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5.鍵屋の秘密
自分の秘密を知る者の存在に、人間は恐怖する。命の危険を感じることは何度もあった。彼女の口を封じようと画策している者もいたし、誰かの秘密に手を出そうと、店に侵入を試みる者もあった。その度に警邏を呼んでいたが、彼女は徐々に体調を崩すようになり、夫はその姿に心を痛めた。
だから、自分が秘密の鍵を作ることを、人の記憶から消してしまおう。そう思って、自分の為に秘密の鍵を作ったのだ。それが、首からさげているペンダント。外に出ない鎖の先にぶら下がっている。赤く光る石のついた鍵。
だから、この店で秘密の鍵を作った客たちは二度とこの店に来ることはない。彼女の事を忘れてしまうから。
自分の秘密で手一杯の客たちは、彼女にも秘密があるという事に思い至らない。
結果、夫は彼女の事を忘れてしまった。誰よりも彼女の技術を尊敬していた夫は、秘密を守る魔法からすれば(魔法に意思があるならば)、真っ先に記憶を消さなくてはならない人間だったのだ。
その日、彼女は秘密の鍵の完成によって心が軽くなっていた。もうこれで、誰かに狙われることはない。今日は夫の好物を作って待っていよう。そう思って、いつもより少し早く店を閉めて帰宅し、台所に立ったのだ。
けれど、帰宅した彼は、夕食を作って待っていた彼女を見て、「妻はどうしたんでしょうか?」と問うた。彼女はその言葉と、本当に何も知らない夫の目を見て全てを悟った。
「奥様は、私に夕飯を頼んでどこかに行かれました」
咄嗟にそう答えるのが精一杯だった。もっとましな嘘がいくらでもあったような気がするけれど、もう手遅れだし、「ましな嘘」と言う物が、長い年月が経った今でも思いつかない。それ以来、彼女は彼にとって「妻の友人」でしかない。
鍵の封印を解こうかどうか、ずっと迷っている間に、請けた仕事も増えていった。もう今更、客に自分のことを思い出させる気にはなれない。夫にも累が及びそうで、怖い。記憶の戻った夫は、自分のことよりも、彼女に危害が加えられることに憤るだろうけど。
仕事をやめてしまうことも考えた。けれど、彼女の鍵を求めて、思い詰めた様子でやってくる客に鍵を納品し、その表情が和らぐのを見ると、やめてはいけない気がしてしまう。そうして踏ん切りがつかないままずるずるとここまで来てしまった。
期せずして、秘密が増えてしまった。けれど、自分が彼の妻であることを知ることができる人間は、いない。この鍵がある限り。
彼女の家は、店のすぐ裏にあった。通うのが大変なのと……忘れられても夫の傍にいたくて、ここに家を建てて暮らしている。
妻がいたこと自体は記憶にある夫は、今日もそうやって郵便受けを覗いている。
彼は、自分が妻の容姿も声も思い出せないことには気付いていない。
その鍵屋には秘密がある。
表向きは合い鍵作成だが、その裏の仕事は「秘密を守る鍵」を売る店だ。
それを請け負う彼女にも秘密がある。それは自分がその鍵を作った人間であること、そして隣人の妻であること。
彼女は今日も、忘れられた聖女の様に、夫の幸せと平穏、ほんの少しだけの奇跡を祈っている。
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