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村は荒廃していた。聞けば、魔族の部隊が襲来し、破壊と略奪の限りを尽くしたとのことだった。しかし、死んだ者は少なかった。父が村人たちを連れて森に避難し、魔族たちからの追及から逃れたとのことだった。
やはり父は父だ。あの魔族を翻弄するなど、いまだ村の英雄に違いない。幼い頃に憧れた父の姿そのままだ。私は一刻も早く父に会いたかったが、しかしその姿はどこにもなかった。
私の周りに集まってきた村人たちは、一様に浮かない顔をしていた。やがて鍛冶職人のオットーが、おずおずと口を開いた。
「例の天使が来て、村から魔族は消え去ったんだ。俺たちは村に帰って、しばらくは再建に精を出していた。そしたらな、二週間前、村長のところの孫娘のエルザがいなくなったんだ。『森の天使に会いに行く』と言って、そのまま姿が見えなくなった。ハンスは、『俺が探しに行く』と言って、森に入った。それっきりハンスも……」
胸騒ぎを覚えた私は、引き止める村人たちを説得し、ライフル銃を持って森に入った。父とは八歳の頃から一緒に狩猟していたから、行きそうな場所なら分かっている。父はおそらく、村から十キロの地点にある仮小屋へ向かうはずだ。
トウヒとブナが密生する森はいつも通りの深閑さであったが、どこか言いようのない緊張感を孕んでいるように感じられた。
ほどなくして、私はその理由に気が付いた。まず、鳥の鳴き声がしない。小動物の姿が見当たらず、それにシカなどの大型の動物もどこにもいない。森に棲む生きとし生けるものすべてが、忽然と姿を消してしまったようだった。
二時間ほど森の奥へ進むと、私は奇妙なものを見つけた。それは倒木の陰で整然と列をなして立ち並んでいた。
一抱えほどもある、青白い球体。それがびっしりと地面に植え付けられている。蝶や蛾の卵のような形をしているが、とてつもなく大きい。そっと手で触れると、驚くべきことにそれは熱を持っており、静かに脈打っていて、薄く粘液まで纏っていた。今まで何度も森に入ったが、このようなものは見たことがない。明らかに異常な物体だった。
その時、私の脳裏にはっと閃くものがあった。「天使は増殖をする」とあの魔術師は言った。もしや、その増殖とはこれなのでは? この白い物体は、天使の卵なのではないか……?
考えに耽る私の耳に、突然、声が聞こえた。
「おーい」
それは、父の声だった。苦しい戦陣生活でも忘れることのなかった父の声。懐かしい、温もりのある声。それが聞こえる。
私は周囲を見渡し、叫んだ。
「父さん! 父さんですか!」
しかし、父の姿はどこにも見当たらない。それでも父の声はなおも聞こえてくる。
「おーい、おーい。息子よ、こっちだ、こっちに来てくれー」
声はどうやら森の更に奥からこちらへと発せられているようだった。私は銃を手に取ると、すぐにそこへ向かった。
私を呼ぶ声はなおも続いている。歩きつつ、私はふと違和感を覚えた。父は「おーい」などと私を呼ぶような人だったか? 父は寡黙な人だった。それに、私のことを「息子よ」などと呼ぶとは? 父は私のことを必ず「マックス」と呼ぶのに……
すぐに父は見つかった。父は頭だけを出して地面に埋まっていた。その顔は不自然に歪んでいた。媚びるような、にやけた笑みを浮かべている。父がこのような顔をしたことなど、今までに一度もない。
それよりも驚いたのは、父の顔が真っ白だったことだ。父の顔は天使と同じ、青白いものとなっていた。
訝しむ私を余所に、父は相変わらず奇妙な笑みを浮かべつつ、異様なほどに陽気な声を上げた。
「息子よ、こっちだ、早く来て助けてくれ。落とし穴に嵌ってしまったんだ、助けてくれ」
落とし穴に嵌る? 父ほど狩猟を熟知しているものが? 私は父に意識を向けつつ、素早くライフル銃に弾丸を装填した。そして、おもむろに父の頭部に向けて照準し、声が震えそうになるのを抑えて、言った。
「お前は、いったいなんだ」
父はにやけながら答えた。
「息子を愛する、ハンスだよ」
聞き終わるのを待つまでもなく、私は引き金を引いた。父は口に出して「私を愛する」などとは絶対に言わない。父は行動と態度で私に愛を伝える人だからだ。
だから、これは偽物だ。轟音と共に発射された鉛の弾丸は、数瞬も待たずして父らしきものの眉間に吸い込まれた。
絶叫。その声はもはや父のものではなかった。そして次の瞬間地面が激しく振動し、地下から父らしきものの体が姿を現した。
それは巨大な怪物だった。イノシシの胴体に人間の上半身がそそり立っていて、下半身には無数のシカの脚が生えている。背中からは純白の翼が伸びており、尻尾のある場所には粘液に覆われた円筒形の物体が突き出ている。
私は、上半身のある部分に目を奪われた。そこには少女の顔があった。かすかに見覚えのあるその顔は、おそらく村長の孫娘エルザのものだろう。少女の顔も、奇妙な笑みを浮かべていた。
怪物はしばらくのたうち回っていたが、ややあってズルっという場違いなほど生々しい音を立てた。見ると、臀部の円筒形の物体から何かを地面に産み落としたようだった。
それは、さきほど見たあの卵だった。円筒形の物体は卵管だったのだ。愕然とする私に、怪物は言った。
「腹が減ってよう、卵を産むと腹が減ってよう。だから息子よ、お前が欲しいんだよう」
見る間に上半身の腹部に切れ込みが走り、そこから大きな口が姿を現した。見覚えのある口。天使が魔族を丸呑みにした時に見せた、あの口と同じだ。怪物はその大口を開けたまま、私に向かって突進した。
だが怪物はその巨体を持て余し気味なようで、私が間一髪のところで突進を避けると、勢いあまって転倒した。私は距離を取り、銃に弾丸を装填しようとして、一瞬動きを止めた。
さっき撃った鉛の弾丸は効かなかった。ならば、銀の弾丸ならば……?
考えている間に、私の手は勝手に動いていた。上着のポケットに入れていた銀の弾丸を装填し、怪物が再び起き上がるのを待った。
怪物は起き上がると、叫んだ。
「卵をよう、産みたいんだよう。卵を、卵を!」
これは、断じて父ではない。ただの怪物だ。そう自分に言い聞かせながら、私は引き金を引いた。銀の弾丸は、今度こそ怪物の眉間を撃ち抜いた。怪物はあっけなく動きを止めた。
私は油断せず、銃を構えていた。すると、怪物の上半身の口から、げぼっという嘔吐音と共に何かが吐き出された。それは折れた銃と、青い鳥の羽根飾りがついた帽子だった。いずれも父の物だ。
「父さん……」
父はきっと、怪物と最後まで戦ったのだろう。だが、鉛の弾しか持っていなかった父は勝てなかったのだ。私は帽子を拾い上げると、頭にかぶった。生臭い粘液も気にならなかった。
最期の瞬間まで、きっと、父は憧れの父だったのだ。
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