彼女は肩にかけていたトートバッグからバンダナに包まれた箱のようなものを取り出したのだ。今日はお弁当を作ってみたの。そう言ってはにかむような天野の笑顔を目にしてしまうと、それを拒むことなんて俺にはできなかった。我ながら、本当に流されやすい。
だから俺はとっさにビニール袋を彼女の死角に隠して、おそらく父親のものなのだろうその箱を受け取ったのだった。
ちなみに味は普通においしい。少し薄味だけれど、その素朴さが個人的にはほっとする感じだ。
「遥、A組に友達いたんだね」
「友達くらい、他クラスにも普通いるだろ」
「それは、まあ、そうなんだけど……遥は転校してきたばかりなのに、コミュ力高いなーって思って」
「ん……ああ、まあな」
雄助は幼馴染みたいなものなので、あんずと違って転校してから知り合ったわけではないのだけれど、適当に頷いてごまかしておくことにした。別に隠すようなことでもないのだが、家のことや親戚関係のことを説明しなくてはならないのが少し面倒なのである。
「転校?」
と、天野が声を上げた。
「ハルカ先輩、転校してきたの?」
「ああ。今年の春にな」
「前は東京の学校だったんだってー」
間延びするように言ったあんずの言葉に、ふうん? と彼女は不思議そうに首をかしげた。
俺の父親はいわゆる転勤族と呼ばれる人で、彼の子供である俺も昔から転校が多かった。ここ数年は東京で暮らしていたのだが、今年の春に火宮のお膝元であるこの古鷹に戻ることになったのだ。
社会人の兄と大学生の姉は、そのまま東京に残った。高校生とはいえ俺も義務教育課程を修了しているし、そもそも就職や受験を控えている中途半端な時期に転校なんてするべきじゃない。だから本来なら、俺もそのまま姉さんと一緒に残ってもよかったのだろうが——
「……そんなことより、西城と龍崎って仲がよくないのか?」
「んー? そうだよ。遥は転校してきたばかりだから知らなかったかな?」
気になっていたことを尋ねてみると、あんずはあっさりと頷いた。
「あのふたり、新入生のころからあんな感じなんだよ」
「ふうん」
「僕は黒中だからよく知らないけど……鷹中出身の人が言うには、中学時代からずっとそうみたい」
「鷹中……」
鷹中というのは古鷹中学校の略称だ。同じ町に所在しているということもあって、近所である古鷹高校への進学を希望する鷹中生も多いらしい。だから西城や龍崎の母校が同じ鷹中だったとしても、それは別に不思議なことではないのだ。
けれど、そうか。鷹中ということは、雄助やあいつとも同じ中学校だったということか。
ふうん……。
「西城さんがみんなに嫌われてるのも、それが理由のひとつなのかもしれないね」
「ん……どういう意味だ?」
「ええと……ほら、西城さんってああいう人じゃない」
曖昧なあんずの言葉に、ああ……と、俺は理解するように頷いた。
西城のことを龍崎に引けを取らないくらいの有名人と表したが、それは彼女が龍崎のように華やかで、生徒たちに人気があるから——ではない。むしろまったくの逆で、西城がその名を馳せているのは美名ではなく悪名なのだ。
悪名といっても、別に彼女が何か悪事を働いたというわけではない。それどころか、西城は素行だけを見れば誰よりも模範的な優等生だったし、彼女の行いはいつでも正しかった。……正しすぎたことが間違いだったのだ。
西城花姫の性格は苛烈のひと言に尽きる。
彼女はすさまじくストイックで、一切の甘えを許さないほど自分に厳しく、そしてその厳しさを他人にも強要してしまうような少女だった。
剣道に本気で取り組んでいる西城は、その意識の高さを同じ部の部員たちにも要求していたらしい。元々部活動は盛んではないこの学校の運動部だ。所属している部員たちも未経験者が多かったのだろう。だからみんな、彼女の厳しさに耐えられなくて逃げるように退部していったそうだ。
