8人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
ついうっかり……というには痛すぎる失敗だ。
滝口正志は、目の前で動き始めた新幹線を呆然と見送った。
あっという間に遠ざかっていくのが、今日の最終便だ。
明日も平日で、本社での仕事は普段通りある。この新幹線に乗れなかったということは、遅刻は免れないだろう。滝口は肩を落としてホームを後にした。
出張先での仕事が思った以上に手間取ってしまったのは、決して滝口のせいではない。上司はちゃんとやむを得ない遅刻だと認めてくれるだろうか。言い訳のセリフをいくつも考えながら歩いていたが、いやそんなことよりも今日の宿だと思い至った。
予約サイトで空き部屋を探すのも、気が滅入る。もしかしたらホテル代は出張費として認められないかもしれない。できるだけ安いところを探そう。最悪、ネカフェでもいいかもしれない。まだ三十になったばかりで体力もある滝口には、ただ横になって眠る場所があればいいから。
そんなことを思いながら画面をスクロールしていると、派手な赤い文字が目に入った。
『激安タイムサービス・本日限定』
開いてみれば、ごく普通のビジネスホテルのようだが値段はたしかに激安だ。
ホテルの開業一周年の記念イベントの一環らしい。この値段ならネカフェに泊まるよりもお得かもしれない。
駅からも近かったので、滝口はさっそく予約してホテルに向かった。スマホを操作しながら歩いても、たった五分くらいで着いた。
そのホテルの外見は小さいながらも落ち着いた佇まいで、中に入るとロビーもきれいに整っている。雰囲気がよく、これなら正規の値段で泊ってもいいくらいだと思わせた。
「いらっしゃいませ」
フロントに立っているのは女性だった。滝口よりは、いくらか若いくらいだろうか。目を見張るほどの美人ではないし、地味な制服に身を包んで目立たない化粧をしている。
けれど向けられた笑顔がとても温かかったので、好感が持てる。
そんな彼女の顔に見とれていたからかもしれない。
カードキーを受け取ろうとしたときに、うっかり彼女の手に滝口の右の手のひらが触れてしまった。
「あっ」
思わず声を上げたのは滝口だ。ほんの少し触れただけだが、その手にピリッと痛みが走った。静電気か。
そんなことよりも、もしかしたらわざと手を触ろうとしたなどと思われなかったか心配になる。昨今はどこもセクハラに対しては厳しい。
恐る恐る彼女を見ると、彼女は逆にすまなそうな顔で頭を下げた。
「申し訳ございません。手が当たってしまいました」
「いえ、こちらこそ」
「ではごゆっくりとお過ごしください。よい夢を」
責められなかったことに安心して、滝口の顔もほころんだ。
彼女の柔らかい声が疲れた体に染みる。
たしかに今日はいい夢が見れそうだ。
最初のコメントを投稿しよう!