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第2話『グラジオラス』(後)
放課後。いつものように旧校舎に訪れると、どこからともなく単調な旋律が耳に届く。昨日には耳にしなかった音だ。たぶん、二階の吹奏楽部が楽器をチューニングでもしているのだろう。雨が降ろうと雪が降ろうとほぼ毎日のようにこちらに来る雄助と違って、彼らは雨天の日には練習をしに来ないのだと、いつだったか教えてもらったことがある。
一年D組の扉を開けると、雄助は既に教室の中にいた。天野はまだ来ていないようだった。
「よっ」
彼はパネルの準備をしていた手を止めて、そんな風に挨拶をしてくる。普段通りのやり取りだったけれど、今日はいつもと変わらないその気さくな態度がなんとなくむかついた。
「お前なあ、アイドルをパシらせるなよ」
「仕方ないだろ。俺にも用事があったんだから」
「だとしても人選ミスが過ぎるだろ。よりにもよって龍崎だなんて」
「あれ、ハルってあいつのこと嫌いだったっけ」
「好きとか嫌いとかいう話じゃない。いや、別に嫌いじゃないけど」
「じゃあ何が問題なんだよ」
「龍崎が芸能人ってとこがだよ」
「は? ……あっ。あーあー、そういうことか」
あーね、と言いながら雄助は納得するように頷く。
「お前、本当に目立つの嫌いだよな」
「好きなやつなんていないだろ」
「いるじゃん。身近に。派手好きなのが」
「…………」
俺が無言で睨みつけると、彼は軽く肩をすくめた。何か言ってやろうかと思ったものの、まあいいかと諦めることにする。雄助は俺の味方だけど、だからといってあいつの敵というわけでもないのだ。
今度から気をつけてくれよ、と椅子に腰かけながら念押しすれば、はいはい、と彼が適当に頷く……と、そんなタイミングで教室の扉がノックされた。
「こんにちはっ」
おかしな敬礼みたいなポーズを決めながら、天野が現れた。昼休みにも似たようなことを思ったけれど、彼女にはテンションの低い瞬間というものが、ひょっとしたら本当に存在しないのかもしれない。
天野は教室の中に入ってくると、昼にも見たトートバッグを何やらごそごそと漁り始めた。
「今日はね、差し入れがあるの。絵を描いてくれるお礼も兼ねて」
「差し入れ?」
言うが早いか、彼女は五百ミリリットルのペットボトルを二本取り出す。購買の横に置いてある自販機で売っているスポーツドリンクだった。
「まだ初夏だけど、水分補給はいつでも大切だから」
そう言って、天野はペットボトルをそれぞれ俺と雄助に手渡してくる。確かに梅雨の時期にも熱中症になると聞くし、飲み物を貰えるというのは素直にありがたい。
俺は彼女からペットボトルを受け取ると、自分のリュックサックから財布を取り出した。
「ありがとう。いくらだった?」
「へ?」
「これ、いくらだったんだ? 払うよ」
「お金? 別にいいよ?」
笑みを浮かべてそう言う天野。遠慮しているという風でもなく、本当に必要ないとでも言いたげな——むしろどうしてそんなことを訊いてくるのだろうと疑問さえ抱いていそうなその声色に、正直、少し戸惑った。
彼女は絵を描いてくれるお礼と言っていたけれど、もしかしたら俺に対する恩返しも兼ねているのかもしれない。だとすればこの少女に納得してもらうのは少し骨が折れそうだ。
さてどうしようかと考え込んでいると、雄助が助け舟を出すかのように、
「天野、先輩の顔は立てたほうがいいぞ」
と言ってくれた。
別に先輩風を吹かせるつもりはないのだが、年下の女の子に物を貢がせるに近い今の状況は、年上としても男としてもあまり甲斐性があるとは言えない。だからそういった意味では、天野には是非とも後輩らしく振る舞ってほしいところだ。
彼女は雄助の言葉に少しだけ首をかしげると、俺のほうに向き合った。
「ハルカ先輩は、そのほうがいい?」
「え?」