けれどそれだって西城が悪いわけではない。彼女は剣道部の主将として完璧に振る舞い、部が掲げる理想を体現しようとしていただけのことなのだから。
しかしながら、正しすぎる人間が嫌われるのは世の常というもので、苛烈の度を越している西城に対して好印象をもっている生徒は少ない。校内にも多くのファンがいる龍崎とは真逆といえるだろう。
「学校で一番『敵』の多い西城と、学校で一番『味方』の多い龍崎、か……」
だからこそ、彼女はより生徒たちから忌避されることになったのだろう。人気者である龍崎との対立は、彼女の味方がそのまま西城の敵になるようなものなのだから。
とはいえ勿論、だからといってそれが迫害を許す理由にはならないのだけれど。
「でも僕、西城さんは他人に対して無関心な人だって思ってたよ。自分の席に傷をつけられたり、悪口書かれたりしてもあんな反応だし」
「……、……まあ、それはわかる」
「風歌ちゃんは風歌ちゃんで、誰に対しても優しい、本当にいい子なんだよ? ふたりとも、どうしてお互いに突っかかるんだろうね」
「なんでだろうな」
正直、その点は特に興味がない。西城と龍崎がどんな風に争っていて、どのように不仲だったとしても、それは俺には無関係なことなのだから。
今日みたいに巻き込まれさえしなかったら、俺にはメリットもデメリットもない話だ。
「あんずも西城のことが嫌いなのか?」
「僕? んー……厳しい人だなーとは思うけど、別に嫌いじゃないよ」
案外穏やかな口調であんずは答える。なんとなく訊いてはみたものの、そもそも彼は誰かを嫌いになったりするのは苦手そうだと思った。
「——むしろ、あの無関心さには、少し救われるかな」
独り言のような、あんずの呟きが聞こえた気がした。
思わず彼のほうに視線を向けると、あんずは唐突に、あ、と声を上げた。そして俺の左隣で静かに自分の弁当を食べていた天野に向かって口を開く。
「ごめんね、天野さん。三年の話なんてされてもつまらなかったよね」
「へ? ふぁいふぉーふれふよ?」
「なんて?」
「ん、ん……えへへ、ごめんなさい。つまらなくなんてないですよ? 全然、大丈夫ですっ」
ちょうど彼女は口に食べ物を口に含んでいるところだったらしく、それをきちんと飲み込んでしまってから、あらためてそう言い直した。
「ハルカ先輩が楽しそうだと、わたしも楽しいから」
そう言って、天野は本当に楽しそうに笑った。
その無邪気な笑顔を目にすると、この少女に楽しくない時間なんてあるのだろうか、などという感想をつい抱いてしまう。まあ普通に考えたらないわけがないので、俺は思考を切り替えて昼食の続きに徹することにした。
そういえば、誰かが作ってくれた弁当を食べるのは初めてかもしれない。なんとなく、そんなことを思った。
* * * * *
昼食を終えて、俺たちは屋上から下りた。じゃあね、とそのまま二階へと向かう天野を見送ってから、俺とあんずは教室へ戻ろうと階段に背中を向ける。
そのとき、廊下の向こう側からこちらに歩いてくる人影が視界に入る。その人物を認識すると同時に、
「……げっ」
と、思わずそんな声を漏らしてしまった。
黒い半袖のスポーツウェアと、ジャージのズボン。それだけ見たら普通にスポーティなだけの服装を、彼はその長身に纏っている。年齢は二十五歳くらい。濡羽のような黒髪をもつ、若い男だった。
そして物騒極まりないことに、何故か木刀を携えている。
木刀。百歩譲って竹刀ならまだしも、今時木刀なんて修学旅行生でも持ち歩かないだろう。そんなものを手にして校内を歩いている人間になんて、できることなら一生近付きたくないと思った。
彼の名前は黒神剣。名付け親のネーミングセンスを疑いたくなるような名前をもつ彼はこの学校に勤めている体育教師であり、生徒指導も担当している人だった。
