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第3話『弟切草』(前)
六月三日、水曜日。四限の授業を終えて、俺とあんずは更衣室から教室へと戻ろうとしているところだった。
今日も空には暗い雲が垂れ込めている。今朝の天気予報では夕方から再び雨が降り始めると言っていた。なんだか今夜の総会のことを暗示しているようで、憂鬱な気分になる。
そんな俺の憂鬱を払ってくれるかのように、あんずが明るい声で話しかけてきた。
「今日はねー、いいもの持ってきたんだー。天野さん喜んでくれるといいなあ」
「へえ、それってどんな……」
「なーなー火宮ァ!」
「わっ」
唐突に現れた第三者に勢いよく肩を組まれ、その衝撃で思わず前につんのめりそうになる。
首だけで振り向いてみると、そこにいたのは短髪のクラスメイトだった。確か野球部に所属していたように記憶している。
そんな野球少年である彼はにやにやとした笑みを浮かべて、こう尋ねてきた。
「俺さー、昨日の放課後見ちゃったんだけどさー。お前、あの金髪の後輩ちゃんと付き合ってんの?」
その問いを耳にした瞬間、俺の憂鬱は加速した。
以前にも述べた通り、天野のことはクラスメイトの大半が知っている。天真爛漫で天衣無縫、そのうえ目立つ金髪に華やかな顔立ちをしている彼女に野次馬根性旺盛なクラスメイトたちの好奇心がくすぐられるのも、まあ、無理もないことなのだろう。
とはいえ、クラス内のカーストが低くもなければ決して高くもない、平凡で凡俗な俺なんかの交友関係を詮索してこいつになんのメリットがあるというのだろう。少なくとも俺にとってはデメリットしかないのだけれど。
しかし、訊かれたからには答えなくてはいけない。さてどう答えたものかと考えて……二秒後、俺は声を上げて笑った。
「なんでそんな考えになるんだよ。思わず笑っちゃったじゃん」
「付き合ってないんだ?」
「違う違う。ま、懐かれてはいるみたいだけどさ」
「ふうん。じゃあ……」
一瞬、彼はこちらから視線を逸らして、すぐに戻した。
「今って恋人いないん?」
「いないよ。完全にフリー」
「ふーん、まあいっか。そんなことよりさ、こないだ話した一年坊主、どうも監督がレギュラーにしようとしてるっぽいんだよ」
「それって、お前と同じピッチャーの?」
「そうなんだよ! 聞いてくれよ火宮ァー」
それからは、やれ一年坊主の性格が悪いだのやれ先輩への敬意が欠けているだの、そんな鬱陶しい愚痴を聞かされる羽目になった。半分くらいは右から左へ聞き流した。
そんな風にクラスメイトと会話をしながら——というか一方的に会話をされながらも、俺たちは三年B組に戻る。教室には女子たちのほうが先に戻ってきているようだった。
俺は自分の席に着いて、机の横にかけているリュックサックの中を漁った。そして今朝、登校中に寄ったコンビニのレジ袋を手に取る。
そのときだった。
「皆さん」
唐突に、凛とした声が教室に響く。
俺は顔を上げて、その方向に目を向けた。今教室にいる生徒のほとんども、俺と同じように黒板に視線を注いでいる。
いや……正確には黒板ではなく、その前に立っている人物に、と表現すべきなのだろう。
教壇の上に、西城花姫が立っていた。
彼女は刃物のように鋭い眼光を、クラスメイトのひとりひとりに向ける——そして、
「西城の上履きがないんです」
と、やはり凛とした声のまま、そう言ったのだった。
「先ほどの授業から見つからないのですが、誰か見かけた人、心当たりのある人、挙手してください」
事務的、あるいは機械的とさえ感じられるほどの淡々とした口調とともに、西城はお手本のように自分の右手を挙げてみせた。
上履きが見つからない。
その言葉に、俺は思わず彼女の足元に視線を向ける。けれど教卓が死角になっていて、この席からでは西城の足を視認できなかった。
先ほどの授業——四限の授業は体育である。今日の天気は曇りだったから、俺たちは校庭でサッカーをさせられた。おそらくは、そのときに彼女の上履きは隠されたのだろう。
いったい誰が……と思考を続けていたとき、くっくっと潜ませるような笑い声が耳に入る。
見れば、一番前の席——ちょうど、教卓の正面にある席に座っている宿木が、机に突っ伏して肩を細かく震わせている姿が視界に映った。
「あ、あの」
