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第1話 拾った雌猫
嘗て学生時代の親友に、シュペングラーの西洋の没落を読むように進められた事があった。その友人も全は読破していなかったらしいが、「ともかく良い本だから読め」という紹介だけされて、その本がどんな内容で何処が良い本なのかも分からずに、熱心に語る友人の姿だけが記憶に残っていた。
その後、何度か図書館で、その本を手にしたが、あまりのボリュームと難解な内容に嫌気がさし、そのままになっていた。そして何時しかそんな記憶も薄れていった。
僕は大学院を卒業後、数学を専攻していたためもあったかもしれないが、大手の信託会社で投資関連の仕事に就くことができた。外見の華やかさとは裏腹に、ほとんど休みの無い数年間が続いたが、その代償は潤沢に与えられ、有形無形の形で、僕らには報酬が支払われた。そのおかげで、当時の相場としては結構裕福な生活が出来ていた。例えば、僕が住んでいた都心のマンションは夜景が綺麗で、どちらかと言えば無機質な感じの内装は近未来的な雰囲気をかもし出し、最上階には展望バーもあった。徹夜明けの職場からもどると、同じような生活をしている同僚と強い酒を飲みながら、目の前の高層ビル群を眺めていた。しかし、心の底では「こんな生活は長くは続かないぞ。」そんな思いを僕も、同僚も持ちながら、ただ早く眠りに付くためだけに酒を飲んでいた。そんな中、確かIT関連のベンチャー企業のパーティーだったと思うが、アキコと名乗る女性と出会った。出会ったと言うより、何が興味を引いたのか知らないが、アキコのほうから近づいてきて話をしたのが切欠だったと思う。女性にしては長身でスタイルがよく、一見するとモデルの様にさえ見える彼女が何故僕に近づいて来たかその時はよく分からなかった。
彼女は、話し始めるやいなや、凡そ一般的な話題から遠くかけ離れた質問を聞いてきた。
「あなた、フェルマーの定理て知ってる。」僕は一瞬、何の話題か検討が付かなかったが
「あなたて数学が専攻だったんでしょ! あそこにいる同僚さんが紹介してくれたわ。あっそう、私、ヨシヤマアキコ、宜しく。」彼女は一方的に話題を提供した後、取って付けたように自己紹介した。
「はあ、西郡俊です。ええと、それで、数学の話がしたい訳!」
「うんん、フェルマーの定理が何かって事が知りたいのよ。」
「それって、数学の定理の話だよね。」
「そう見たいね、同僚さんたちが頭を捻って出してくれた回答で、本人たちには良く分からないから、数学専攻したあなたに聞けて言われたのよ。」
「君は、数学は…分かれば、そんな質問していないか?うん、じゃーピタゴラスの三角形て知ってる?三角形の二辺の二乗の和が斜辺の二乗になるてやつで、三角定規なんかで説明されなかった。」
「ああ、覚えは有るわね。それが、フェルマーの定理なの?」
「うん、定理の一部ではあるけど、そのものじゃない。三角定規て二つ有ったでしょ、二等辺三角形のと斜辺と長辺が三十度をしたのが?」
「有ったと思うけど、多分どっちか無くしたままだったわね。」
「その三角形て、例えば、三十度のやつて辺の比が1対2対ルート3なんだ、つまり、1の二条足すルート3つまり3は4となり、斜辺の2の二条となっている。もう一つ三角形も1対1対ルート2でつまり1の二条足す1の二条は2で、ルート2の二条の2になる。各辺の二条が整数で夫々を足した整数が斜辺の二条の整数値になるような物、Xのn乗足すYのn乗の和がZのn乗となる、でも、これは、nが2の時、つまりピタゴラスの定理までしか成り立たないんだ。nが3以上になると成り立たないと言うのがフェルマーの定理というか、何故そんな法則が成り立つのかを考えるのがフェルマーの大問題て言って、350年以上前から数学者が悩んできた問題なのさ、でも20世紀の終わり頃になって証明されたけどね。」
