第4話『ラベンダー』(前)

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第4話『ラベンダー』(前)

 雨の降る六月四日の木曜日。  今朝のニュースも相変わらず退屈で、それは俺の日常も変わらない。つまらない授業を受けて、昼休みは天野たちと一緒に過ごして、放課後に雄助と話す……俺の日常なんてきっと今日も明日もそんなものだし、そして、それが何よりも尊いことなのだろう。  そんなことをぼんやりと考えながら、俺は教室でスマートフォンをいじっていた。朝の時間の暇潰しである。クラスメイトのSNSを斜め読みしつつ適当にいいねを飛ばす作業を繰り返していると、前の扉が開かれる音が耳に届いた。  ぱた、ぱた、と少し間抜けな響きを鳴らすスリッパの足音。それはだんだんとこちらに近付いてきて、やがて俺の隣の席に着く。そこで液晶から顔を上げると、そこにはおおかた予想していた通りの人物——萩原杏が座っていた。 「おはよう」 「……うん。おはよー」  俺から声をかけると、彼は弱い声で挨拶を返してくる。力のない笑顔だった。それはいつも穏やかに微笑んでいるあんずらしくない笑い方だと思ったけれど、今は詮索しておかないことにする。話したくなったら本人から話すだろう。  果たしてそのときは、案外すぐに訪れた。 「ねえ、遥……」 「うん?」  彼は不安そうな声色で俺の名前を呼ぶ。それに気付かない振りをして、俺は返事をした。  言いにくそうにしているあんずに、どうした? と自然な態度を装って問いかけると、やがて彼はおずおずと口を開く。 「昨日、放課後に……天野さんを見かけてね」 「天野を? ふうん。それで?」 「それが……竹河くんたちと、一緒にいてね」 「……は?」  天野が?  竹河と一緒にいた……だって? 「……どこら辺で?」 「校舎裏……っていうか、旧校舎に行ってるみたいだった」  昨日の放課後——彼女は予定があると言っていた。  予定……それは、竹河との予定だったのか? 天野と、あの竹河が……?  そんなことがありえるのだろうか。あんずを疑うつもりはない。ない、けれど……あまりにも現実味が感じられなくて、思考を整理することができない。 「遥は転校してきたばかりだから知らないかもしれないけど、あの人たち、旧校舎をたまり場にしてるんだよ」 「は? いや、ちょっと待てよ、旧校舎は部活生が……」  と。  そこで、思い出した——あの日、雄助から聞いた話を。  余っている教室を使っている馬鹿がいる、と。  胸のあたりがざわざわと波立ち始めたのが自分でもわかった。嫌な予感が、止まらない。 「見間違いかもしれないんだけどね」 「……あの金髪を見間違えるわけないだろ」  天野以外に金髪の生徒なんて、そんなの、雀くらいしかいない。けれどふたりは身長に差がありすぎる。天野は女子としても少し小柄な体格だが、雀は女子としてはまあまあ長身の部類に入るのだから。 「だから、一緒にいた人たちのほうだよ。竹河くんじゃなかったらいいんだけど」 「…………」  俺は目を閉じて、少し考える——思考する。思案する。そうやって、頭の中を整理することにした。  やがてまぶたを開いて、それからあらためて、あんずと向き直る。 「話はわかった。今日の昼休みにでも、本人に確認してみるよ」 「……確認してみて、どうするの?」  彼はほんの少しだけ、怪訝そうな表情でそう尋ねてくる。それとほぼ同時に、教室の扉が開かれた。滑り込むように教室に入ってくる数人のクラスメイト。遅刻の常連組だ。  それからあまり間を空けず、若い女教師も教室に入ってきた。椎本先生の姿を目にして、俺は反射的に口を閉じる。あんずのほうもそれ以上言葉を続けようとはしなかった。話はそれで、半ば強制的に終了される。  始業のチャイムが校舎に鳴り響く。その鐘の音を聞きながら、俺は頭の中で、先ほどかけられた彼の問いを反芻していた。 