そのとき、不意にひとりの女子生徒——東屋香織がおずおずと手を挙げた。
「えっと、西城さんのかはわからないんだけど、スリッパならトイレで見かけたよ」
「トイレ? トイレならさっき探したんですけどね」
「……ゴミ箱の中、見た?」
「ん。ああ、なるほど。そういうことですか」
西城は納得したように頷くと、どうもありがとう、と彼女に向かって一度礼をした。それから教壇を下りて、扉へと歩いていく。ようやく目にした西城の足は紺色のハイソックスに包まれていて、やはり上履きのスリッパは履いていなかった。
「あ、待って!」
教室を出ていこうとする彼女を、東屋が引き止めた。その声に、なんです、と西城が振り返る。彼女の視線に萎縮してしまったのか、東屋は少し身をすくませて、そして言葉に迷うような素振りを見せた。
しばらくしてから、ためらいがちに、
「もう、使えないと思うよ」
そう言って、気まずそうに西城から目を逸らす。
それに対して彼女は、
「そうですか」
ひと言そう返して、そのまま振り向きもせずすたすたと廊下に出ていってしまった。
西城が教室を立ち去ってしまうと、居心地の悪い沈黙が室内を満たし始めた。おそらく、クラスメイトの大半がきまりの悪さというか、いたたまれなさを感じていることだろう。
けれど、世の中には罪悪感さえ覚えないような人間も、少なからず存在しているのだ。
「香織ちゃーん、なんで教えちゃうのー」
沈黙を破ったのは宿木だった。表情には笑顔を浮かべているけれど、目が笑っていない。そんな視線で、彼女は東屋のことを見つめていた。
「ガチ萎えなんだけど」
「だ、だって、西城さんが……」
「あ? ごっめーん、声小っちゃくて聞こえなーい。もっかい言って?」
「……ううん、なんでもないよ」
空気読めなくてごめんね、と彼女はへらりと笑う。その笑顔はどこか無理に作っているように見えた。
宿木は、次から気をつけてね、と言うと取り巻きの女子たちに向き直る。彼女たちが何事もなかったかのように談笑を始めると、それをきっかけに、みんなおそるおそる動き出した。
そうしてようやく、この教室はいつもと同じ昼休みに戻ろうとしていた。
「遥、行こ」
「……ああ」
あんずの静かな声に頷いて、俺は席を立つ。それぞれの昼食を手にして、ふたりで教室を後にした。
廊下に出る間際、教室のほうを振り返ってみると、隅のほうで東屋が友人たちに慰められている姿が一瞬目に映った。
「…………」
三年B組における東屋香織のヒエラルキーは、決して低いほうではない。けれど彼女が所属しているグループは比較的静かで、おとなしくて、真面目な女の子たちが集まっている。個人ではなくグループでの上下関係を考えると、東屋たちはそれほど上位にいるわけではないのだ。
だから東屋が西城を可哀想と思って、宿木から助けてあげたいと思ったとしても……カーストの上位にいる彼女を恐れて、結局は迎合することを選んでしまう。それは当たり前のことなのだ。
つまるところ、我が身が一番可愛いものなのだろう。東屋だけじゃない。誰だってそうだ。みんなもそうだった。
俺だって。
「天野さんとは付き合ってないの?」
その声にはっと我に返る。隣を見たら、あんずもこちらを見つめていた。
突然何を言い出すのだろう、と一瞬思ったけれど、すぐに先ほどの野球部員との会話の続きだということに気がついた。
一瞬、目を閉じる。そうだ、思考を切り替えろ。西城のことも、東屋のことも、宿木のことも、今は考えなくていい。その思考を続けても、俺にメリットがあるわけではないのだから。
一秒後、俺は普段通りの表情を取り繕って、隣の彼に向き直る。
「付き合ってないよ」
「本当に?」
「本当に。なんだよ、気になるのか?」
「んー、馬に蹴られて死にたくはないからねえ」
そういうのじゃないならいいや、とあんずは穏やかに笑う。どうやら彼なりに色々と俺たちに気を遣ってくれていたらしい。
なんだか巻き込んでしまったようで少し申し訳ないなと思ったけれど、天野のために持ってきたという『いいもの』が入ったふたつの紙袋を大切そうに抱えているあんずを見る限り、俺が心配することは何もなさそうだった。
「遥は彼女作らないの?」
「今はいいかな。進路に集中したいし」
特に興味があって質問したわけでもなかったらしく、彼のリアクションは、そっかあ、とのんびり呟くだけのものだった。
