駄目教師は復讐する

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(二)先生の車をパンクさせちゃる  中学では、私は吹奏楽部に入ろうと決めていた。私が入った中学には文化部は吹奏楽と郷土部しかなかった。他は体育部であった。私が吹奏楽に入ろうとした目的は「みんなで音楽を作る」なんて高尚なものではなかった。吹奏楽の練習をする音楽室にはピアノが置いてあり、それが自由に弾けると思ったからである。  最初に吹奏楽部を見学していたら、音楽の教師が言った。  「君はトランペットの加納君の弟か?」  「はい」  「それならばトランペットをやってもらおうか。彼の兄さんもトランペットが上手かったからな」  「いや、僕はパーカッションがいいです」  その言葉を無視して音楽の教師はトランペットを持ってきた。こんなもの吹けるわけがない。私は何か自分がとんでもない期待をされていることを悟った。そしてそれは次にこの教師から発せられた言葉で確実なものとなった。  「お兄さんは陸上もやっていたんやけど、陸上には入らへんのか?」  「いや、僕は運動が大の苦手で入りません」  「ふーん。そうか。じゃあ吹奏楽の方をしっかりとやってくれるか?」  こうして私は吹奏楽の部員となり、トランペットの練習を始めた。最初は音を鳴らすだけで必死だった。管楽器というものは音を鳴らすだけでも難しい。先ずはその練習であった。パート練習ということで先輩が懇切丁寧に音の鳴らし方を指導してくれた。  音楽室に行けばピアノが自由に弾けると思っていた私であったが、ピアノに触る機会もなかった。戯れにピアノに触れると「誰や!ピアノを触っているのは?」と音楽の教師の怒鳴り声が飛んだからだ。  私には中学時代の楽しかった思い出なんか一つもなかった。一年生の頃はクラスでいじめられ、二年・三年生は部活動で後輩から嫌われていた。その理由は後述するが、何も面白くはない中学生活であった。大体、部活動が嫌ならやめたらいいのである。しかし、音楽の教師や両親からやめることは禁じられていた。  「こんなことでやめるようならば将来ろくなもんにならない」と言われたのだ。しかし、事実は違う。私は大学に入ってから武術系の厳しいクラブに入ったが、やめることはなかった。元々私は発達障害を持ち、その障害の性質から言って「他人と合わせる」なんてことは高等数学の数式を理解するよりも困難なことであったのだ。しかし私の障害(アスペルガー)が発見されるのは私が大人になってからのことであった。  そうして約半年かかって私はトランペットで1オクターブのドレミファソラシドができるようになった。  部活動もそうだが、大体学校なんか行っても何にもならないと、この後に教師になることになる私は考えている。学校なんか嫌ならやめたらいいのである。いじめ自殺なんかが日本中で起こっているが、学校なんて命を賭してまで行くような所ではない。今ではフリースクールもあるし、通信制の学校なんかいたる所にある。「学校へ行かない」というのは選択肢として何も間違ったことではないのだ。  しかし私は学校へ行った。命をかけて行った。そして何か嫌なことがあると暴力に訴えるか泣くか、もしくは他のことに全身全霊を傾けるかしか術はなかったのである。まだいじめが社会問題化する以前の話であったからである。いじめで自殺する奴もいなければ不登校になる者さえいなかった。  こうして私の中学生活が始まった。                 *  中学には所謂「町の子」と「田舎の子」がいた。町と言ってもそんなに大きな町ではない。漁師町が大きくなったような程度である。しかし町村合併以前はそこは「○○町」と呼ばれ、私の育った田舎は「○○村」であった。そしてそんな「町の子」が私の入学以来ちょっかいをかけるようになってきたのだ。 その子の名は半村と言った。髪を長く伸ばして真ん中で分けていた。所謂「イケメン」であった。一方の私は頭はクリクリ坊主であり、とても「ピアノの名手」には見えなかった。幼稚園からやっていたピアノである。