「……、——」  天野に確認して……それで、俺はどうするつもりなのだろう。  肯定されたとしても、否定されたとしても——はたしてそれは、俺にとってメリットのあることなのだろうか。  そんな考えを巡らせている中、委員長に号令をかけられた。そこで一度思考を停止させて、椅子から立ち上がり、一礼をする。俺たちが再び席に着くと、先生はいつも通り気弱な声でホームルームの始まりを告げた。  六月四日という一日は、そうして始まったのだった。 * * * * *  竹河勝之(かづゆき)という男子は、あえて月並みな言い方を選ぶなら札付きの不良と呼ばれる生徒である。  授業に出席しない。気まぐれに出席しても態度が悪い。校則違反上等とばかりに髪を染めて、制服を着崩し、おまけにど派手なピアスまでつけている。校外でも深夜に歓楽街を徘徊しては警察の補導を受けているらしい。もしも『絶対に関わってはいけない生徒ランキング』というものがあったら間違いなく上位に入っているだろう。  当然ながら、俺もそんな男とは関わることなく学校生活を送ろうとしていた。けれど不幸とは向こうからやってくるものらしく、四月のある日、竹河のほうから俺に接触してきたのだった。彼は火宮の一族……しかも本家の人間である俺から、金を巻き上げようとでもしたのだろう。  そのときは結局、突如入り込んできた闖入者のおかげで事なきを得たのだが——いずれにせよ、竹河とはそういう男なのだ。  そんな人物が、どうして天野と。  それを本人に確認するため、俺は階段を降りていた。時刻は昼休み。周りを見れば、同じように下に降りている三年生たちで少し混雑している。購買に向かっているのだろうその群れにひとまず混ざっていると、階下に見覚えのある人影を見かけた。ちょうどいいタイミングだったと俺は人波をかき分けて、嫌でも目を引くその白黒頭のほうへと近付いていく。 「羽鳥!」 「ん? あれ、遥さん?」  声をかけると、こちらに気付いた羽鳥茜が振り向いた。かすかにいぶかしむような視線を向けてくる目は、昨夜見たときと同じように右側を眼帯が覆っている。  当たり前だが、学校なので制服姿だった。シャツのボタンを胸元まで開いているので、襟の隙間からインナーが見えている。まあ、限りなくセーフからは遠いものの、ぎりぎり校則の範囲内だろう。首にかけているドッグタグのようなアクセサリーはアウトだと思うが。  ふと隣に目線を落とすと、同級生らしい女子が彼の腕に自分の腕を絡ませているのが映る。この男は見かける度に違う女を連れているので、たぶん彼女も羽鳥の恋人ではないというのはおおよその察しがついた。いつかきっと女子に刺されるだろう。 「だれぇ?」 「親戚の先輩だよ。先に行っててくれる?」 「はーい」  彼女はそう返事をして階段を駆け降りていく。その背中を見送って、俺と羽鳥は通行の邪魔にならないよう端のほうへと移動した。 「で、俺に何か用すか?」 「ああ。女子と遊びまくってるお前に訊きたいことがあるんだ」 「人のことなんだと思ってんすかあんた……」  彼は呆れたような笑みを浮かべながら言う。 「それで、なんすか? 訊きたいことって」 「天野唯のクラスを教えてほしい」  そう言ったこちらの言葉に、羽鳥は怪訝な表情になる。  昼休みに竹河とのことを天野に確認する。そうあんずに言ったはいいものの、ひとつ小さな問題が生じた。  天野唯のクラスを、俺は知らないのだ。  学年は判明しているものの、彼女が何組に所属しているのかを俺は知らない。その辺の適当な二年生に訊こうと思っていたところに、たまたま通りがかった羽鳥を見つけたというわけだ。  別に、わざわざ教室を訪ねる必要はないということは理解している。いつものように屋上で待っていれば、約束通り天野は来るのだから。  理解はしている。けれど、かすかな焦燥感が腹の底で渦巻いて仕方がなかった。とっとと片をつけてしまいたくて、俺は四限の授業が終わると同時に教室を後にしたのである。 