無意味な詮索をしないところがあんずの美点だと、俺はそう考えている。彼はお互いのパーソナルスペースを守るのがうまいのだ。とても好ましい取り得だと思う。あの野球部員とは大違いだ。
そんなことを考えながら、屋上への扉を開けた。今日もほかの生徒の姿は見えない。たったひとり、金色の少女がベンチに座っているだけだった。
「あ、ハルカ先輩! 萩原先輩!」
天野はスマートフォンを見ていたようだったけれど、こちらに気がつくとぱあっと顔を輝かせた。ベンチから立ち上がって、とことことそばに寄ってくる。
「こんにちはっ」
そんな風に挨拶をして、彼女は満面の笑みをこちらに向けてくる。今も鬱陶しく空を覆っている鉛の雲を晴らしてくれそうなくらいに、それは眩しい笑顔だった。
俺たちは待たせてしまったことを謝って、同じように挨拶を返した。それからあんずは、手にしていた紙袋のひとつを胸の前に掲げる。
「今日は天野さんに渡したいものがあるんだー」
「渡したいもの? わたしにですか?」
彼が紙袋を差し出すと、天野はきょとんとした表情を浮かべながらもそれを受け取る。
「なんですか? これ」
「なんだと思う? 見ていいよ」
不思議そうな顔をしながらも、彼女はあんずに促されるまま紙袋の中を覗いた。すると、だんだんと表情が明るくなっていき、目をきらきらと輝かせ始める。
「エレメンツのアルバム……!」
そんな声を上げて、天野は紙袋から小さなケースを取り出す。そのジャケットには確かに、龍崎を始めとするエレメンツのメンバーの写真が載せられていた。
「配信で一曲ずつ買ってるって言ってたから、アルバムは持ってないんじゃないかなって思ってね。しばらく貸してあげるよ。これね、リミックスやボーナストラックがいっぱい収録されてる、僕オススメの一枚なんだよ」
「わあ……っ!」
「今ならなんと、オマケに特典MVが収録されたブルーレイもついてきます」
「わー! わー!」
喜びでテンションのたがが外れてしまったのか、彼女はその場でぴょんぴょん跳ねたりくるくる回ったりし始めた。なんだか仔犬みたいなやつだなと、俺は適当な感想を抱く。
「萩原先輩、ありがとうございますっ!」
「うん。感想聞かせてね」
紙袋を宝物みたいにぎゅっと胸に抱える天野。そんな彼女を目にして、彼も柔らかに唇を綻ばせた。
やはり俺が心配するようなことは何もなかったようだ。ふたりの様子を見て、そう確信する。共通の趣味があるのはいいことだ。俺にはアイドルなんてよくわからないけれど。
「あ、遥にもあるよ」
「え」
「感想、聞かせてよね」
「……えっ?」
にっこりと微笑むあんずの妙な圧に負けて、反射的にもうひとつの紙袋を受け取ってしまう。天野に渡さなかったもう片方をどうするつもりなのだろうと考えていたのだが、なるほど、最初から俺に寄越すつもりだったのか。
布教活動に抜かりないオタクは恐ろしいということを、俺はこの日初めて知ったのだった。
* * * * *
「じゃあ、また明日」
「またねー、天野さん」
「はーいっ」
昼食を終えた俺たちは、昨日と同じように三階で天野と別れた。
教室に戻るために廊下を歩いていると、背後から誰かが早足で近付いてくる気配を感じる。俺はあんずと適当な雑談を交わしつつ、道を開けるために少し彼のほうへと寄った。
その人物が視界の端に映る。黒髪ストレートの女子生徒だった。
彼女が俺の横を通り過ぎようとする間際、何かにつまずいてしまったのか、突然その生徒の身体が前に倒れそうになる。
「わっ」
「! おっと」
とっさに手を出して、その上半身を支えた。艶のある黒い髪が、彼女の背中からさらりと流れ落ちていくのが見えて、ふと、その様子に既視感のようなものを覚える。
女子生徒が顔を上げると、切れ長の瞳と視線が交差した。
西城花姫だった。
「ああ、火宮くんたちですか。どうもすみませんです」
「いいよ。大丈夫?」
支えながら、彼女が身体を起こそうとするのを助ける。西城は姿勢を正すと、ぺこりとこちらに向かって一礼をしてきた。
彼女のように常に凛としている人間でも、何もないところで転んだりするんだな。そんなことを考えながら、俺は何気なく西城の足元に視線を向けた。
その足には甲の部分がずたずたに切り裂かれたスリッパが履かれていた。
「…………」