相当な腕に達していたことは言うまでもない。既にショパンの「幻想即興曲」なんかを弾きこなしていたのだ。また、町の子で、吹奏楽部に遅れて入って来た田邨という男もいた。彼は小学校からトランペットをやり、私のことを「下手くそ」といつも言っていた。一年生の間、私は誰の前でもピアノを披露することはなかったので、こいつがベートーベンやショパンを弾ける男だとは誰もが思わなかった。  同じクラスになった半村の家へ私は何度か遊びに行った。彼の家は漁師町の真ん中にあった。玄関から一歩入れば応接間があった。テレビでしか見たことのないような洒落た部屋であり、ソファーが備え付けられていて、照明はシャンデリアであった。こんな家は私の田舎の家にはない。私の家は玄関から入れば未だに「かまど」があって、一段高くなった土間で家族が食事をするようになっていた。玄関脇の小さな部屋にピアノが置いてあることがどう考えても家の構造上不釣り合いであった。  「綺麗な家やのう」  「いや、この町では普通やで」  彼はこともなげに答えた。悔し紛れに私は尋ねた。  「ピアノはないんか?」  「ないよ。君んちにはあるんか?」  「あるよ」  「そんならまた見せてもらうよ」  「ああ」  実は私は「家を見られたらどうしようか」と内心では戦々恐々としていたのだ。彼の家に比べたら、私の家なんかは家とは言えない、まさに「小屋」であったからである。そして、この半村とやがて喧嘩を始める。そしてクラスのみんなと担任教師が半村の味方をし、私は孤立無援になるのだった。そして、それは早くも一学期の5月から始まった。  私には密かに思いを寄せている女の子がいた。小学校の同級生で田村由紀子という子であった。そして何の折か忘れたが、そのことを半村に話してしまったのである。半村はそれを聞くと水を得た魚のように元気になり、騒ぎ始めた。  「あのなあ、恭輔君の好きな子はなあ---」  「おい、やめてくれよ」  「ええやんか。あのなあ、恭輔君の好きな子はなあ---」  これが一回や二回ならまだ我慢できた。しかし何度にもわたってそういうことが行われたのだからたまったものではない。私は「切れ」かかっていたが、何とかこらえた。そして六月になってもそれは続いた。  「あのなあ、恭輔君の好きな子はなあ---」  「お前、ええ加減にせえよ!」  半狂乱になった私は半村の長い髪の毛を掴んで彼のおでこを何度も机にたたきつけた。教室にいた同級生の半分は避難し、半分は面白がってまくし立てた。  「おい、喧嘩や、喧嘩や、もっとやれ」  しかし女子生徒は違った。この二人の喧嘩を見ていて私のことを乱暴者と思って担任教師に報告したのである。そりゃ、半村は手を出してないんだから私を「乱暴者」と思っても不思議ではない。しかし私は元来暴力なんかに訴える人間ではなかった。野球もサッカーもせずに幼少期は女の子とお人形さん遊びやおままごとをしていたような男である。半村のおでこを机にいくら叩きつけても痛くはなかったのであろう。半村は無言でされるままになっていた。  そして担任教師の呼び出しがかかった。普通は喧嘩両成敗なのに、私だけが生徒指導室に呼ばれた。全く以て不条理である。  「お前は何で半村に暴力を振るった?」担任の栗山は腕組みをしながら目下の者を睨みつけるように言った。当時の私の考えでは教師とは「偉い大人」であった。だから栗山に逆らう術は知らなかったし、また逆らう気概もなかった。私は半泣きになって言われることを聞いていた。  「何で暴力を振るったんや?言うてみい」  「半村君が僕の好きな子をみんなにばらそうとしたから」  「そんなことが暴力を振るう理由になると思っているのか?」  「---」  「ええか。暴力振るったら負けや。半村に謝ってこい」  「嫌です」  「何でや。反省の色がないなあ」  「何で僕だけ反省せなあかんの?」  「それはお前が暴力を振るったからって言ってるやないか?」  「先に怒らせたのは半村君です」  「それなら半村を連れてくるから待っとけ」  それから暫く経ってから半村が指導室に入ってきた。