「ハルカ先輩は、そのほうが幸せ?」
微笑をたたえながら、天野はそう問いかけてきた。
幸せ……幸せ、か。そんな大袈裟なものではないけれど、お礼と称されて貢がれるよりは断然ましであることに違いないだろう。
「まあ、そっちのほうがよくはあるかな」
「わかった!」
そういうことなら、と彼女が示した金額を俺たちは返す。ちなみに雄助は小銭を持っていなかったので俺が立て替えた。
「あと、今度から俺の分の弁当は持ってこなくていいから」
「弁当?」
俺の言葉に、ボトルの蓋を開けようとしていた彼が反応した。しまった、雄助には言っていなかったか。
天野は表情に笑みを浮かべてはいたけれど、こちらの様子を気にしているのか、ほんのわずかに眉を下げた。
「迷惑だったかな?」
「いや、そうじゃなくて……悪いだろ。作るのだってタダじゃないのに」
「気にしなくても大丈夫だよ? わたしが好きでしてることなんだから」
「あー、なんて言ったらいいかな……」
「ハルは好きで菓子パン食ってるんだよ」
どう言ったものか言葉に迷っていると、彼が再び口を挟む。
「言ったろ? こいつ甘党だって」
「あ、そっか!」
彼女は得心がいったかのように声を上げて、軽く手を打ち合わせた。どうやらわかってくれたらしい。さすが五人兄弟の長男。年下の扱いに慣れている。
「なあ天野、折角だからOBの作品も見てみたくないか? こっちはまだ準備に時間かかると思うからさ」
「わーっ、見たいです!」
そうかそうかと笑いながら、雄助は自分の荷物の中から鍵の束を取り出した。たぶん本校舎の職員室で借りてきた、ここと隣の教室の鍵だろう。
彼はそのうちのひとつを手に取ると、A組には近付くなよ、と昨日にも聞いた忠告をもう一度繰り返してから鍵を天野に手渡した。
はーい、と彼女は素直に返事をして、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら教室を後にする。雄助はその後ろ姿をしばらく微笑ましそうに見つめたあと、俺と向かい合うように椅子に座り直して——す、と真顔になった。
「で、弁当って何」
「…………」
まるで尋問を受けているような気分だ。
別にはぐらかすようなことでもなかったから、俺は昼休みの出来事を彼に白状した。龍崎や西城、あんずとのやり取りは特に関係がないので、天野のことだけ簡単に。
俺の自供を聞き終えた雄助は、はあん、とつまらなそうに呟いた。
「恩返し、ねえ……弁当作ったり飲み物差し入れたり、健気なことだな」
「まあ、そうだな」
「それで、ハルは天野をどうするつもりなんだ」
「どうって、何が」
「ごまかすなよ。あいつ、確実にお前のこと好きだろうが」
「…………」
俺は無言で肩をすくめた。
「好意は寄せてもらってると思うけど、それは命の恩人に対する気持ちだよ。なんでもかんでも色恋に結びつけて考えるのは相手に対して失礼じゃないか」
「だからごまかすなって。なんで俺相手にごまかすんだよ……ハルも本当はわかってるんだろ? わかってるくせに気付かない振りをするほうが天野に失礼だし、何より残酷だ」
雄助は珍しく真摯な口調で、言い聞かせるようにそう返してくる。
ああ、そうだった。こいつは優しいけれど、でも決して甘くはないやつだから、俺のはぐらかしを許してはくれないのだ。
「そもそもハルは天野の何が嫌なんだよ。空から落ちてきた美少女とのボーイ・ミーツ・ガール……お前好みのベタな展開だろ? ハルそういう映画好きじゃん」
「リアルとフィクションは別物だろ」
あと確かに映画は好きだけど、そういうベタなラブロマンスはあまり観ない。そう言い返したら、ふうん、と彼はいかにも興味がゼロといったリアクションを返してきた。
「まあ、ハルの好きにすればいいと思うけどさ……俺は天野のことも結構気に入ってるんだよ」
「雄助は色素薄い系女子大好きだもんな」