「お前なら同級生の女子を全員把握してるだろ。わかるか?」 「そろそろ俺は怒っていいんすかね……まあいいや。俺じゃなくても知ってると思いますよ。ほら、目立つ子ですしね、天野ちゃん」  そう言って肩をすくめる羽鳥。それから、つい、と流すような視線をこちらに向けてきた。 「彼女になんの用があるんですか?」 「お前には関係のない用件だよ」 「じゃあ訊き方を変えますね。()()やったの、あんたですか?」 「…………?」  彼の質問の意図しているところがよくわからなくて、俺は少し戸惑う。どうして羽鳥はそんな睨むような眼差しでこちらを見るのだろう……まるで、昨夜悠哉に対して向けていたものと似ているような、そんな目つきで。  そんな困惑が顔に出てしまっていたのか、彼は一瞬だけばつが悪そうな表情になって、それから逃げるように視線を逸らした。 「……いえ、知らないならいいんです。すんません。そうですよね、遥さんは、()()()()()ができるような人じゃない」 「どういう意味だ? なんの話をしてるんだよ」 「天野ちゃんのクラスは俺と同じE組っすよ。まだ教室にいるんじゃないですかね」  じゃあ、また。羽鳥はそう言って、階段のほうへと歩いていく。結局なんだったのだろうと首をかしげながら、俺も二年E組へと歩き出した。  廊下の窓ガラスから部屋の中を覗いてみる。昼休みだからか生徒の数はまばらのようだったけれど、先ほど彼が言っていた通り、金髪の少女はまだ教室にいた。 「あ、ハルカ先輩!」  天野のほうも俺に気付いたようで、弁当の包みを手にこちらに近寄ってきた。いつも通りの笑顔で、手を振りながら。そのことについ気がゆるんで、反射的に手を振り返そうとする——瞬間、心臓を鷲掴みにされたかのような錯覚を起こした。 「お迎えに来てくれたの? うれし——」 「どうしたんだその顔!」  彼女の両肩を掴んで、俺は怒鳴った。  怒鳴って、しまった。  そんな俺の声に、教室にいた天野のクラスメイトたちや、廊下を通りがかった生徒たちの視線がこちらに向けられたのがわかる。けれど、そんなことを気にしていられないくらいに、今の俺は冷静ではなかった。  感情が熱くなっている。こんなのは、初めてだ。  天野の顔面——その左頬に広がる痣から、視線を背けることができない。 「あ、これ? 転んでぶつけちゃったみたいなの」 「転んだって……」  怪我くらいは誰だってするだろう。けれど、()()は、転んだからできるような怪我じゃない。  彼女の白い頬を覆うように広がっている、皮下出血のような暗い青色の痣。腕や脚ならぶつけたと言われても納得するけれど、よりにもよって左顔面だ。  そんなの。  そんなの——誰かに殴られたとしか、考えられないじゃないか。  ああ、そうか。羽鳥が言っていたのはこれのことだったのか。しばらくして、そのことにようやく思い至るくらいには、落ち着きを取り戻す。 「……行こう」 「? うんっ」  俺は天野の腕を引いて、廊下を歩き始める。きょとんとした表情を浮かべながらも、彼女は素直に後ろをついてきてくれた。 * * * * * 「昨日の放課後、何してた」  備え付けの冷蔵庫から氷を拝借しながら、俺は天野にそう訊いた。  時刻は引き続き昼休み。場所は保健室である。養護教諭の夕霧(ゆうぎり)先生は不在のようだったけれど、扉に鍵がかかっていなかったのでそのうち戻ってくるだろう。戻らなかったときは来室記録と一緒にメモでも残しておけばいい。そう判断して、俺は彼女を椅子に座らせてアイシングの準備をしていた。  思いがけず詰問するかのような言い方になってしまったことに、自分で舌を打ちたくなる。 「昨日……あれ? 何してたんだっけ。最近ぼーっとしちゃってるのか、物忘れが多いんだよね」 「…………」  氷嚢に氷水を入れる手を止めて、後ろを振り返る。天野はこめかみに指を当てて、何かを考え込んでいるようだった。昨日のことを思い出そうとしているのかもしれない。  