逃げたい。逃げ出してしまいたい。けれど教室に戻るためには避けて通ることはできない。諦めるしかないのだ。
あんずの広い背中の後ろに隠れながら、重い足を引きずるように歩いた。そんな俺に対して、彼はちらりとこちらに視線を寄越してくる。
「黒神先生のこと、そんなに苦手?」
「……好きにはなれないなあ」
「大丈夫だよー。怖くなーい怖くなーい」
「いや、別に怖いわけじゃ……」
怖いわけじゃない、と言いかけてその口をつぐむ。それは脚色のない俺の本音だったけれど、まるで小さな子供をあやすかのようなあんずの言葉には、何を返しても言い訳にしかならないような気がした。
彼を盾にするように、俺はペースを乱さずに歩き続ける。先生とはお互いにあと五歩ほど歩けばすれ違うような距離だ。軽く会釈でもして、そのまま通り過ぎてしまおう。
別に先生のことが怖いわけではない。嫌いなわけでもない。ただ単に苦手なのだ。あの人とは関わりたくないのだ。何を考えているのか今ひとつ読みにくい目をしているからというのも理由のひとつではあるけれど、それ以上に——
「萩原」
すれ違おうとした瞬間、先生が低い声であんずの名前を呼んだ。
心臓が大きく鼓動を打って、俺は思わず目の前にいる彼のシャツを掴んでしまう。
声をかけられたあんずは、はい? と返事をして、先生と向かい合うように立ち止まった。
「その髪、試験の前にはどうにかしたほうがいい」
「あー……やっぱ駄目ですかね。切ったほうがいいですか?」
「駄目とは言わない。が、切って整えるか……あるいは結んでまとめておいたほうが清潔感はあるだろう」
「ですよねえ」
わかりましたー、と彼が間延びした口調で返事をすると、先生はどことなく満足そうな表情で頷いた。思いのほか穏やかなそのやり取りに俺はほっと息を吐いて、掴んでいたあんずのシャツから手を離す。
先生が指摘した通り、彼の髪は男にしては少し長めだ。雄助ほどではないけれど、襟足のあたりとかゴムで軽く縛れそうに見える。まあ、散髪を面倒がって伸ばしっぱなしにしているあいつと違って、あんずはただ単に切り忘れていただけなのだろう。
「それと火宮」
「っ、……はい」
まさかこちらにも話しかけてくるとは思わなかったので、リアクションが一瞬遅れてしまった。
いったい俺に何の用があるというのだろう。校則違反なんてしていないけれど……と、反射的に自分の身体を見下ろしかけたが、間髪入れずに続けられた先生の言葉に、一瞬、思考が止まることになる。
「夜鷹は息災にしているだろうか」
「……………………、…………知りません」
俺は、何も知らないです。長い沈黙の末に、ようやくそんな言葉を喉から絞り出した。
「そうか。では」
先生は表情ひとつ動かさず、それだけ言うと俺たちの前から立ち去った。
あんずは不思議そうな顔を浮かべながら、しばらくのあいだその背中を見送っていた。やがて先生の姿が見えなくなると、その視線をこちらに移動させてくる。
「夜鷹、さん? って、誰?」
「共通の知り合い」
短く答えると、ふうん? と彼はやはり不思議そうに首をかしげたけれど、特に興味もなかったのかそれ以上は何も訊いてはこなかった。正直、根掘り葉掘り訊かれなくてよかったと心から思いながら、俺は嘆息する。
これだから、あの先生と関わるのは嫌だったんだ。
あの男の知り合いだってわかっていたから、近付かないようにしていたのに。
ああ、本当に——
「——本当に、最悪だ」
無意識に、そんな呟きが口から漏れていた。
けれどありがたいことに、その言葉は誰に届くこともなく、無事に死んでくれたらしい。
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