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「・・・うーん、じゃあここだけの話ね。この仕事を始める前は芸能人の卵、みたいなことしてた。小っちゃい頃から歌って踊って演技して、仲間とすり切れるほど競ったけど・・・大成はしなかった」
立てなくなった私を彼はお風呂に運んでくれた。私の髪を優しく髪を洗いながら、ただ者じゃないですよね、としつこく尋ねる野暮な私に苦笑しつつ、そう教えてくれた。恥ずかしいな、とはにかむ表情も魅力的だ。
「へえ・・・どうりでイケメンなんだ」
「僕ぐらいのレベルならごまんといるよ。でも結構惜しい立ち位置で、もう少し頑張ったら有名になれる、って言われ続けて・・・結局やめちゃった」
彼のシャンプーは丁寧なのに、全く泡が額に垂れてこず、鏡越しに彼の表情を伺うことができた。広い浴場に彼のよく通る声が響く。
「でも今のほうが幸せだなって思うよ。全然足りない、もっと頑張れって言われ続けて、頑張って、不意に下に追い抜かされる、ファンの子は悲しむ、でも理由もわからない・・・みたいな生活を15年くらい続けてて。やめたときはそりゃあ惨めだったけど、そのおかげでこの仕事に出会えて、毎日が楽しいサイクルで回ってる。こういう仕事のことを天職って言うのかなあ」
彼の声は落ち着いていて優しかった。誰かに何か言葉を届ける人が使う声だった。きっと芸能活動も彼にとっては天職に近いものだったのだろうと思う。彼は私の髪についた泡を軽くきると、シャワーを手に取った。
「不思議だよ。辛いばっかりでさ、息切れしながら走り続ける毎日が終わって、ああもう夢も終わった、誰にも何も伝えられないし、喜ばせられないって思ってたのに。この仕事を始めたら、真逆。僕が楽しく余裕シャクシャクで仕事すればするほど、みんな喜んでくれる。気持ちよくなってくれるしね」
彼はシャワーの温度を手のひらで確かめながら、くしゃっとした笑顔を浮かべた。それから私の髪についた泡を丁寧に落とす。
「だからね、」
シャワーの音にかき消されながら彼の声は続く。
「ユートピアには、絶対に出会えるから。生きてさえいればね」
ユートピア。私はその浮世離れした言葉を口の中で何度も繰り返す。白昼堂々の街中で聞いたら、失笑してしまいそうな言葉も、レイアくんのやさしい声で聞くと、確かなリアリティを持って響く。
「私が、レイアくんに出会えたみたいに?」
自然とそんなセリフが口から漏れていた。彼は一瞬手を止めたが、すぐにふふふ、と笑う声が聞こえる。シャンプーの甘い匂いが鼻の中に満ちる。
「そんなふうに思ってくれるなんて、嬉しいな」
目を閉じているのに、彼のキラースマイルがまぶたの裏に浮かぶようだった。
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