何か鼻で息を大きくしながら「僕は怒っています。被害者です」とでも言いたそうな表情をしていた。二人は暫くにらみ合ったままであったが、こんなことをしていてもらちがあかない。仕方なく私は「御免」と言った。栗山は何も言わなかった。こうして事が済んだと思ったのであろう。しかし恭輔は納得がいかなかった。先に挑発をしてきたのは向こうの方だったからである。  そして、これが契機となってクラスでの私に対するいじめが始まった。そして担任の栗山はそのいじめに加担した。---というよりは栗山が率先して恭輔をいじめるように仕掛けたと言っても過言ではない。  当時のいじめの原型は、東京の富士見中学での「葬式ごっこ」事件である。担任教師が生徒との「連帯」のために「葬式ごっこ」に加わって世間の非難を浴びたのである。事実、当時の教師達にとって誰が誰をいじめているなんて関係がなかった。何よりも「クラスの連帯」が重視されたのだ。そのためにいじめでも何でも行った。あたかもそれが正しい教育であるかのような風潮が醸成されていたのだ。私が大人になってからスマップの「世界で一つだけの花」なんて歌がヒットするが、当時の教育は「個を大事にする」ではなくて「集団の規律を破る奴は無視せよ」なのであった。そして栗山も例外ではなかった。  こうして先生のお墨付きが出来上がったので、クラスでは私に対していじめ放題という風潮が出来上がった。いじめられた私は、腕力があるわけではなかったので泣くか半狂乱になって物に当たり散らして益々クラスで孤立することになった。 そして、ある日のことである。私が登校して下駄箱を開けるとゴミが詰まっていた。そのゴミが下駄箱を開けると溢れ出てきた。ゴミをどけると上履きがなかった。仕方なく私は上履きを履かずに教室へ入った。すると黒板をいっぱいに使って落書きがしてあった。  「暴力男、加納恭輔、消えろ!死ね!」などと書かれていた。私は黒板消しを使って一生懸命落書きを消した。そして机へ戻ると、そこにも落書きがあった。「加納恭輔キモい」と書かれていた。  その落書きを消そうとしていると栗山が入ってきた。  「何してるんや?」  「僕の机に落書きが---」  「そうか。自業自得やな」栗山はそう言って教卓に戻り、授業を始めた。私は頭が真っ白になって、半泣きになりながら机をバンバンと叩き始めた。勿論栗山は黙っていない。  「加納、みんなに迷惑かけるんやったら教室から出て行け!」と一喝した。ここで私は教室から出たらよかったものを、そのまま椅子に座り直して授業を受けた。  そして放課後、なぜか野球部の東田と陸上部の中尾に呼び出された。  「おい、お前、ちょっと体育館の裏まで来い」 東田も中尾も「町の子」である。しかも運動部に所属しているためか体格もいい。仕方なく私は体育館の裏までのこのこと出かけたのだ。そこには東田と中尾と、なぜか半村までもが待っていた。この二人は半村の友人だったのだ。東田が口を開いた。  「お前生意気やから今からしばくからな」そう言って腹を蹴った。私は腹を押さえてうずくまった。内蔵の痛さとともになぜか悲しみがこみ上げてきた。「どうして僕がこんな目に遭わされるの?」という悲しみだったのであろう。私がうずくまると今度は中尾が頬を殴った。私は頬を押さえた。おもむろに半村が言った。  「見てみ。暴力振るわれたらどんな気持ち?」  私は腹を押さえたまま倒れ込んだ。そこへ三人が蹴りを入れる。  「やめてよー。わかったよー」  「何がわかったんじゃ?こんなもんですめへんぞ」そう言って今度はズボンを脱がしにかかった。下半身がパンツ一枚になった私は大声で叫んだ。  「助けてーー」  三人はなおも腹を蹴り続けた。私は動物的勘が働いて死んだ真似をした.。  「おい、殺してしもたんとちゃうか?」  「よし、逃げ!」三人は逃げて行った。  翌日の昼休みに今度はトイレに呼び出された。呼び出したのは同じ三人であった。そして私を無理矢理大便器の中へ押し込んだ。戸を開けようとしたが、誰かが大変な力で押さえていて動かなかった。そして、しばらくの静寂の後に上からホースが降りてきた。  