03.

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03.

 子供は授からなかったんだ。それでも構わないと、俺は思う。  美緒が欲しがったら悩んだろうけれど、二人とも毎日が充実していたしね。  いつまでも若々しい彼女は俺の天使で、女神で、宝物だ。  茶色い髪は脱色しているのかと思っていたら、地毛らしい。  艶やかな髪は手触り抜群で、事あるごとに撫でてしまう。  美緒も気持ち良さそうに目を細めて、黙って俺の胸へしだれかかってくる。  昼も夜も、ずっと俺と美緒はこんな感じで過ごした。  三十代は、お互いが料理の腕を競うのにハマる。  どっちが上手いか、決着はつきっこない。俺は美緒の料理を絶賛しても、彼女は俺のを褒めるからな。  二人とも上達したのは間違いなく、ちょっとしたレストラン並みのディナーも自力で作れるようになった。  四十を越すと、彼女に新しい趣味が出来る。たまたま会社でもらったチケットで演劇を観たら、彼女の嗜好に合ったみたいだ。  食わず嫌いだった俺も、付き合う内にその面白さを理解する。  ドライブがてら、少し遠い劇場へ出向くのも楽しかった。  釣りをやり出したのは何歳だったか。五十はとうに過ぎていたはずだ。  この趣味は美緒がきっかけで、彼女は病院のビンゴ大会で釣竿を当てて帰ってきた。  これは食材を自前で釣れという思し召しだと、半ば本気で美緒が訴える。  元々魚が好きな二人だから、獲れたての魚の魅力には逆らえない。  この趣味は長く続き、老後はマイボートとか欲しいよね、なんて夢を語り合った。  さすがにクルーザーは高額で、定年後も購入は断念したけどね。  自分が先に逝くのは覚悟していた。  美緒と比べて、俺はシワだらけだから。老化ばっかりは防ぎようがない。  大病も無く寿命を全う出来たし、さほど不満は感じない。  自宅で寝込んだ時は、これが最期になるかもとぼんやり悟った。  家で死ねるなんて、今じゃ贅沢だよな。  枕元に座る美緒が、お茶を湯呑みに注いで差し出す。 「飲めそう?」 「ああ。ちょっと待ってくれ」  ゆっくりと身体を起こして茶を受け取り、焙じた茶葉の香りを吸い込んだ。  手に感じる温かさに、なんだか感傷的にもなるってもの。 「……すまん」 「お茶くらい、どうって手前じゃないわ」 「違う。美緒を……独りにしそうだから」 「…………」  長い沈黙のあと、彼女は深々と頭を下げる。  私こそ、ごめんなさい、と。  なぜ謝られるのか訳が分からず、美緒が言葉を続けるのを待つ。  彼女が謝罪することなんて、何一つありはしない。  喧嘩は夫婦の常なんて言うが、俺達は結局、この年まで言い争いらしきことすらしなかった。  頭は下がったまま動かない。  相も変わらない茶毛の美しさに、その日もまた見惚れた。 「ごめんなさい」 「いや、それは俺の台詞だろう――」  左肩を、強烈な衝撃が襲う。  白と黒が眼前で激しく瞬いた。  何事が起きたか把握しようとしても、五感が弾け飛んだみたいで脳が追いつかない。  頭を締め付ける圧迫感、力の入らない四肢、一面のグレー。 「ナァ……」と小さな声がする。  胸元でもそりと動いた何かが、横倒しになった顔の前まで近づいた。  ペロッと頬を舐められてようやく、自分の見ているものがアスファルトだと理解する。  舐めたのは――猫だ。  茶毛の綺麗な猫だった。  猫は顎を地面につけ、再び小さく鳴く。  俺にしてみれば六十年以上も引き戻されたわけだけれど、この事故の記憶は鮮明に覚えていた。  助けられたんだな、よかったよ――声にしたいが、喉から液体が溢れてきて難しい。 「ナーォ」  謝らなくていいよ。  君から貰ったものは、返し切れないくらいいっぱいある。  そうか、謝っちゃいけないんだ。  君に伝えたいことは、一つだけ。 「ありが……ど……」  濁音に紛れて、語尾は(かす)れてしまった。  言いたいことは伝わったのだろう、猫が俺の顔に身を擦り付けてくる。  美緒に看取られて、俺は静かに(まぶた)を閉じた。 了
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