嘘をついているようには見えない。とぼけている様子もない——けれど、本当にそうだろうか。  ああ、くそ。思わずそんな悪態が漏れそうになる。  人の顔色ばかりうかがってきた人生だったくせに、後輩が嘘をついているのか否かさえ見抜くことができないのか、俺は。  今度こそ小さく舌を打って、氷嚢の蓋を閉める。そのとき、あ、と背後にいる彼女が短い音を漏らした。その声に再び振り向くと、はっとしたように顔を上げていた天野と目が合う。 「確か、先生とお話してたはずだよ。詳しい内容は忘れちゃったけど」 「……それだけか?」 「それだけって?」 「単刀直入に訊くけど、竹河と一緒にいたんじゃないのか」  そう問いかけると、彼女は驚いたように目を開いた。図星だったのだろうか。そう思ったけれど、直後続けられた天野の言葉によって、その考えはすぐに否定される。 「ハルカ先輩、竹河先輩のこと知ってるの?」 「…………」 「あ、そうだよね、知ってても不思議じゃないよね。学年、同じだもんね」  うんうんと、何度か納得したように相槌を打つ天野。勝手に納得されても困るのだが、何も言わないでおくことにする。  先ほどの反応はどうやら図星を指されたことによるものではなくて、俺が竹河を知っていることに驚いたからのものであるらしい。なるほど、理解した。理解は、した……が。むしろ当然のように天野があの男と知人だということのほうが俺には驚きだ。 「あれ? でもどうしてわたしが竹河先輩と会ったこと、ハルカ先輩が知ってるの?」 「……あんずに聞いた」 「萩原先輩? 見かけたなら話しかけてくれればいいのにー」  そう言った天野に言葉を返さずに、俺は彼女に氷嚢を手渡す。受け取った天野は、不思議そうな表情でそれをためつすがめつ見つめていた。なんだろう。まさか氷嚢を初めて見たわけでもないだろうに。  しばらくそうしている天野の様子にさすがにたまりかねたので、患部を冷やすように促してやる。彼女はきょとんと首をかしげたけれど、とりあえずは言う通りにしてくれたので俺はようやく息をつくことができた。 「……なあ。それ、本当は竹河にやられたんだろ?」 「それってどれのこと?」 「とぼけるのはもうやめてくれ。お前を殴ったのは竹河なのかって訊いてるんだ」  半ば確信をもって、俺は天野に尋ねた。けれど彼女はふるふると首を横に振る。 「竹河先輩はわたしを殴ったりなんてしないよ。わたし、何も悪いことしてないもん」 「……昨日、竹河と旧校舎にいたことは間違いないんだな?」 「うん」  今度は普通に頷いた。ごく普通に、なんでもないことのように。ひょっとしたら、天野にとっては本当に大したことではないのかもしれない。なんといっても、ふたりを見かけたというあんずに対して、話しかけてくれればいいのにと言うくらいなのだから。  やましいことは何もしていないし、後ろめたいことも皆無だと言わんばかりの態度だ。それにとりあえずは納得して、俺は彼女に背中を向けて棚を漁る。患部は適度に冷やしておけばいいとして、何か隠してやれるもの……そう、湿布か何かがほしいところだ。  どこにあるのだろうと棚や引き出しを物色しつつ、再度確認するように背後にいる天野に問いかけた。 「じゃあ、竹河に何かされたってわけじゃないんだな」 「うん。ちょっと写真を撮っただけだよ」  引き出しの中から湿布を発見したところで——それを手に取ろうとした手がぴたりと止まる。そして、ゆっくりと、後ろを振り向いた。  そこにいた彼女は、俺の言う通り椅子に座っていて、そしていつも通りの微笑みを浮かべていた。 「写真って、なんだ」 「写真は写真だよ。竹河先輩、カメラが趣味みたいでね。わたしにモデルになってほしいって——」  と。  天野は何かを言いかけて、そして不意に、口をつぐむ。 「——A組」 「は?」 「A組に、行こうって言われて……でも、九条先輩が、駄目だって言ってたから……だから、わたし……」 「……天野?」  彼女の名前を呼ぶ。