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それからしばらくの間は何事もない、平凡な日々が続いた。
滝口の仕事もいつも通り、可もなく不可もなくという毎日だ。けれどなぜか以前よりも楽しく仕事をこなすことができる。そんな滝口に対して、社内での評価は徐々に上がりつつあった。
「滝口さん、最近何だか楽しそうですね」
「そうかな」
この日、声を掛けてきたのは同僚の三浦里香だ。
滝口の見た目は特別酷いわけではないが、無口で人付き合いが悪い。そのため社内では浮いた話もなく、個人的な付き合いをするような同僚もいなかった。
ところがここ数か月、滝口は社内でもよく笑顔を見せる。
仕事帰りに飲みに誘われれば、三度のうち二度は飲みに行くようになり、話しかければ朗らかに答える。
もともと仕事も普通にこなし、容姿も標準的な滝口だ。最近では女子社員の話題にも時々名前が出るようになっていた。
三浦は滝口とは一歳違いの後輩で、机も近い。
通りすがりに会話を交わすうちに徐々に打ち解けていった。
「相談があるんです。よかったら今日、帰りに飲みに行きませんか?」
「いいね。佐々野屋を予約しとくよ」
佐々野屋は良心的な値段の居酒屋で、静かに話せる個室もある。
ところで三浦の相談事とは一体何だろう。相談に乗ってあげられればいいのだけれど。
そう思いながら、滝口は自分の右手を眺めた。
今も右手にはひっかき傷のような赤い線がついている。とても薄くて言われなければ気がつかないような細い線だが、毎日何度も眺める滝口にははっきりと見えていた。
赤い線は一つではなく、手のひらから肘にかけて十数本もある。
けれどそれを見る滝口の目は穏やかだ。何故ならこの赤い線こそ、素晴らしい夢をもたらしてくれるものだと分かったから。
眠りに落ちる度にこの赤い線から刺すような痛みと溶けるような快感が広がる。夜が来ると、滝口はその快感がもたらす多幸感に溺れそうになる。
良い眠りは人生を豊かにするのだ。滝口は今まさにそれを実感していた。
そして時々、朝起きると引っかき傷のような赤い線が増えていることがある。それは滝口にとって喜ばしい出来事だった。
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