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失格
ジリジリとノイズ混じりの電球がバスの待合室に据え付けられているけれども、その明かりに集まるのはせいぜい私と蛾のみのようだ。
何かの用もあるわけではない。ただ人間としての私が必要なものを求めて留まっているのである。
「誰かが意図して与えるも奪うも出来やしない」と蛾は語った。
殊更に詰るのも如何なものかと思うけれども、やはり世間のクリスマスムードには嫌気がさすのが本性のようで、自宅までの道のあちこちに転がる幸せな笑い声と窓の奥に漏れる赤と緑の気配がなんとも気に食わないのである。
それはきっとみな薄暗いこの家のせいであろうが、今更疼いた腹の虫を抑える手立てもなく、一度溜息をついて静かにドアノブに手をかける。
肺の空気を入れ替えると同時に扉を開けると六畳一間の中心で弟と妹が蝋燭に火を灯していた。
「何をしているのか」と尋ねる前に、私の帰宅に気づいた二人はいつものように出迎えに来た。少し間を作る二人に違和感を覚えて黙っていると、二人は自慢げに掌を広げて見せてきた。乗っているのは栗である。
動揺している私を前に、二人は肺いっぱいに息を貯めると、
「メリークリスマス!!」と飛び上がった。
床が軋んで粉が舞う。
息を止める。
兎も角も今の状況の掴めない私であるが、二人が昼間に商店街にでも出て行って金目の物を強請った挙句、季節外れの栗を貰ってきたことはおよそ検討がつく。学校へ行っていない二人がクリスマスという単語を知っているはずもないので、栗の催し物と勘違いをして騒ぎ立てているのであろう。
喜ぶ二人の気分を下げる兄になるわけにもいかず、二つの栗を受け取って両ポケットにしまい、見上げる視線に微笑みかけてその場を収めた。幼い二人と幼い自分のために。
夕食を作ろうと冷蔵庫を漁っても、犬に食わす食糧もない家の冷蔵庫から何も出てくるはずがない。ただ暗がりの中に数ヶ月前なら喜んで手に取っていたであろう栗がいくつか転がっているだけである。
「クリスマスは節約の日だ!!」と笑う弟の声が、帰り道に漏れていたそれとは似ても似つかなくて、嫌に脳が揺れる。
無性に湧いてくる怒りをぶつける的が見つからないまま、失いかける理性と押し寄せる何かが底のない心の奥で渦を巻く。
人間として求めていたそれが手の届く範囲に姿を現したように感ぜられた。
「クリスマスはな、贅沢をする日なんだ!」
卓袱台を叩いて立ち上がると、無我夢中で意識の外へ駆け出した。どこに向かうのかも分からずに、道に転がる笑い声を蹴り上げ、溢れている他人の幸せに溺れかけながら暗い夜道を走り抜けた。
―――見上げる先にあったのはここらで1番大きいデパートだった。
落ち着きを払って自動ドアを潜ると、光の中は宝石に溢れかえった宝箱のようであった。どれもショーケースに飾られていて手を出せるものではないが、入口正面に並べられている七面鳥だけは宝箱に空いた穴に見えた。
他の客と後を追って平然を装い目標に近づく。心臓の高鳴りが周囲にも聞こえていそうな気がして目だけで辺りの様子を見渡す。視界には不思議と高揚している自分がいた。そっと七面鳥に手を伸ばした瞬間、
「どうせならケーキも食べたいな」と私は笑っていた。
ぎりぎりまで伸ばした手を引っ込めて、何食わぬ顔でケーキ売り場まで歩く。ショーケースに並べられているケーキに目移りしながらも、苺のホールケーキに狙いを定めると店員に声をかけた。
「このケーキをください」と言うと、店員はショーケースからケーキを取り出し包装し始める。私はその隙に混んでいないルートを確認しつつ、ポケットに手を入れ金を出す素振りをする。自分の取っている行動に針が刺さるような痛みがした。
「はい、2600円になります」とレジを打った店員の頭上に、ポケットから出した二つの凶器を投げ上げた。無意識にそれを目で追う店員の手からケーキの箱を奪い、一目散に出口へ走り出す。何度も慣れないタイルに滑りながら、通り際に七面鳥を手で掴んで鳴り響く警報の外に飛び出した。
かつてないほどに息を切らす自分に気がついたのは、バスの待合室を通りかかった頃だった。いくら吸っても冷たい空気は肺に満たされない。振り返ってみると気味の悪い暗闇が広がっているだけで追手が来る気配もない。一先ず待合室で息を整えようと薄汚い椅子に腰を掛けた。
ふとケーキの安否を確認するために箱を開けると、円かったはずのそれが跡形もなく崩れ去っていた。ただ、その無惨な物体を前にしてもなお私の心は崩れていなかった。もはや、笑みさえ浮かべていたのである。
引けない後悔と戻らない純白が何よりも美しく感ぜられ、まるで一面の雪景色に足跡を残したような達成感まで覚えていたのである。それは私を捨てたこの世界に対する勝利であった。
消えかけた電球の下で満足を手に入れた私は数時間前の同志に別れを告げて悠々と細道を闊歩した。
薄暗い自宅の扉を開けると弟と妹がいつものように座っていた。
「飯を持ってきたぞ!」と笑う私を、二人はじっと見て暫く黙り込んだ後、言った。
「おなかいっぱい。」
泣き崩れた私の顔からは、涙の一滴も流れず枯れていた。
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