8.パンと恋と万葉集

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8.パンと恋と万葉集

 ゼロ、八。少し爪が長いので、うまく押せないでいる。ゼロ、ゼロ、ゼロ。あ、押し過ぎ……キャンセル。ゼロ、八。押せた。それから、どうしたら……。 「決定ボタンを押すんですよ」  振り返ると、背の高い男性がいた。顔を上げてもまだ顔が見えない。更に首を上向けると、目があった。彼は笑っていた。 「このパン、このロールケーキでいいんですか?」  若い男性は08番の棚にあるパンを指さした。  セーラー服にお下げの彼女は、眩しそうに男性の顔をもう一度見ると、 「はい」 と言った。それから自販機に目を戻し、彼の言っているボタンを探した。すっと横から人差し指が伸びてきて、「決定」ボタンを押した。また振り返ると、若者は笑いかけてくれた。 「白藤の制服だね。この大学受けるの?」 「え、いいえ。大叔父がここの教授で。でもあの初めて来て。寄るように言われたので」  08番の棚がういーんという音と共にスライドして、ロールケーキが崖っぷちまで押し出された。あっ……思わず身構えたが、パンはガラスケースの中で、下まで落っこちた。 「乱暴でしょう。潰れちゃったかな。下から取り出すんですよ」  彼女は慌てて座り込み、ガラス戸を押した。思ったより力が要ったので苦労しながらパンを取り出す。  振り返ると、若者はまだ笑っていた。 「ありがとうございます」  彼女はちょっと潰れかけたロールケーキを胸に抱いて、丁寧に頭を下げた。 「どういたしまして。教授のところへはもう行きましたか? 場所はわかりますか?」 「いいえ。これから。あの、文学部の桜木教授ってご存じですか」 「へえ、それは偶然。僕の担任ですよ。担任、って言っても学校の制度上振り分けられてるだけで、実質的にはあまりお話しする機会も無いんですけどね。でも僕は、先生のゼミに入りたいと思っています。万葉集に興味が有って」  会話が、だんだん白いもやに包まれるように、遠くなっていった。それは遠い幸せな思い出。忘れかけていた日々の出来事だった。
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