「そうそう、天野の白い肌と金髪は最高だと思うわ。ただ胸のサイズがちょっとばかしささやかすぎるんだよなあ。龍崎もそこんとこが本当に惜しい。だからやっぱ俺の理想はD組の……って、ちげえよ! 今は俺の性癖なんて関係ねえんだよ!」
「俺だってお前の性癖なんか興味ねえよ」
親友の性癖なんて知りたくもなかった。
見知らぬD組の女子、今すぐ逃げてくれ。
ごほん、と。雄助は空気を仕切り直すようにひとつ咳払いをした。
「とにかく。俺が言いたいのは、時には拒絶するのも優しさだってことだ。餌を与えるのは初めのうちだけなんて、ハルにとっても本意じゃないだろ?」
「まあ、な」
「そもそもらしくないんだよ。確かにお前は事なかれ主義かもしれないけど、だからといって主体性のないイエスマンってわけでもないだろうが」
「うん、わかってる」
俺は頷いた。
こんなのは自分らしくないって、自分でもわかっている。わかっている、つもりだ。
けれど天野唯を拒絶するというのは、まるで無垢な子供にそうしているかのような罪悪感があって——それ以上に、言葉では表現しきれないほどの違和感があるのだ。
デジャヴとは少し違う既視感……いや、むしろこれは、知っているはずなのにまったく知らない、といった感覚に近いかもしれない。しかし末弟である俺は年下を拒絶した覚えも喧嘩をした記憶もないので、この違和感は結局のところただの気のせいでしかないのだろう。
雄助が椅子から立ち上がって、絵の具などの準備を再開し始めた。話は一旦これで終わりということだろう。俺はなんとなく、隣の教室にいる天野のことを思い浮かべた。
「そういえば、なんでA組に近付いたら駄目なんだ?」
「ああ、言ってなかったっけ? セックスしてるからだよ」
「ふうん……、……はあっ!?」
思わず大きな声を上げてしまった。そんな俺に対して、彼はなんでもないことのように言葉を続ける。
「昔の鷹高は一学年四クラスで、旧校舎各階のC組とD組の教室を芸術系の部活動が使ってるっていうのは、ハルも知ってるよな?」
「あ、ああ……三階が書道部で二階が吹奏楽部だったか」
「そう。つまり旧校舎の教室は六部屋余ってるってことなんだけど、この余っている教室のうち、各階のA組をヤリ部屋として使ってる馬鹿がいるんだよ」
「……教師はそれを知ってるのか?」
首を横に振る雄助。それは予想できた答えではあったけれど、だからこそ肯定してほしかった。
「先生たちに教えたほうがいいだろ」
「悪いけど、それはできない。書道部と吹奏楽部のやつらも、みんな見て見ぬ振りしてるんだ」
「なんで」
「それが竹河たちだからだよ」
端的に放たれたその言葉に、俺は何も言うことができなかった。それでもなんとか言葉を紡ごうとした——そのとき。
「ただいま戻りましたっ」
と、天野が教室に戻ってきた。
同時に、俺も雄助も口をつぐむ。こんな話、後輩の女子には到底聞かせられない。
画材の準備をしていた彼は、少し硬い笑顔を天野に向けた。
「どうだった?」
「すごかったです! なんというか、こう……わーって感じでしたっ!」
「だろ? OBの作品の中でも厳選したものを保管してるって先生が言ってたぜ」
「なるほどー」
彼女は無邪気に笑う。それを受けて、雄助の表情も少し柔らかくなった。
天野が戻ってきてくれたおかげで、教室内に漂っていた空気が一気に弛緩したのを感じる。それは俺と雄助、ふたりのあいだだけに漂っていた空気ではあったのだが……とにかく、彼女の場違いなまでの天真爛漫さに救われたような気がした。
そして完全に雰囲気を切り替えるように、ぱんっ、と彼が手を鳴らした。
「んじゃ始めるか。天野はここ座って」
「はいっ」
「ハルは飴」
「ん」
俺は適当に取り出した飴を雄助に投げ渡すと、彼と向かい合うように配置されている椅子にちょこんと腰かけた天野に飴の袋を見せた。
「何味がいい?」
「レモン!」
