01.

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01.

 トラックに轢かれて死ぬなんて、バナナの皮で転ぶのと同じこと。  漫画のネタにはなっても、そうそう自分の身に起きることじゃない。  第一、事故には十分に気をつけていたからな。  出勤途中の交差点で、俺は大人しく青信号を待っていた。  赤が黄色に変わり、車が停車線で止まる。  さて、駅へ急ぐかと書類鞄を持ち直した時、足元を明るい茶色が駆け抜けた。  横着な猫だと思ったのと同時に、二トントラックの接近に気づく。  片側二車線の国道では、手前の自動車が止まったからといって安心するには早い。  奥のレーンを走るトラックは、スピードを緩める気配も無く、交差点へ突っ込もうとしていた。  たかが猫、と大半の人は呆れるだろうな。俺も自分の判断に疑問はある。  だけど、咄嗟に飛び出した俺は、全力で猫へ駆け寄った。  茶毛の塊を抱え上げて、幅跳びよろしく地を蹴る。  見事、ロングジャンプで危機を脱し――はしなかった。  タイヤが軋む悲鳴が真横から接近し、次の瞬間、俺は猫を抱いたまま宙を飛ぶ。  トラックの衝撃ってのは凄いもんなんだなあ、とか。  猫は無事かなあ、とか。  意外に思考は回るもんだ。  視界もぐるんぐるんと回転した挙げ句、目の前が真っ暗になった。 ◇  意識が戻ると、天使がいた。  陳腐と言いたければ言え。  白衣が似合う、愛らしい大きな目をした女の子だ。  マスクで顔が半分隠れていたけれど、その瞳から視線を外せなかった。 「喋るのはつらいですか?」  彼女の眉が不安げに寄る。  俺はベッドに横たわり、左腕には点滴の針が刺さっていた。 「あの……俺は……」 「頭を強く打って、丸一日寝てたんです。脛骨にヒビが入ってますので、左足はあまり動かさないように」  言われて見れば、確かに足がギプスで固められており、腕も包帯だらけだ。  事故後に病院へ担ぎ込まれ、丸一日寝ていたらしい。  幸い、足以外は擦り傷と打ち身のみ。脳派に異常が検出されなければ、一週間で退院出来るとか。 「午後にCTスキャンを撮ります。しばらく安静にしておいてください」 「はい……」  計器をチェックした彼女は、担当医を呼びに部屋を出て行く。  直後やって来た外科の先生の口ぶりだと、さほど心配することはなさそうだった。  俺が寝ている間に、母が何回か病室を覗いたと知らされる。目覚める少し前、日用品を届けて帰ったとか。  心配していたから連絡した方がよいと言われ、実家へ無事を伝えた。  よかった、よかったと繰り返され、何とも居心地が悪い。自業自得だろうけどね。  会社には既に母が報告してくれたが、自分でも電話を入れる。  まあ、保険の手続きやら、事故時の聴取やら、面倒臭い一週間だった。  とは言え病室からは動けず、暇を持て余しもする。  脳検査では完璧に正常値を叩き出したので、杖をついてトイレに行くことを許可された。  これは本当に助かる。  いや、尿瓶を使えと言われれば使うけどさ。  それを回収するのは、あの天使なんだよ。天使にそんなもん触らせられんだろうよ。  天使の名前は笹本(ささもと)さん、下の名前もとお願いしたら、美緒(みお)だと告げられる。  学生時代は女性と縁遠く、自分が一目惚れするなんて想像もしていなかった。  看護士が病室に来るのは当たり前で、その度に少しでも長く話そうと話題を振る。  彼女はどんな話にも楽しそうに応え、時には自分のことも教えてくれた。  看護学校でのエピソードや、好きな食べ物。  休日の過ごし方に、行ってみたい場所。  患者と看護士の会話として、普通よりずっと親しげだと感じたのは俺の勘違いじゃないだろう。  好意を持ってくれている、そう信じたい。  水族館が好きだという俺の言葉に、彼女も大きく頷いた。 「魚を見てると、なんか気持ちいいよね」 「そうそう。俺は食べるのも好きだけど」 「もうっ、雰囲気無いわねえ。私も魚料理は大好きだけど」  もっと好きなのは、ふふっと微笑む彼女かな。  個室だからだろうか、美緒さんは友達みたいにくだけて喋る。  やっぱり脈ありだよねえ。  押すしかあるまい。  後々振り返ると、ずいぶん焦っていたんだと反省する。  たかが一週間で舞い上がられたら、相手も戸惑うってもんだ。  でもこの時は、退院したら二度と会えないかもしれないと、それだけが頭の中を占めていた。  他に考えることなんて無かったしね。 「こ、今度の日曜日、水族館に行きましょるっ!」  盛大に噛んで、ケラケラ笑われた。  足がちゃんと治ったらねって。  一ヶ月は我慢するよう諭されたけれど、デートの誘いは受けてくれる。  彼女の白衣が、その笑顔が、一際輝いて見えた。
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