けれど返事はない。何かを考え込んでいるかのように——あるいは、思い出そうとしているかのように、ぶつぶつとした呟きを続けていた。  先ほどまで浮かべていた笑顔は、そこにはない。 「だから……わたし、駄目だって言って、言ったら……あれ? なぐ、られて……? ……そう、あれ? おかしいな……わたし何も、悪いことして、ないのに……転んで、ぶつけちゃったんじゃ、なかったのかな……?」  ……殴られた?  それは竹河のことか? やはりお前を殴ったのは竹河なのか?  そう問いただそうとして——けれど、それはできなかった。  彼女が、ひどく、虚ろな目をしていたから。  まるで魂が抜けたかのように。  生きるために大切な何かが、抜け落ちてしまったかのように。  空っぽな、瞳をしていたから。 「……天野? おい、大丈夫か!」 「へ? 何が?」  俺は天野のそばに寄り、その細い肩を掴んでもう一度呼びかけた。すると彼女は少し間の抜けた声を上げて、それからこちらに視線を向ける。その切り替えの早さに言葉が出ないでいると、どうしたの? と天野は笑いかけてきた。  いつも通りの、無垢で、純真な笑み。だというのに、どうしてか違和感を覚えてしまう。何かがずれているような、筆舌に尽くしがたい違和感が。  ……いや、きっと深く考えすぎているだけだ。思考を切り替えよう。確認しなければいけないことはまだあるのだ。 「……最後に、ひとつだけ、正直に答えてくれるか」 「わたし、嘘なんてつかないよ?」 「信じるからな」 「うん。何かな?」 「写真っていうのは、どんな写真を撮ったんだ」  俺は一旦氷嚢を受け取って、それと入れ替えるように先ほど引き出しから取り出した湿布を彼女の頬に貼ってやりながら、そう尋ねた。天野は少し首をかしげてから、やがて口を開く。 「普通の写真だと思うよ?」 「本当にか? 本当に、それは普通の写真なのか?」 「え……う、うん。ちょっとポーズを取って、ちょっとスマホで撮ってもらうだけだったよ……?」 「…………」  詰め寄るような俺の問いかけに、彼女は少し戸惑いながらも答えた。  嘘は……ついていないと考えていいだろう。天野は正直に答えると約束してくれたのだから。彼女が普通の写真だと言うのなら、それについては信じても大丈夫なはずだ。  けれど竹河のほうはどうだ。写真自体は普通のものだとしても、その用途まで普通だとは限らない。今の世の中、顔写真の一枚でもあれば加工も悪用もやりたい放題なのだから。  けれどそのことをあの男に直接確かめにいくわけにもいかない——とはいえ、間接的にであれば確認することそのものは不可能でもないのだ。それはなるべく、あまり使いたくはない手段ではあるのだが。  写真のことは一度置いておくにしても、そもそもたぶん……いや、ほぼ確実に、あの男が天野のことを殴ったのは事実なのだ。そのことだけでもあとで教師に報告しよう。  思考を続けながらも、俺は天野の頬に湿布を施し終える。その姿はやはり痛々しいけれど、少なくとも先ほどよりは幾分ましなはずだ。あとは数日きちんと冷やしていれば、来週には痣もだいぶ薄くなっているだろう。 「あ、でも」  今度は保健室の来室記録用紙を探そうとして彼女に背中を向けると、不意に天野が声を上げた。 「タイツを破かれちゃったのは少し困ったかなー」 「……は?」 「びりびりになっちゃったし、汚れちゃったし……脱がなきゃいけなくなったんだよ。あ、脱がなきゃじゃなくて、穿き直すことができなかった、なのかな? 元々服はほとんど脱いじゃってたから」 「ちょ……ちょっと、待ってくれ」  あまりにもこともなげに言う彼女の言葉を、俺は強引に遮る。 「……服を脱いだ、だって?」 「うん」 「お前、さっき、普通の写真撮影だって……」 「普通だよ? 裸婦とか、ヌードとか、絵画や写真の世界だとよくあることだよね?」  天野は明るい声で答えた。そのことをなんとも思っていないかのように、平然とした様子で。  