「いなかもん、臭いんじゃ。これで洗ろうたる」  放水が始まった。ホースが蛇のようにくねりくねり蛇行しながら勢いよく水を吐き出した。びしょ濡れになった。  「やめてよー、やめてよー」  大便器の外で笑い声がした。三人ではない。十人くらいはいそうである。この状況を楽しんでいる所謂「傍観者」だ。  放水は十分間くらい続いた。半泣きになって外へ出ると誰もいなかった。私は給食を食べるために教室へ戻った。  この学校では給食は班で食べることになっており、四人が顔を突き合わせることになっていた。しかし私の机だけが班の四人の机から離されていた。だから一人で給食を食べなければならなかった。  その後、何度か三人の「町の子」によってトイレや体育館の裏に呼び出され、いじめられた。また、給食時には班の者から机を離されて食べなければならなかった。給食は担任教師も一緒になって食べるが、完全に無視されていた。担任教師の差し金で私の自業自得ということになっていた。  こんな状態になっても私は学校へでかけ、部活動もやっていた。部活動ではいつも田邨から馬鹿にされていたが、綺麗な音がでるまで練習した。  そんな折、部活動でも事件が起こった。それは三人の同級生の女子がホルンをやっていたのだが、その中で溝口という美人がいた。私達と同じクラスであった。  私が机に向かってぼんやりとしていると半村が突然言った。  「お前、溝口の方ばっかり向いて、好きなんやろ」  「いや、別に」  「言ってやろ、言ってやろ。おい、溝口」  「やめてくれよ」  「恭輔君がお前のこと好きなんやて」  溝口の顔が曇った。相手はクラスの嫌われ者である。そんな男から好かれても嬉しいわけがない。溝口は青筋を立てて怒りだした。半村に向かってではない。私に向かって怒りの刃を向けてきた。  「私、あんたのことなんか大嫌い!」そう言って思いっきり顔をしかめ、私の頭を平手で叩いた。私は泣き出した。  「わー。振られたから言うて泣いてやがる。こいつ本当に最低やなあ」  それから溝口は私を見るたびにしかめっ面をして友人を誘ってこそこそと逃げるようになった。   私は担任の栗山や半村やクラスのいじめっ子に対して思っていた。  「恨みはらさでおくものか!」  そう。犬殺しで小学校時代に「英雄」となった私は虎視眈々と復讐の機会を待っていたのだ。実は完全な復讐は大学時代に成し遂げられる。それまで私は恨みを忘れなかったのだ。そう。私は非常に「しつこい」男だったのである。 *  元々私がクラスでシカトされ、いじめを受けるはっきりとした原因をクラスの者全員が理解し、その意義を共有していたわけではなかった。半村に暴力は振るったが、それは既に終わったことだとクラスの全員が認識していた。私は当時首一面にでき物ができていたのであった。そしてこれも嫌われる原因の一つであった。そのでき物は子供の頃は小さかったが、思春期になると女の子が逃げていくほどに成長していた。みんなから「うつる」と思われていたのだ。  そんなことは担任も承知していた。しかし担任の栗山の意図は別の所にあった。「クラスの団結」のためにはスケープゴートが必要だったのだ。あの「葬式ごっこ事件」の教師と同じ発想であった。また、私には整理整頓という概念が欠落していた。机の中はもらったプリント類が散乱し、食べ残しのパンまで詰められていた。それをある日、クラスの誰かが発見して給食の時に騒いだのだ。私は一緒に給食を食べてはくれない班員に言ったことがある。  「何で給食の時に机離すの?」すると班の一人の男の子が言った。  「お前、汚いからじゃ」  「僕のどこが汚いの?」班員の別の女子が話に割り込んだ。  「それなら机の中見せてよ」そう言っていきなり私の机を横に向けて机の中からあえるものを全て取り出しにかかった。給食の残りのパンやプリント類が山のように出てきた。 「おい、これ何じゃ?このゴミ男が」  「ほんま、汚な」クラスの全員の大合唱が起こった。  「ゴミ男、ゴミ男」  実はゴミを捨てることができないというのは私の「障害」だったのだ。しかし、それがわかるのは彼が大人になってからだった。  