即答かよ、と失笑しながら、俺は彼女に昨日と同じ味の飴を手渡した。それから椅子に座り直すと、ひとつのフィルムを剥がして自分の口に入れる。イチジク味だった。なんでこんなマイナーなフレーバーまであるのだろう。
「~~~~♪」
飴を口に含みながら、天野は機嫌がよさそうに鼻唄を歌っていた。よっぽどレモン味がお気に召したらしい。
そのハミングを耳にして、パネルに筆を走らせている雄助は顔をほころばせた。
「歌うまいな」
「そうですか? 自分じゃよくわからないけど……でも歌うのは好きです!」
「うまいうまい。ハルは音痴だからな」
「言うなよ!」
俺が言わなかったら誰にもばれないことなのに。……いや、雄助みたいに知っているやつは知っているのだから、口止めしていなかった俺が迂闊だったのだ。
そんな俺と彼の掛け合いが受けたのか、彼女は鼻唄まじりにくすくすと笑っていた。
「そういえば天野って日本人っぽい名前だけど、ハーフなのか? それともクォーター?」
と、雄助が言った。
令和も始まったばかりのこの時代、外国の血が流れている日本人もそう珍しいものではなくなったように感じる。けれど天野はハーフやクォーターと呼ばれる人たちと比べると、顔立ちにアジア人らしい要素があまり見られないように思えた。
彼女は少しだけ言葉に迷うような素振りを見せたけれど、すぐに口を開いた。
「ごめんなさい、わからないんです。白人系だとは思うんですけど」
「わからない?」
「わたし、捨て子だから」
「…………」
「だからわたしは、わたしの本当の名前も、わたしの本当の国籍も、わたしの本当の誕生日も、何も知らないんですよ」
パスポートとか作るときどうなっちゃうのかな、と天野は呟いた。
その答えに、問いかけた彼は筆を止めて、そして笑みを浮かべたまま絶句していた。その笑顔はわかりやすいくらいに作り笑いだったけれど、正面に座っている彼女はどうやら気がついていないらしい。
言葉を失ってしまった雄助の気持ちはよくわかる。もしもポジションが逆だったら、俺も同じように黙ってしまっただろう。
天野が捨て子だという事実に対してどんな言葉を返すべきか見つからない、というのは勿論——そんなことをあっけらかんと、まるで普通のことのように口にした彼女に、俺たちは唖然とするほかなかった。
いや、普通のことのようにも何も、本人にとってはそれが当たり前なのだから、案外これが自然な反応なのかもしれない。
なるほどな、と雄助は呟いて、筆を止めていた手を再び動かし始めた。その声に取り繕うような響きがあったことも、きっと俺しか気付いていないのだろう。
「それにしても綺麗な金髪だよな。やっぱ天然ブロンドは合成着色料とは全然違うわ。ハルもそう思うだろ?」
「ん……ああ、そうだな。向日葵の色みたいだと思う」
あと染髪剤を食紅みたいに言うなよ。そんな風につっこみを入れれば、雄助はけらけらと笑う。そうやって、空気を変えようとしている彼の意図に乗ってやることにした。
ふと視線を感じる。見れば、天野が目を丸くしてこちらを見つめていた。
「どうした?」
「……えへへー」
彼女は妙な間を置いてから、やがてはにかむように笑う。
変なやつだ。いや、天野がおかしなやつだということは、初めて会ったときからわかってはいたのだけれど。
それでもこの金色の少女を拒絶することができないのだから、本当に、俺はどうしようもなく流されやすいのだろう。
雄助の言う通りだ。こんな俺は俺らしくない。
何より、今の日常をそれほど悪くないと思っている——そんな自分自身が、一番火宮遥らしくなかった。
* * * * *
今日はここまで。雄助は唐突にそう呟いて筆を止めた。
その声を受けて、俺は腕時計で時間を確認する。おおよそ昨日と同じ時刻だった。このあたりが彼の集中力の切れるころなのだろう。
雄助の後片付けを天野と手伝いながら、その最中にふとあることを思い出したので俺は彼女のほうを向く。