「……? なんです、その目は。言いたいことがあるなら言えばいいのですよ」
「あ、いや」
不審そうな目で見つめられて、俺は少し戸惑う。反射的に何かを言おうとして、すんでのところでその言葉を飲み込んで、数秒言葉に迷った末に、
「西城さんの言葉遣いって、ちょっと変だなって思って」
と、思わずそんなことを口走ってしまった。
実のところ、気にはなっていたのだ。それは本当。お嬢様みたいな口調で喋る龍崎と比べたら気にする程度のことでもないのかもしれないけれど、『なのです』とか『すみませんです』とか、なんとなく敬語の使い方が個性的なように思えた。
けれどそんな言葉を口に出してから、しまった、と思った。いくらうろたえていたとはいえ、喋り方なんてデリケートな部分に突っ込むべきじゃなかった。もしかしたら地雷だったかもしれないのに。
西城は怒っただろうか。だとすればどうフォローしよう。そんなことを考えながら、俺は彼女の顔色をうかがう。
「……むっ」
予想通り、西城はこちらを睨みつけていた。
けれどその目にはいつもの鋭さはなく、なんというか……拗ねている、ように見える。
「そんなに変ですか」
「いや、変っていうか……その、変わってるよね」
「変も変わってるも同じなのですよ」
それはそうだ。まったくもってその通り。
彼女は今も俺のことを睨んでいた。とはいえどうやら怒っているわけではないらしく、少しだけ何かを考え込むような仕草を見せてから、ゆっくりと口を開く。
「……訛りが」
「え?」
「両親が関西出身で、方言が、きつくてですね……それで、西城も……」
だんだんと語尾が小さくなっていき、最終的に西城はこちらから目を逸らして黙り込んでしまう。その声も仕草も、いつも凛とした立ち振る舞いをしている彼女らしくないように思えて、俺は西城の言葉をほとんど聞いていなかった。
「……敬語で方言をごまかしてるってこと?」
と。それまで俺と彼女のやり取りを静かに見守っていたあんずが、そこでようやく声を発した。
すると西城は再び、きっ! と俺たちのことを思い切り睨んできた。赤く染めた頬を、子供みたいに膨らませている。
彼女は何かを言いたげにこちらを睨み続けていたけれど、ついには無言のまま歩き出してしまった。綺麗な黒髪を翻しながら、足早に教室へと戻っていく——途中、また転びそうになりながら。
もうあのスリッパは脱いだほうがいいんじゃないだろうか。だんだんと小さくなっていく西城の背中をぼんやりと見送りながら、俺はそんなことを考えていた。
「……俺さ」
「うん?」
「初めて西城を可愛いって思ったよ」
普段からあんな風に振る舞っていれば多少可愛げがあるし、敵も作らないで済むだろうに。そう思った。
隣にいる彼はしばらく俺のことを見つめてきて、うーんと言葉に迷うような素振りを見せる。それからしばらく何かを考え込んだかと思うと——やがて静かに口を開いて、こう言ったのだった。
「遥ってマゾなの?」
「断じて違う」
* * * * *
ホームルームは早々に終わった。どうやら特に連絡事項はなかったようで、椎本先生は簡単な挨拶だけ済ませるとそそくさと教室を出ていった。
いつもだったら旧校舎に行くところだけど、今日は夕方から雨が降ることだし——そして心の底から憂鬱なことに、夜には総会もあるので俺はとっとと下校してしまうことにした。
ふと、隣の席に視線が引かれる。見れば、普段ならとっくに教室を後にしている時間なのに、あんずはまだ席に座ってゆっくりと帰り支度を進めているところだった。
「今日はのんびりしてるんだな」
「このあと、ちょっと用事があるからね」
「予定があるならむしろ急いだほうがいいんじゃないか?」
「先生とお話するんだよ」
なるほど、進路相談か。それならバスの時間を気にする必要もないだろう。
彼に軽く手を振ってから、俺は廊下に出た。玄関で靴を履き替えて、駐輪場へと向かう。少し急ぎぎみに歩いてきたからか、どうやら俺が一番乗りなようだった。
自転車の錠を開けてスタンドを上げようとする。と、スラックスのポケットに入れていたスマホが震えた。端末を取り出して、液晶に表示されている通知を確認する。メッセージの差出人は金剛町の明高に通っているほうのいとこだった。
片手でメッセージを返しつつ、もう片方の手で自転車を押しながら俺は正門を越える。
そのときだった。
「……ごほっ」