よくあること。俺は芸術の世界のことをよく知らないけれど、確かに彼女の言う通り、それはよくあることなのかもしれない。  けれど——けれどそれは、あくまでも芸術の世界の中だけの話だ。そのことを『普通』と言えるのは、アートの道を進んでいる者たちだけだろう。  竹河は、違う。断言できる。だって、本当にただの写真撮影ならモデルを殴る必要はないし、衣服を破る必要もない。そもそも旧校舎のA組に行く必要だってないのだ。わざわざ人気のない空き教室でそんな撮影をするなんて……そんなの、やましいことがあるからに決まっている。  少女の制服を脱がせて、無理やり破って、言うことを聞かなければ殴る。  それは……それは、まるで—— 「ハルカ先輩?」  と、その声にはっと我に返る。  気がつけば、天野はいつの間にかこちらを覗き込んでいた。俺のことを心配していると、一切隠そうとしない表情で。 「どうしたの? 大丈夫?」 「ああ、大丈夫だよ。ちょっと考え事をしてただけ」  そう言って笑ってみせれば、彼女もほっとしたように微笑を浮かべた。  天野の問いに大丈夫と答えたのは虚勢だ。けれど決して虚飾ではない。俺は本当に大丈夫なんだ。春に転校してきてからこの数か月、おおむね平穏な日常を過ごしてきたのだから。  大丈夫じゃないのは、お前のほうだろうに。  なのに、どうしてお前は、自分を棚上げして俺のことを心配するんだ。意味がわからない。 「もしもわたしにできそうなことがあったら言ってね。痛いとこを舐めてあげるくらいのことはできるから」 「…………はぁ?」  あまりにも脈絡がなさすぎるその台詞に、思わず間抜けな声を上げてしまう。 「え、なんだよそれ。いったいなんの話だ?」 「竹河先輩がね、痛いとこを舐めてほしいって言ったんだよ」 「竹河が? 痛むところ、って……」 「ほら、傷には唾をつけたら治るっていうでしょ? それみたいな感じでね。腫れて痛いとこを舐めてくれたら治るって」 「は、れて……………………、————っ!!」  待て。  ちょっと、待ってくれ。嘘だろ。そんな。  ついさっき、ほんの一瞬だけ脳裏をかすめた、ひとつの可能性。まさか、本当に、そういうことだったのか?  ハルカ先輩? そう呼びかけてくる誰かの声が聞こえた気がする。天野だ。天野が俺のことを呼んでいる。何か、反応を返してやらなければ。そう頭ではわかっているのに、言葉が出てきてくれなかった。  返事をする代わりに、 「——なあ」  俺はほとんど息も絶え絶えに、 「お前、あの男の————」  震えの止まらない声で、彼女に問いかける——どうか否定してくれ。頼むから肯定しないでほしい。そう祈りながら、半ば救いを求めるかのように、口にするのもはばかられるその可能性を俺は問う。  けれど天野は。 「うん。そうだよ?」  天野唯は——頷いた。  肯定、されてしまった。  その刹那、腹の奥から不快感が込み上げてきて、反射的に胸を押さえる。  気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。  胸の苦しさをなんとかこらえて、目の前にいる彼女を見る。天野は泣きそうな顔をして、俺の名前を繰り返していた。  違う。違うんだよ。この不快感はお前のせいじゃない。お前は何も悪くないんだよ。だからそんな風に泣きそうな顔をしないでほしい。お前はいつもみたいに、天真爛漫に笑っていてくれよ。  胸のあたりの気持ち悪さはちっとも治まる気配がない。それでも俺は、彼女に対して口を開く。 「……なあ、天野」 「な、なあに?」 「お前……本当に、わかってないのか……?」 「へ?」  なんのこと? とでも訊きたげに、天野は小首をかしげた。その反応だけで、嫌でも悟ってしまう。  この少女は……本当にわかっていないのだと。  ありえるのか、そんなことが。高校二年生だぞ。十六年だか十七年だかの人生、小学校や中学校で性教育も受けているはずなのに、これほどまでに無知でいられるものなのか。  