「ああ、そうだった。俺と雄助は明日用事あるから、天野は普通に帰っていいよ」
「え? 何かあったか?」
「……火宮総会」
「あ。……あー、忘れたままでよかったわ」
思い出させんなよ、と彼は面倒そうにぼやく。どうせ今夜あたりには嫌でも思い知らされることになるのだから、その前に思い出させてやったことを感謝してほしいものだ。
雄助に対して呆れにも似た感情を抱いたところで、教室の後ろでパネルを片付けていた天野がこちらを振り向いた。
「わたしもね、明日はちょっと予定があったの」
「そうか。じゃあ、ちょうどよかったな」
そんな話をしながらも俺たちは残りの画材の片付けを済ませて、扉や窓もきちんと施錠を確認してから旧校舎を後にした。
玄関で旧校舎用のスリッパとスニーカーを履き替えていたら、校庭のほうから運動部の掛け声が響いてきた。たぶん、野球部だろう。今年は強い一年生が入ったとクラスメイトから聞いたが、決して強豪とは呼べない我が校の野球部は来月から始まる甲子園の地方大会でどこまで勝ち進められるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えつつ、三人で本校舎へと向かって歩いていると、
「あ!」
と、天野が突然大きな声を上げた。何事かと振り向いたときには既に彼女は走り出していた後であり、俺と雄助はわけもわからず慌てて追いかける。
「向日葵! もうこんなに育ったんだねっ」
ややあって追いついた先で、天野は弾けるような笑顔をこちらに見せてくる。そこは中庭だった。古鷹高校の校舎はコの字型であり、南校舎と北校舎に挟まれた中心にその中庭はある。
そして北校舎——生徒棟の脇に位置されている花壇の前に、彼女は立っていた。
赤茶色の煉瓦で囲まれたそこには背の高い植物が隙間なく生えていた。それは既に俺の目線あたりまで伸びているものの、密生している緑はまだつぼみすら見せていなくて、天野に言われなければ向日葵とはわからなかっただろう。
「これ……全部向日葵の花壇か? 花が咲いたら窓も見えないだろ」
「そっか、ハルカ先輩は転校してきたから知らないんだね。カーテンみたいで案外涼しかったよ」
「でも手入れがめんどっちいんだよなあ。一年が持ち回りで世話すんだよ、ここ」
わたしは楽しかったですよ、と彼女はまた笑う。なるほど、向日葵の咲いた夏の教室も花壇の手入れも、ふたりとも一年生のときに経験しているのか。
「天野は向日葵が好きなのか?」
「大好きです!」
雄助の問いかけに、天野は満面の笑みを見せながら答える。それは何の混じり気もない、それこそいずれ咲くだろう向日葵もかくやというような、眩しい笑顔だった。
そんな彼女の答えを聞いて、俺は得心がいく。どうやら旧校舎での彼女の妙なリアクションは、自分の髪を大好きな花に例えられたのがうれしかったからのようだ。
そういうことかと納得したはいいものの、なんというか、それはそれで落ち着かない気分になってくる——と。
そんなことを考えていると、不意に、見覚えのある生徒の姿が視界の端を通り過ぎた。
龍崎風歌だ。
下校しようとしているところだったのか、彼女はシンプルなスクールバッグを手に、何故かほんの少しだけ早足で歩いている。
その姿を目にして、俺はポケットに入れたままにしていた龍崎の生徒手帳のことを思い出す。しまった、雄助から彼女に渡してもらうつもりだったのに、すっかり忘れてしまっていた。
さて、どうしようか。俺は少しだけ行動の選択に迷って——そしてこの程度のことに迷う自分自身に少し嫌気がさしてきたので、とっとと決めてしまうことにした。
「ちょっと用事を思い出した。ふたりは先帰っていいよ」
「うい。じゃあな」
「あ、ハルカ先輩っ」
ふたりと別れようとすると、天野が俺を引き止める。
「また明日、お昼休みに、会いに行ってもいいかな?」
