ラスト・ダンス

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 彼女は絹子さんといった。数カ月前に軽い脳梗塞で倒れ、最近リハビリを兼ねてこの養護施設に来たのだった。軽症の入所者は少なかったから、彼女と俺の距離が近づくのは必然といえば必然だった。母さんが先に逝ってからというもの、娘や息子と折り合いがつかず、独りで暮らしてきた俺にとっては久しぶりにできた話し相手だったし、彼女にとって俺は、言語野に残る後遺症を克服するための、多分あまり親切ではないトレーニング相手だった。  もっとも、俺は生前の母さんとも十分な会話をしてきたとは言えなかった。勤めに出ていた頃は寝に帰るだけの毎日が続いたし、会社を定年で退いて時間ができたら、何を話したらいいのか分からなくなってしまっていた。そのうちにあっけなく母さんは逝ってしまった。俺が準備した、結婚40周年の指輪を受け取らぬまま。
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