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電車を降りて十五分歩いた所に紗奈の会社がある。大きくも小さくもない、中規模の会社だ。業者のフリをして堂々と潜入してしまえば、僕が部外者だと誰も気づかない。たった一人を除いて、他の人は別部署の人間だと勝手に解釈してくれる。
「……あれ、アンタまた来たのかい」
「俊江さん、こんにちは」
僕の潜入を唯一見抜いた提坂俊江さんが、掃除モップをもって現れた。ここの会社のビル清掃員の俊江さんは、潜入初日に僕の正体に気付いた強者だ。清掃員には似つかわしくないバサバサのつけまつげをつけ、血糊のような真っ赤な口紅を好む、現役アラカン女性だ。(アラカン=アラウンド還暦)
「今日も山内紗奈の様子を見に来たの?」
「ええ。紗奈に危険がないように見守るのが、僕の仕事ですから」
「ふん、ただの根無草の言い訳だね」
俊江さんの使うワードは、いつもハードボイルドめいていて僕をキュンとさせる。ポケットからタバコを取り出すと、馬鹿みたいにでかい数珠型ブレスレットをジャラリと鳴らし、俊江さんが渋い顔で火をつけた。
「……紗奈ちゃん、いま営業の片桐君と良い感じだろ。経理の女も片桐君を狙ってるから気を付けな」
「経理? 紗奈と同じ部署の子じゃないか。俊江さん、その子の名前は分かるかい」
「タダじゃ教えられないね」
ただの掃除清掃員なのに、俊江さんの情報網は恐ろしい。社内事ならお局様のスマホの暗証番号から、専務の切れ痔の具合まで、全てお見通しだ。
そして教えてもらうには、こちらもそれなりの情報を渡さないといけない。
「……ここだけの秘密です。三丁目のスーパーアンドゥが、仕入れの数を間違えて鶏肉を大量購入した。明日は鳥モモ肉グラム48円と破格で売り出される。惣菜コーナーも唐揚げを通常1パック298円の所を、198円で捌く」
フリーダムな僕だからこそ、何にも囚われずに行動し、誰よりも早く情報が手に入る。
「アンタ、いつまでフラフラしてるつもりだい」
「僕しか守れないものがあるんです」
「紗奈ちゃんの頬を濡らすような真似はするんじゃないよ」
「それを阻止する為に、僕がいるんだ」
「はっ、どうだか。今夜あの娘は片桐君とランデブーだわよ。兄のあなたがウロウロしてるってバレたら、どう言い訳するんだい」
「絶対バレない自信があります」
「……ふん。経理の横山弥子世って娘だよ。あと、総務の中村部長にも気を付けな」
俊江さんの強靭な吸引力で、タバコが一気に灰に変わっていく。
鼻から盛大に煙を噴出して、タバコを携帯灰皿に押し込んだ俊江さんに、僕は感謝の握手をしようとした。しかしもう彼女は僕を通り過ぎ、モップを手に歩き出した。
「俊江さん、情報ありがとう」
「ぐっどらっく、だわよ」
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