8.パンと恋と万葉集

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 「……約束を破ったわけじゃない。彼の退学は僕も予想外の事態でね。学生連合は彼を守ろうとしたんだよ。前会長の時代だったけれど」 「では何故」 「何度も言うようだけれど、退学は彼自身の意志、というわけ。彼はちゃんと他大学の入試を受ける準備をしていたし、間髪おかず春には福徳大に入っていた。僕たちも彼がそうするつもりだったとは知らなかった。彼がいるものと思ってわざわざこの大学に来た君には気の毒だけどね」  桜木さんは黙ってまた外を見る。ガラスに映った顔は険しかった。結局は、自分のせいでこんなことになったということを自覚していたから。 「僕は君が欲しかったんだよ」  祐天寺会長は明るい声で言った。初めて会った時のように。だがこの「対女性用語」に彼女の心中出た言葉は「はあ?」である。  桜木さんが高校三年生の時、祐天寺は杉山大学一年だった。学生連合の前会長の引退間際、次期会長の座を巡って壮絶な戦いが有ったという。味方や手下を作るのが得意な祐天寺は、有能な部下をかなり早い段階から集め、あちこちに手を回して選挙に勝利した。当時から受験生の情報をも集め、時には高校生まで将来の自分の部下にスカウトしていたのだった。  桜木さんが通っていた高校は小学校から大学まで一貫教育を行う、いわゆる郊外のお嬢様学校で、進学校ではない。そのお嬢様の一人が高校一斉模試で突如全国一位に躍り出て受験生の間で評判になったのを祐天寺は知っていた。その彼女がこの大学の文学部教授の親類であることを探り当て、更に彼女の類まれなる美貌に目を付けて、持ち駒の一人にすることを決めたのであった。もちろんそうすんなりいった訳ではない。彼女の弱みにつけ込んで、交換条件で釣ったのである。
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