突然、どこかから流れ込んできた煙が気管に入って、俺は反射的に咳込んでしまう。それとほぼ同時に、
「あ、悪い!」
という声がすぐそばから上がった。
そちらに視線を向けると、見知らぬ男性が門に背中を預けるようにしてアスファルトに座っていた。彼はこちらと目が合うと、手にしていた煙草を傍らに置いてある汚れた一斗缶の中に捨てる。煙草を吸う教師が灰皿代わりにしているものだ。そしてどうやら、先ほどの煙はこの人が原因だったらしい。
男性は立ち上がると、腰のあたりについた砂を手で払う。黒神先生ほどではないけれど、背の高い人だった。年齢は二十四、五歳といったところだろうか。すらりとした細身の上に黒いシャツを羽織り、長い脚にはグレーのパンツを纏っている。
「もう放課後だったのか。うっかりしていたな……本当にすまなかった」
「いえ、大丈夫ですよ」
俺は笑顔で答えながらも、頭では目の前にいる彼の顔を静かに観察していた。
清潔感のある黒髪に、目鼻立ちが整った柔和な顔立ちをしている。端正な人だった。服装も相まって、どこかホストっぽい。なんとなくそんな印象を抱いた。
けれどやはり、俺の記憶にはない男性教師だ。
「あの、先生のお名前と担当教科をお聞きしてもいいですか?」
「んん? 担当教科?」
「俺、この春に転校してきたばかりでして、まだ先生たちの顔と名前を覚えられていないんです」
「ああ、なるほど」
彼は納得したように頷いた。けれどすぐに、困ったように眉を下げる。
「でもごめんな。俺は教師じゃないんだ」
「……教師じゃない?」
教師じゃない人間が、こんなところで何をしているのだろう。そんな風にいぶかしんだのが表情に出てしまっていたのか、男性はこちらに向けて否定するように手を振る。
「俺はスクールカウンセラーなんだ。みんなからはユキムラ先生って呼ばれているよ」
スクールカウンセラー。その単語に、今度は俺のほうが納得する番だった。なるほど、カウンセラーの先生だったら学校の敷地内にいても不思議ではないだろう。
しかし、ユキムラ先生か。
ユキムラ、ねえ……。
「もしかして、生徒に親戚がいますか?」
「親戚? いや、知人は何人かいるが、親戚はいないな」
「あっ、そうなんですか。ふうん……ユキムラって、漢字ではどう書くんですか?」
「真田信繁の幸村だな」
そこは真田幸村の幸村でいいんじゃないのか。何故わざわざマイナーなほうの名前を例に出した。思わずそんなつっこみを入れそうになったけれど、ぎりぎりのところで飲み込む。
それはさておきユキムラ先生——もとい幸村先生は、どうやらあの同級生と親戚関係ということではないようだ。別にどうでもいいことだけれど。
「……ん」
不意に、彼は短い声を漏らして天を仰いだ。つられて同じように空を見上げると、ぽつり、と冷たい水滴が頬に落ちる。
「雨か……君は傘か何かを持っているのか?」
「あー、まあ自転車飛ばせば……、——っ!」
突然襲ってきた痛みに言葉を切って、俺は頭を押さえた。
「どうした? 頭が痛むのなら保健室に……」
「ああ、いえ。俺、ちょっとした頭痛持ちなんです。気圧の変化ですぐやられちゃうんですけど……でも慣れていますから。気にしないでください」
「……頭痛?」
先生は怪訝そうな眼差しでこちらを見つめてきた。その目を見て、俺は初めて彼の瞳が不思議な色の虹彩をしていることに気がつく。深いヘーゼルの中に、ブルーやグリーンが散っているように見える、そんな瞳だった。
「何か?」
「……いや、なんでもないさ。君も早く帰りなさい。あ、でも交通ルールを守って、車には気をつけるんだぞ」
そんなことを言ってから、幸村先生は校舎に向かって歩き始めた。その後ろ姿を見送って、俺もペダルを漕ぎ出す。
早く帰りなさい。車には気をつけるんだぞ。
なんだか、父親みたいなことを言う人だと思った。単純に子供扱いされているだけということも頭では理解しているけれど、理想の父親とはああいう人のことを言うんじゃないかとなんとなく——本当になんとなく、そう考えたのだ。
まあ。
父親にそういった言葉を言われたことがないから、俺にはよくわからないのだが。
そんなことを考えながら、俺はただ、霧雨の中自転車のペダルを踏み続けるのだった。
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