Cotton Candy

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 彼は部屋の入り口で1度部屋を見回すように目を動かしたが、すぐにベッドサイドの電話へと向かった。水の流れる音は浴槽に溜まった水に吸収されて、随分小さくなっていた。彼は綺麗な細い手で受話器を持ち上げ、斜め上を見ながらしばらく何かを考えていたが、やがてそっと受話器を置いた。カチャン、というよく通る音が部屋の中に落ちて、消えていった。  「これ、何に使うの?」  男の人にしては高い、よく通る声だ。彼の細い指先は無造作にベッドの上に投げ捨てられたメスを指さしていた。先に微かな血がついている。私はどう応えるべきか迷って、その場に固まる。私はいつもこういう大切なとき、身動きがとれなくなってしまう。しかし彼は私を責めたり、怯えた様子を見せることもなく、私に笑いかけた。扉の前で見た、あのキラースマイルだった。  「気が変わった。よかったらモニター体験してみませんか」  「えっ」  「薄々感づいてるかと思うんですけど、僕女性向けのマッサージのお店から来たんです。ちょっとエッチなやつ。でもこの部屋にさっきまでいた人がキャンセルになって、店のボーイがそのこと伝え忘れててここまで来ちゃったんですけど」  怖い思いをさせてしまってすみません。彼は一気にそこまでしゃべったあとそう謝ったけど、全く悪びれて何ていないようだった。そして一歩、私のほうに踏み出す。  「無理にとは言わないけど・・・体験だから、お代はいただかないし」  「でも」  「それにね」  俯いて無難な言い訳を探す私を彼は遮った。それきり言葉を切った彼に、私は顔を上げる。優しげな柔和な瞳とまっすぐ目が合った。この世の優しさを煮詰めたような、柔らかそうなまぶた。それでもまっすぐに私を捉えて、あのスマイルを浮かべる。  「僕もそのつもりできたから、たぎっちゃって」  言葉と表情のギャップに腰を砕かれたように感じた。頭の中を支配されてぼんやりと頷いた私に、彼はそっと近づいてくる。砂糖菓子のような甘い香りが鼻先をくすぐった。厚着をした柔らかい腕で私をそっと抱きしめて、それから離した。カーディガンのポケットから名刺入れを取り出し、私の手をとって一枚握らせる。  「改めまして、レイアです。今日はよろしく」  私を覗き込んだ表情はやはり完璧な微笑みだった。背後で水道が止まる無粋な音がした。
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