「ふーん、用は、成り立たない事の証明なのね。」彼女の退屈そうな返事に、この話題は、その後の話を続けても意味がないことを悟って打ち切った。
「何でそんなことが知りたかったんだ?」
「うん、ある人が仕切りに話すから…まあ大した事じゃないわ。それより、このパーティーそろそろ退屈なんだけど、抜け出さない?」
「確かに、主要なお偉いさんの挨拶も終わったし…」僕のその言葉を聴き終えないうちに彼女は僕の袖を掴んで外に出て行った。秋風はヒンヤリとした空気をまとい僕らを包んだ。まだそれほど寒くは無いのだろうけれどパーティー会場の室温との差が、一瞬身を縮めさせた。彼女はすばやくショールを肩に掛けると、僕の右腕に寄りそう様にして早足で歩き始めた。
「寒いのか?」
「ちょっとね。」
「この上着貸そうか?」
「案外気が聞くわね、でもこのドレスには合わないから結構よ。それに歩き出せば直ぐに暖かくなるし、まだこの季節夜風もそんなに冷たくないわ。」
僕らはオフィース街の真ん中にポッカリと空いた公園を抜けてから、駅近くでタクシーを拾った。彼女は僕をタクシーに引っ張り込むように乗せた後
「ああ、暖かい、あなたの所に行くから指示して」一方的に告げるとだんまりを決め込んだ。仕方なく、無愛想な運転手に自分のマンションへの経路をそれなりに丁寧に指示して出発させた。彼女は寝ているのか、そのふりをしているのか分からなかったが、僕は程よい暖気と車窓の景色を眺め、少しのあいだ楽しんでいた、そんな社内の中の臭いに一寸不自然なものが微かにあった。「クレゾールの臭い?」その時は、きっとタクシーの車内消毒に使われたのだろうと思って気にしてはいなかったが、成り行きで到着してしまった僕のマンションの前で、本当に寝入っていた彼女を起こす為に顔を近づけた時にそれの正体がはっきりした。
その臭いは微かだが、彼女の髪の毛から発せられていた。彼女は当たり前のように僕の部屋に入り込むと、何やらクローゼットを物色し、ワイシャツとトレーナーそしてランニングパンツを持ち出し、浴室に消えた。
其れなりの管理費を払っていることで、一人暮らしの部屋でも委託業者による掃除とビル内のクリーニング屋が処理してくれる服類は、きちんと整っていた。いきなり闖入してきた来訪者が、未だどの様な素性かが分からないまま、事態を受け入れなければならなかったが、不思議と彼女に対しての嫌悪感や違和感は無かった。風呂から上がってきた彼女は、ワイシャツを羽織っただけの様な格好で
「ランドリー使わせてもらってるから、あんたの部屋に女物の下着が有るとは思えないし、それとも何処かに隠してるとか?」
「あほか!」彼女は僕の反応にくすりと笑うと、僕が手にしていたミネラル水を奪い取り一気に飲み干した。
「それなりのお給料を貰っているから、それなりの生活をしてる訳ね。良い部屋だわ、一寸した高級ホテルよりましだわ。時々貸してくれないかな、お金は払うから、どうせ寝に帰って来るだけなんでしょう?」
「大きなお世話だ、第一お前は何者なんだ?」
「だから、ヨシヤマアキコよ、自己紹介しなかったかしら?」
「職業は?」
「そうね、娼婦?」
「最近の娼婦は、クレゾール臭がするのか、それとも病院専門の娼婦か?」
「ほうー、あなた鼻が良いのね。でも無職よ、失業中じゃなくて働かなくても良いの、お金はあるから。」
「ふーんそれは、いいご身分だ。」
「あえて言えば、介護人?と言ってもべつに病人の看護する訳じゃないわよ、そういうのはナースが遣ってくれるから。私は気の向いた時に側にいてあげるだけなの。」
「死神か?」
「ちょっとそれは失礼な表現だわね。どちらかと言えば天使の方なのよ!」
「ところで、何時まで居るつもりだ?」
「できたら、泊めてもらいたいなぁ、帰るの面倒だし、下着も洗濯しちゃったし。ドレスもクリーニングに出したいな。それと小腹が空いたな!」
「ご覧のように男の一人暮らしだ、料理なんて作ったこと無いから、食料なんか何にもないぞ。」