しかし、ある日、溝口の態度があんまりだというクラスメイトが現れた。地獄に仏というのはこのことか?  放課後の反省会である男が言った。クラス役員をやっている男だ。  「最近の溝口さんの恭輔君に対する態度は酷いと思います」  「そうや。溝口、なんであんな冷たい態度とるのん?」男子生徒の一人が言った。  「彼のでき物のせいとちゃうか?」  「それやったらあかんで。可哀想や」  「そうや、そうや、溝口謝れ」  そこへ栗山がなぜか口を挟んだ。  「こいつは半村に暴力を振るってきた奴や。そんなのんは当たり前ちゃうか?」  「そう言われたらそうやなあ」  「そうやそうや当たり前や」  こうしてせっかくのクラスとの和解のチャンスを担任教師が無茶苦茶にしてしまった。溝口の方は同じ吹奏楽部であったので、部活動の時に謝ったが、この担任の態度に納得がいかなかった。    ここで恭輔には選択肢は残されていないと思った。もう復讐しかないと思ったのである。 しかし今から考えると選択肢はあったのだ。それも二つもあったのだ。一つは自殺、すなわち死を以て担任教師に抗議すること、そしてもう一つは不登校を決め込むことであった。大体、学校なんか命をかけてまで行く所ではない。今ではフリースクールもあるし、通信制の高校なんかいくらでもあるし、高校卒業資格認定試験もある。ところが、当時の私の考えでは教師は「偉い大人」であった。だからそれに逆らう術は知らなかった。だから、父親はいじめられて困っている私に追い打ちをかけた。  「お前は喧嘩なんかにうつつをぬかしている暇があったら勉強せんか。勉強して見返してやれ」と言うのみであった。  こんな状況になっても私はピアノの練習だけは怠らなかった。しかし明らかにピアノの腕は落ちていた。五時間もピアノに向かうということはなくなった。  そんなピアノに代わって私の心を捉えたのが宗教であった。当時、朝のラジオ番組で「宗教の時間」や「信仰の時間」というのがあって、それを欠かさず聞くようになり、いつの間にか仏壇で祖父とともにサンスクリット語で般若心経を唱えたりしはじめた。私の読経の声は寝室で寝ている両親にも聞こえる。 「カーティカーティパラーカーティパラーサンカーティボディースバハーパニャーパラミターチタスートラ」  また、母親の実家の浄土真宗の寺やお光りさんの宗教やキリスト教会なんかへ出かけるようになっていった。いわゆる宗教遍歴が始まったのだ。  そうなってくると今度は母親が心配し始めた。母親はクリスチャンだったのだ。そのことはあまり母親は話さなかったが、この母親は毎日寝る前に布団の中で何かおまじないを唱えていたのを覚えている。  「天にまします我らが父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせ給え。御心の天になるごとく地にもならせたまえ。我らの日常の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを我らが許すごとく我らの罪をも許したまえ。我らを試みに会わせず悪より救いだしたまえ。国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」  これがキリスト教の「主の祈り」というものであることは大人になって初めて知ることになる。  さて、自分ちの仏壇だけでは飽き足らず、やがて様々な宗教団体を渡り歩くようになってきた。読む本も変わっていった。少年の読む本ではなく、ニーチャやキルケゴールなんかを読むようになったのである。この頃から私の関心は音楽以外にも向き始めていた。勿論、「自分は音楽しかできない」というコンプレックスは抱き続けていたが、精神性では誰にも負けないという自負も出来上がってきた。だから栗山をはじめ、教師なんかはお馬鹿に見えてきた。勿論、私を散々いじめる同級生もお馬鹿に見えてきた。すぐに「勉強して兄のように偉くなれ」なんて言う父親も馬鹿に思えてきた。彼らとは「文化」が違うと思っていたのだ。  そんな時に事件が起こった。 *  私はお金の入っている箪笥のありかを知っていた。両親が寝ている部屋に三つの箪笥が並んでいて、みんな桐の立派な箪笥であった。母親の結婚の時に持参したものだという。 その箪笥は両親の寝ている部屋でも際立って立派に見えた。左に黒い箪笥が一つと、その右に白い箪笥が二つ林立していた。そして、中には衣類が収められていたのだが、真ん中の箪笥だけ上部に引き出しが二つあって、その右の引き出しに通帳や印鑑が入っていたのだ。私がその箪笥の引き出しを開けると、中に茶封筒があった。そしてその茶封筒には「特別賞与」と書かれていた。泥棒であることはわかっていたが、その封筒の中身を見て驚いた。一万円札が何十枚も入っていたのだ。良心が麻痺してしまった。そして思った。  「俺が学校でいじめられているのに『勉強勉強』と言いやがって。それならこの金をくすねて家出してやる」そう思って一万円札を十枚ほど抜き取った。  その夜、私は新幹線に乗っていた。行く当てがあったわけではない。とにかくこの地獄から抜けだしたかったのである。  名古屋で新幹線を降りた。服装は学生服。学校へ通学するままの服装であったから、すぐに補導員に見つかった。  「君、ここの子ではないな。どこへ行くんだ?家出か?」  ここで正直に言う所がまだ子供だった。  「はい。家出しました」  「とにかく、そこの交番で話を聞こう」  こうして交番へ連行された。中には人のよさそうなお巡りさんがいた。  「とにかく学校と家には連絡するからな。住所と電話番号は言えるか?」  私は正直に住所と電話番号を話した。その後、警官は家に電話したようである。母親がやってくるとのことであった。その間、お巡りさんが味噌カツをご馳走してくれた。  「家の人、心配してたがや。何があったのか言うてみ」  ここで私は学校のことを話した。お巡りさんは調書を取りながらじっと聞いてくれた。  やがて新幹線に乗って母親がやってきた。父親は仕事が忙しいので来られないということであった。  「まあ、この子、こんなに心配かけて。お父さんも心配してたで。今日はホテルに泊まるからお巡りさんにお礼を言いなさい」  「はい、どうも有り難うございました」    こうしてわずか二日間の家出は終わった。帰ったら父親が待っている。殴られるかも知れない。そう思っていたが、「よく帰ってきたな」と言ったきりであった。  そして二日間学校を休んだだけで学校へ出た。  「わー。キモいのが来た」それが同級生の第一声であった。しかし気にはしなかった。いい方法を思いついたからである。  四時間目が終わると給食の配膳がなされた。給食のトレイが全員に行き渡ると、私の班員はいつものように私の机から離れた。私はトレイを持ったまま教室を後にした。  「おい、どこ行くんや?」と栗山は言ったが、追いかけてくる様子もなかったので、校長室の前の廊下へ行き、給食を食べ始めた。最初は何人かの教師が訝しげに見ただけで終わったが、二日目に校長が出てきた。  「君は確か一年一組の加納君やったね。まあ、中へ入りなさい」  この校長は名校長として知られている。決して威張ることなく、人当たりがよいことで生徒の人気もあった。だから何の躊躇もなく校長室へ入った。校長先生も生徒と同じように給食を食べていた。それは 私にとっては全くの異世界の出来事のようであった。校長先生というのはみんなと違ってもっと美味しいものを食べていると思っていたからである。  「校長先生も給食を食べるのですか?」  「そうですよ。先生もみんなと同じものを食べるのですよ。ところでどうしてあんな所で給食を食べていたのですか?」  「僕が給食を食べようとするとみんなが『汚いからあっちへ行け』と言うので、いつも僕は一人で給食を食べているのです」  「担任の栗山先生は何も言わないのですか?」  「自業自得だと言ってました」  「本当ですか?本当ならそれは非道い。栗山先生も君をいじめるのですか?」  「はい」  「そこで君はどうしたいと思っているのですか?」  「はい。最初は自殺してこのことを遺書に書いて教育委員会へ送ろうと思っていました。