あるいは、彼女は無知なのではなく、無垢であると言うべきなのか。  自分が穢されても、それに気がつかないほどに。 「わたし、何かハルカ先輩を傷つけるようなこと言っちゃったのかな……?」  天野は気まずそうに、こちらの目を見つめてきた。よほど俺が絶望的な顔色をしているのだろう、本当に心配してくれていることが伝わってくる。  それに対して、俺はほとんど無意識に、彼女の肩を抱き締める——頭より先に、身体のほうが動いていた。  もう見ていられなかった。見ていたくなかった。天野の左頬に広がっている痛々しい内出血の痣も……自分の痛みにさえも気がついていない、彼女自身のことも。 「天野、よく聞け」 「え、あの……何、かな?」 「お前は……お前は、酷いことをされてるんだ」 「ひどい、こと?」 「お前は被害者なんだ……お前には、誰かに守ってもらう権利があるんだ! 誰かに助けを求めてもいい権利があるんだよ!」  肩を抱く力を強めた。これで、どうか気付いてほしい。伝わってほしい。  傷ついているのは俺じゃなくて、お前のほうだということに。 「ハル——」  天野は俺の名前を途中まで呼びかけて——どうしてか、黙り込む。そしてしばらくしてから、彼女は再び口を開いた。 「——先輩は、変わらないね」 「……天野?」 「わたしの知ってる先輩のままだから、ちょっとびっくりしちゃった」  すり、と。天野が額をこすりつけてきた感触が、制服越しに伝わってくる。まるで仔猫が甘えてくるかのような仕草だと思った。  それから。  ほんの少しだけ、寂しそうな声で。  金色の少女は——独白するように、その想いを告げたのだった。 「大好きだよ。十年前から、ずっと」 * * * * *  教室に戻る。黒板の上にかかっている時計を見ると、時刻は昼休みが終わる五分前だった。  あんずは既に自分の席に着いていた。俺はその隣に腰かけて、彼と向き合うように座り直す。 「頼みがあるんだ」  なんの前置きもなしにそう言った俺に、あんずは一瞬虚をつかれたような反応を見せた。けれどすぐに、いつもの穏やかな笑顔に戻る。 「……ひょっとして、天野さんのことかな?」  俺と向かい合わせになるように体勢を変えながら、彼はそう問いかけてきた。半ば確信を得ているかのような口調である。当然だ。昼休みに天野と話すことは事前に言っていたし、そもそも彼女と竹河の情報をくれたのはあんずなのだから。  だから俺は遠回りしないで、さっさと本題に入ることにした。 「あんずは天野と同じ路線のバスで通学してるんだよな」 「うん。たまにだけど、同じバスに乗ることもあったよ。そのときは今みたいにお喋りする仲じゃなかったから、話したことはなかったけど」 「天野と一緒に帰ってほしい」  そう言うと、さすがの彼も戸惑いの感情を露わにした。 「いや、一緒に帰るまではしなくていいんだ。学校からバス停まで、天野のことを見守ってくれるだけでいい」 「……理由を訊いてもいいかな?」  真っ当な反応だった。いきなりこんな頼まれごとをされたら無理もないと思う。  俺は簡単な経緯を彼に説明した。とはいえ、竹河が天野に何をしたのかという点は伏せることにする。  あんなこと、たとえあんずにだって言えるわけがなかった。  そのせいで本当に簡略化した説明になってしまったけれど、それでも彼は理解してくれたようで、なるほど、と静かな声で呟いた。 「話はわかったよ。つまり僕に、竹河くんから天野さんを守ってほしいってことなんだよね?」 「ああ。……頼めるか?」 「うん、いいよ」  頷いて引き受けてくれた彼に、俺はほっと安堵の胸を撫で下ろす。ありがとうと礼を言うと、気にしないで、とあんずは言葉を続けた。 「遥のお願いだからね」  彼は言う。そのときの表情は、とても穏やかな微笑だった。
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