「ルームサービスは無いのか?」
「ここは、ホテルじゃないぞ。」
「じゃー、オーダーというか、出前はどう。」
「取った事が無いから分からん。」
「ふむ、そっけないな。何時もはどうしてるのよ?」
「帰りがけに、コンビニに寄るか、最上階のバーで適当に摘むかだな。」
「この恰好じゃ、バーは無理か、やっぱり出前だな。電話帳とかあるか?」
「そんな物はない。」
「ネットは繋がってるの?」
「ああ、そのパソコンが使えるがな。」
「ほうーリンゴPCね。」そう言ってから、彼女は何やら検索し始めていた。
「それはそうと、泊まると言ってもベットは一つだし、予備の寝具なんて無いからな。」
「いや、気にしないで、あなたと一緒でも一向に構わないけどね。お風呂に入って着替えもしたから病院臭はしないはずよ。」
「誰が、得体の知れない女と一緒に寝るか!」
「それは言い草だわね。巨乳とはいかなくても、それなりに胸は有るし、ボディーラインもその辺の女には負けないつもりよ!」
「それは見れば分かる。そういう事を言ってるんじゃない、行きずりの女を抱く気はしないということだ。」
「ふーん、べつにそれはあなたの勝手だけど、ひょっとして女に興味が無いのかしら?」
「至って健康な男性だが!」
「あらそうなの、自分で言うの変だけど、こんな上玉に手を出さない男なんておかしいわよ。」
「お前はそう言う風にして、金を持ってそうな男と寝るのか?」
「ふーん、そんな風に見えてるわけね。いっとくけど、男のお金には興味は無いわ。それなりに男には興味があるけどね。それに、どうせ信じないだろうけど、こんな風に男の部屋に押しかけたの今日が初めてよ。」彼女の言葉が終わった途端に、マンションの入門口からの呼び出しがあった。それは、ピザ屋の宅配便だった。
「ご免、私、現金持ってないのよ。立て替えて置いてよ、カードじゃ払えないでしょ。」彼女は財布から、プラチナカードを出して見せながら言った。僕はそのカード見て内心困惑しながらも、目の前にいる美女を信用する事が出来なかった。
ピザをぺろりと食べ終えると、ミネラル水とグラスを調達して来た彼女は、僕の前に置いてあったブランディーを継ぎ飲み始めた。
「おい、強い酒をそんな飲み方すると急性アルコール中毒になるぞ。」僕が忠告がてらに彼女のグラスを制した時、
「大きなお世話よ!」と言って僕の手を振り払ってからグラスを飲み干した。僕は顔を上げた彼女の顔を見て驚愕していた。何故なら彼女は大粒の涙を流していたからだった。
女の涙に騙されるな、昔の友人が良く言っていた事だったが、僕には彼女のその涙の訳が理解出来なかった。涙の後は予想通りの展開が待っていた。学生時代にコンパの最中、無茶な酒の飲み方をして急性アルコール中毒になり、救急車で運ばれていった学友を何人か見ていたが、目の前の美女はまさにその一歩手前の状態だった。朦朧とした意識の中で、トイレに駆け込んだ彼女は、さっき平らげたピザ一枚分をはき出した後、トイレで倒れ込んだ。僕はともかく水を飲ませては、吐かせて彼女の体の中のアルコールを薄める事にしたが、その処置が適切かどうかは自信が無かった。ふと頭の隅をかすめた知人の顔を逃さずに記憶に止め、何とか落ち着き始めた彼女をベッドに連れてから、電話をした。
「夜分、済まないんだが、変な拾い物してしまって、用はアルコール中毒の一歩手前らしいんだが、悪が診断して欲しいんだが。」寺山は、患者の状態を聞き出しながら、
「その娘は美人か?」と最後に訊いてきた。
「ああ、絶世の美人だ。もう一寸まともに知り合っていたなら喰っちまいたい位だ。」
「そうか、それなら直ぐに行ってやる。」そう言って電話が切れた。
ベットに横たわっている彼女は、この部屋に闖入してきた時とは別人の様になっていた。結局、ペルシャ猫が女豹を演じていたに過ぎなかったのか、逢った最初からその態度が引っかかっていた訳が何となく理解できた。程なくして寺山が到着した。寺山は脈と瞳孔を確認してから、点滴を準備した。