でも考えを変えて自殺はしないけど、このことは手紙に書いて内容証明郵便で教育委員会へ送ります」  校長は一瞬動揺した。「誰がこんな子供にこんな知恵をつけたのだろうか」と思ったが、すぐに気を取り直して言った。  「わかりました。このことは職員会議で取り上げましょう。そしてその結果も伝えるから、明日からは教室へ戻りなさい」  「はい。よろしくお願いします」  それから暫くしていじめはなくなった。栗山も何も言わなくなった。校長から何か「お達し」があったのだろう。しかし職員会議の報告というのは最後までなかった。この問題を本当に職員会議で討議したか否かは不明である。    こうしてクラスでのいじめはなくなったが、今度は吹奏楽部の部活動でのいじめが始まった。私は第二トランペットのパートを与えられていたのだが、上手く吹けない。音を出すのが精一杯であった。それを小学校からトランペットをやっていた田邨が馬鹿にするようになってきたのだ。田邨はいらついていた。楽器ができない癖になぜ吹奏楽部に入っているのだろうかと思っていた。勿論、私がピアノを弾けるなんて思ってはいなかった。音楽室のピアノというものに触れたことがなかったからである。  しかし、そんな私に助けの手を伸べてくれた友人がいた。小学校で一緒だった不良の富山である。彼は髪の毛を茶髪に染め、態度も大きく、誰が見ても立派な「不良」であった。そしてもう一人、柔道部に入っていた幼馴染みの田岡であった。  私は、よく田岡のいる柔道場へ遊びに出かけていた。音楽室が四階にあり、柔道場は一階にあったのでお互いの動きは手に取るようにわかった。そして、いじめが嫌になった私は吹奏楽部をやめて柔道部に入るという挙に出たのである。この時、なぜか富山が一緒に柔道部に入った。  柔道の練習は学校の柔道場で行われるが、それとともに柔道場のある町へ火曜日と土曜日には出かけるようになった。私はそうなってもピアノの練習は欠かさなかった。土曜日はピアノのレッスンのある日であり、学校が終わるとその足でピアノの練習にかけつけ、練習が終わると柔道の道場まで自転車で移動である。その距離は約十五キロ。若かったとはいえ、無謀だ。それ以来私は遅刻の常習犯になる。そして富山とつるんでわるさをするようになってきた。ここに立派な不良少年が一人出来上がった。  柔道場で柔道の練習をしていえと四階から女の子が叫ぶ。  「恭輔君、練習は?」  無視した。吹奏楽なんかには何の未練もない。そしてもう一人、田邨も窓から叫ぶ。  「この下手くそ」  田岡が反撃の手を差し伸べてくれる。  「田邨君よ、恭輔君は先輩やぞ」  「何言うとんのや?下手くそはやめてしまえ」  さて、富山と付き合い始めたことによって完全にいじめはなくなった。私をいじめるということは富山に楯突くことになるからだ。  柔道の道場は夜なので、それまでに富山と落ち合う。場所は爆竹なんかの置いてある商店である。そこで爆竹を万引きしては近くの小学校で鳴らして遊ぶのである。爆竹の置いてある所は店の死角になっていて簡単に万引きすることができた。私が爆竹なんかの安いものを万引きしている間に富山は万年筆や文鎮などの高価なものを万引きする。最初、万引きする時には体の震えが止まらなかった。当時は監視カメラなんかなかったので見つかることはない。しかしどこかに良心が残っていたのであろう。不良仲間の誰かが二人くらい万引きをしている最中に釣り道具のリールを盗んでからは弾みがついてしまった。それから一人ででも万引きすることがあった。ただし、盗るものが変わっていた。本である。「カラマーゾフの兄弟」「ツアラトウストラはかく語った」「原説般若心経」などが事が発覚した後に私の本棚から見つかった。  これに対して富山は根っからの「不良」である。それを見せつけられて「こいつここまでやるか?」と思ったことも二回や三回ではなかった。  ある日曜日のことである。富山が家へやってきた。このワルが本物のワルだと両親は知らない。当時はインターフォンなんかなかったので、玄関を開けると富山は叫ぶ。  「恭輔君いますか?」  