彼女は唇に微笑を含ませたまま、覗き込むようにこちらを見上げてきた。その澄んだ瞳の底に自分の影が映っているのが見えて、俺は思わず目を逸らす。
「駄目かな?」
「……教室に来られるのは、少し困る」
「そっか。じゃあ、明日からは」
「だから」
俺は天野から顔を背けたまま言う。
「だから……明日からは、屋上に行ってほしい」
「へ?」
「俺とあんずも行くから。……これからは、それでいいか?」
「! うん! ありがとうっ」
えへへ、という笑い声が聞こえて、ちらりと彼女のことを見てみた。天野はこれ以上なくうれしそうに笑っていて、その表情を明るい喜色に彩っていた。
不意に、はあ、とため息をつくような声が聞こえてきた。見れば雄助がやれやれとでも言いたげに肩をすくめている。言いたいことはなんとなくわかるけれど、なんとなくわかったからこそ俺は無視することにした。
「じゃあね、ハルカ先輩っ」
「ああ、また明日」
大きく手を振る彼女に軽く手を振り返してやって、俺はその場を後にした。そしてその足で龍崎の姿を追う。彼女は妙に足取り早く校舎裏へと向かっているところだった。
校舎裏——先週、俺が東屋に告白された場所だ。
龍崎も誰かに呼び出されたのだろうか。だとしたら少し面倒だな。そんな可能性を思案しつつ校舎裏を覗いてみると、そこには彼女ひとりしかいなかった。
そのことに安心して、俺は龍崎の背中に声をかけようとする。
「あ、龍ざ——」
「あーもー!」
突然。
彼女は叫んだ。
「何が『わたくし』よ! なーにが『ですわ』よ! なんなのよ、そのお嬢様キャラは!」
激しく足を踏み鳴らしながら、そう怒鳴る龍崎。
昼休みに見たはずの恭しい振る舞いや丁寧な喋り方は、そこにはない。そこにはどころか、どこにも、欠片も見ることはできなかった。
まるで、俺の知っている彼女とは——俺が知っていたはずの龍崎風歌とは、別人のようだ。
「そんなだから顔とキャラで売れたとか言われるのよ! うるさいうるさいうるさいうるさい! 歌を聴きなさいよ! 顔が好きとかキャラが好きとか言うやつらは私たちの歌を聴きなさいってのよ! ……もーおっ!」
やばい。
これは、絶対にやばい。
きっと——いや、たぶん間違いなく、これは俺が見てはいけなかった光景だ。
思わず逃げるように後ずさったそのとき、ぱき、と木の枝が折れるかのような音が足元から響いた。
いや、『ような』も何も、木の枝を踏んで折った音そのものだったのだが——その音に、彼女は肩を大きく跳ねさせてこちらを振り向いた。
「ひ、火宮……さん?」
目と目が合って数秒後。龍崎はまず顔を赤くさせて、それからすぐに蒼白になる。
俺はとりあえずポケットから取り出した彼女の手帳を差し出して、極めて紳士的に笑ってみせた。
「こんにちは龍崎さん。これ落としてたよ」
「なかったことにしてんじゃないわよ!」
あとどうもありがとう! と叫びながら龍崎は手帳をひったくる。見るからにうろたえていながらも感謝の言葉を忘れないあたり、彼女はどうやら律儀な性格なのだろう……とは言うものの、だ。
「……見なかったことにしてあげるっていう、俺なりの優しさだったんだけどな」
「あ」
龍崎は青い顔を再び紅潮させた。それから、なんで、だとか、どうしてこんなとこに、だとか。そんなことをぶつぶつと呟き始める。どうやらまだ頭が混乱しているらしい。
その狼狽っぷりのおかげで、俺のほうはむしろ冷静になれてきた。さあ、どうする。このまま、もう一度『何も見なかった』ことにして帰ってしまうのが最善だろうか。けれどそれは『普通の男子高校生』らしいリアクションとはたして呼べるだろうか。
数秒悩んだのち、
「……アイドルって、やっぱり辛い?」
と、俺は訊いた。あくまでも、同級生の女子を気遣っているだけ、という口調を装って。
そんな俺の質問を受けて、彼女は力を失ったかのように俯いた。