「うん、命に別状は無い。明日になれば意識も戻るだろう。」
「そうか、取りあえず良かった。」
「大分吐いたのか?」
「ああ、その前に信じられん位ピザを平らげたからな。」
「暫く、喉が潰れたままかもしれないな。所で誰なんだ、この娘は」
「本人はヨシヤマアキコだって言ってたが、得意先のIT企業のパーティーで突然声を掛けて来て、挙げ句に僕の部屋に闖入してきたんだ。」
「まあ、お前だから信じるけど、他の奴だったら警察ざただな。」そう言いながら、寺山は彼女の財布を検分していた。
「おい、そっちの方が警察ざたになるんじゃ無いのか?」
「患者の素性を知るのも、医者の勤めだからな。」そう言いながら財布の中身をテーブルの上に並べていた。
「プラチナカードか・・・お前さっきこの娘はヨシヤマアキコだっていったよな?」
「ああ、このカード見ろよ、レイカ・カラスマに成ってるぞ。」
「烏丸?て、あのビル王のか?」
「このプラチナカードからすると、そうなりそうだな。」寺山は暫く考えた後
「こりゃローマの休日だな。」
「はあ、なんだそれは?」
「映画だよ、某国のお姫様が公務に嫌気がさして来訪先の大使館をこっそり抜け出した挙げ句、一騒動起こした話のさ。この娘が烏丸の令嬢だとすれば、そんな所じゃ無いのか?」
寺山は、ひとしきりの処置を施してからあっさりと帰っていった。
趣味の山登りの道具の中から寝袋を引っ張り出し、僕は占領されてしまった自分のベッドを眺めながらソファーで寝た。翌朝、闖入者の寝顔を確認してからビルの地下に在る喫茶店に何時もの様に、朝食を取りに降りた。特に決めている訳では無いが、朝は下の店で、夜は上の店と言うパターンが多かった。いっその事このマンションに、ホテル並にレストランでも作っていてくれれば助かったのだが、住民相手の商売では採算が取れないのだろうか、そこまでのサービスは行き届いていなかった。テイクアウトのモーニングセットを持ち部屋に戻ると、彼女は起きていた。何所を物色したのか、コーヒーを入れようとしている最中だったが、僕の顔を見るなり、
「ああ、良かった。置いてけ堀にされて、餓死させられるかと思ったわ!」
闖入者兼ベッドの占領者は、我が居住空間さえも占領するような勢いで、僕の運んで来たモーニングセットを奪取した後に、
「昨夜はだいぶ迷惑掛けたみたいね?」と一寸しおらしい顔をしてから濁声で訊いてきた。
「ああ、大変だったな。国際医師免許を持った知人に診察して貰った。」僕は寺山が彼女に施した幾つかの処置について話そうか迷ったが止めにした。
「休日の日課なんで、近くの公園でジョギングをしに出かけるが・・・」
「ふぉう、結構健全なんだ。」今更ながら気づいた様に、彼女は
「あら、声が変だわね。」
「大分吐いたから、喉が潰れた様だ、二三日すれば直るだろうて医者の知人が言っていたが。」彼女はコクリと頷いてから、朝食の残りを平らげた。
僕は、スポーツ着に着替えてから公園に向かった。まだ朝のヒンヤリとした空気が残った遊歩道を走りながら、「世界都市」ふとそんな言葉が僕の脳裏を掠めていった。その公園は周囲に海外の居住者が多い為か、確かに幾つかの大使館は点在していたが、ジョギングや散歩をする人達の姿の中に外国人の割合が多かった。そこが都会の真ん中である事を忘れてしまう程の巨木と深い木立の中を走り抜けると、芝で覆われた広大な広場に出る。一見規則性も無さそうな場所にベンチが置かれ、歩道と芝の広場を区分けしていた。もう少し時間が経てば、子供を連れた家族連れがベンチの回りに陣取り、ボールを転がしたり、駆け回ったりするだろう光景を思い浮かべながら、僕はベンチの横を走り過ぎた。その光景は、この大都市における本当に何時もの風景でしか無かった。
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