何も知らない脳天気な母親が「はい、今呼んで来ます」と言った。  「恭輔、お友達よ」  「はーい」玄関へ行くと富山がいた。富山は両親に聞かれないように小声で言った。  「今から隣の中学へ行くねん。一緒に来やへんか?」  「わかった、すぐに行く」玄関から外に出るとワルの仲間が他にも七人くらいいた。  「(隣町の中学で何するのやろか?)」怪訝には思ったが、私もこのワルの集団に加わって自転車で出かけた。三十分も自転車で走れば隣町だ。賑やかなお祭りが行われていた。最初、ワルの一行は駄菓子屋と豆腐屋を兼ねた店に入った。何気なく私が飲んだジュースの空き瓶を豆腐の入れ物に入れた。それを見ていたおじさんが激怒して言った。 「何するんや。このガキが!これは商売道具やぞ!」そして私を小突いた。これが富山にとってのワルサをするための絶好の口実になったのだ。  「おい、恭さん。何言われたんじゃ?」  「いや、商売道具に空き瓶を入れたので怒られただけじゃ」  「何ー?そんなことで怒りよって。よし、敵討ちじゃ」そう言って隣町の中学に向かって自転車を走らせ始めた。私も後を追った。三中のワルどもが集団で通りを行く。みんな道をよけた。いっぱしの不良になった気がした。なぜか胸が躍った。  「(これから何が始まるのだろうか?)」  すると、テニスの格好をした二人の女子中学生にすれ違った。すかざず富山はその二人を蹴り倒した。  「何するのよー?」「ほんまよ。あんたら警察呼ぶよ」すかさず富山が毒づく。  「警察?おもろいやないか。呼んでみい」  その後、ワルどもは隣町の中学目指して自転車で駆けて行った。  中学校には簡単に侵入できた。当時はセコムなんかなかったのだ。校舎から体育館へ入った。  仲間の川谷が登山ナイフを取り出して言った。  「おい、このバレーのネット切ったるか?」  「おう、やったれ、やったれ」私は言った。もういっぱしの不良である。  そして数人でバレーボールのネットをズタズタに切り裂いた。その後、校庭に出てテニスのネットも切り裂いた。そして不良どもは海へ出た。そこに食堂があったので、食い逃げをした。その後ゲームセンターへ入った。  「おい、三中のワルが来たぞ」誰かが言った。  「誰が三中のワルなんじゃ?」富山はそいつの頬を思いっきり殴った。殴られた中学生は床に倒れた。  その後、私と富山は悪逆非道の限りを尽くした。  バイクを窃盗して走り回るわ、女子高生を襲って逃げられるわ、商店へ入ればタバコを万引きして吸うわ、無茶苦茶であった。薄れかけている良心が言う。  「(こいつ、ワルやと思っていたけど、ここまでやるか?)」  勿論、こんなことがいつまでも続くわけはない。やがて富山等の悪行が明るみに出ることになった。  ある土曜日の夜、私と田岡が一緒に帰っていた。その途上で田岡がバイクを盗もうとして見つかり、それから芋づる式にワルどもの悪行が教師達の知るところとなった。  約七人の生徒が指導室に呼ばれた。  「おまえ等のやったことを全部反省文に書け」  こうして親を呼ばれてさんざん説教を受けた。警察には知らされなかったようである。 ワルどもの大半は柔道部をやめた。一年生の一月のことであった。    さて、ここから私の復讐が始まる。敵は担任の栗山である。いつも不良仲間とつるんでやっていたことを、この教師にやってやったのだ。  先ずは栗山の車のタイヤを四輪ともパンクさせた。  昼休みに私が教師用の駐車場へ行ってみると、そこには人影がなかった。チャンス到来である。私は用意しておいた桐を取り出して栗山の車のタイヤ全てに穴をあけ、何くわぬ顔で教室へ戻ってきたのである。ただし、生徒には手は出さなかった。栗山も、私に復讐されるとは思ってもいないだろう。その後、なぜか他の教師の車もパンクさせ、十円玉でボンネットに傷をつけた。  その後、パンクのことは職員間で大問題になったようだが、結局犯人は分からずじまいであったようである。犬殺しに比べれば可愛いものである。
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