「歌うのは、好きよ。私、歌いたくてアイドルになったんだもん」
「それならいいじゃないか」
「でも『ですわ』はそろそろつらくなってきたー!」
そんな風に喚く龍崎に、なるほど、と俺は思った。
彼女のお嬢様のような振る舞いは、どうやらアイドルとしてのキャラ作りだったというわけだ。しかも普段の高校生活でもそのキャラを貫いていたということらしい。
けれどそんなキャラを保つことにも我慢の限界がきていて、だから龍崎は先ほどのようにひとり叫ぶことでストレスを発散していたのだろう。そして最悪なことに、そこにたまたま俺が現れてしまったということか。
俺が状況を再確認していると、突然、彼女ははっと我に返る。
「き、今日見たこと、誰にも言いふらすんじゃないわよ」
「言わないよ。そもそも信じてもらえないだろうしね」
「約束よ? もしも破ったら、雀に言いつけてやるんだからね」
「……恐ろしいことを言う女だな」
思わず本音が漏れてしまったものの、どうやら龍崎には聞こえなかったらしい。彼女は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに、こほん、とわざとらしくひとつ咳払いをする。
それから龍崎は手を後ろに組むと、上目遣いでこちらを見つめてくる。なんだかあざといポーズだな。そんな感想を抱いていると、彼女はにっこりと笑ってこちらに指先を伸ばしてきた。
「ふたりだけの、ヒ・ミ・ツ、ですわよ?」
ひと言ひと言区切るように、いつものお嬢様風な口調でそう言って、ちょん、と細い人差し指で俺の鼻先に触れてきた。とどめにウインクをひとつ。さすが芸能人。オンとオフと切り替えが早いうえにサービス精神が旺盛である。
一連の行為はややわざとらしくはあったものの、なるほど確かに、アイドルである龍崎らしいパフォーマンスだと思った。あんずが見たら死ぬかもしれない。
…………。
いや、これあんずにばれたら俺が殺されそうだな。
約束を破るつもりなんて端からなかったけれど、今回の件は墓場まで持っていこうと、俺はあらためて心に誓う。
龍崎はこちらから指を離すと、一歩、後ろに下がる。そしてそのまま一礼して、それでは、と立ち去ろうとした——のだが。
「……あのさ」
ほとんど無意識のうちに、俺は彼女のことを引き止めていた。
「……昼休みの女の子、覚えてるかな」
「勿論、覚えてますわよ。彼女が何か?」
龍崎は微笑んでいる。素晴らしいポーカーフェイスだ。俺も見習いたい。
同じように笑顔を作ってみせようかと思ったけれど、考えて、迷って、それから少しだけ——本当にほんの少しだけ、表情を崩してみることにした。
そして、彼女と向かい合ったまま、俺は口を開く。
「あいつは、龍崎さんの歌声が好きだよ」
「…………」
「顔じゃなくて、キャラでもなくて、歌声が好きだって。あんたの歌を聴くと心が掴まれるみたいだって……そう、言ってた」
「……ありがとう」
龍崎は静かな、けれど決して弱くはない声で言う。
「あの子によろしくね。私、がんばるから」
胸の前で小さくガッツポーズをして、彼女は笑う。それは曇りのない笑顔だったように見えた。
お嬢様キャラより、素のままでいたほうが可愛らしいんじゃないだろうか。そんなことを考えたけれど、それを言ったところで俺にメリットがあるとは思えなかったので黙っておくことにした。
それから龍崎は、今度こそこちらの視界から去っていった。その後ろ姿を見送って、俺はため息をつきながら空を見上げる。
そこには、相も変わらず灰色の曇天が広がっている。厚みのある雲が空を覆うと、まるでそれが町に湿った空気を閉じ込めているように感じてしまって、一層気が重くなるように思えてくるのだ。
明日の夜には総会がある。その事実が、また俺を憂鬱にさせるのだった。
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