駄目教師は復讐する

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(三)最もいじめの多い部活    やがて私は中学二年生になった。半村とは当然別のクラスになって一安心した。勿論富山とも別のクラスであった。そしてやることのなくなった私は教師が言ったことを丸暗記し始めた。丸暗記と言っても私にとっては難しいことではなかった。ピアノをやっていると右脳を使うので記憶力がよくなるというが、それは事実のようであった。しかし、その上に私には奇妙な特技があった。私は「カメラアイ」であったのだ。すなわち、教科書や黒板を一回見ただけで、それを大脳に刻むことができたのだ。私はこの能力を誰もが当然のように持っていると信じて疑わなかった。  そんなことができるのなら昔から勉強もできたはずだと思われる人もいるだろうが、実際にはこのカメラアイの使い方が長い間分からず、勉強ができるようになったのは中学二年からだった。  田舎の学校では勉強ができる者をいじめる奴はいなかった。いつの間にかいじめはなくなった。それから、富山との関係であるが、不思議なことに全く悪くはならなかった。三年生になってから富山と同じクラスになり、小テストなんかをこっそりと富山にカンニングさせていたからであった。私がテストを書き終えると、その用紙をこっそりと机の左端に出して富山に見えるようにしていたのである。  また、部活動だが、吹奏楽部に復帰した。これが命取りになるとは一考だにしなかった。また野田も吹奏楽部に復帰した。  吹奏楽部に復帰した頃に一年生が入部してきた。最初の頃は一年生とも仲良くやっていた。私は吹奏楽部を抜けていた期間があったので、一年生と同様で、二年生になってから入ったも同然であった。そして、この頃から音楽準備室にあったアップライトピアノを触るようになってきた。先輩の女子がこのピアノを使って「子犬のワルツ」なんかを弾いていたので、このピアノなら触ってもよいことが分かったからである。勿論、音楽室にあるグランドピアノを触ったら叱られるので、このピアノをよく弾いたものであった。  一体何をしに吹奏楽部に来ているのか分からない。ただ、ピアノを弾く能力は確実に落ちていた。練習はしていたのだが、土曜日だけだったので、当然腕は衰える。そこで私も子犬のワルツなんかを弾いていた。  この頃から私は何となく音大へ行きたいと考えるようになってきた。ピアノ科でなくても良かった。音楽と触れ合う生涯を考えていたのである。また、トランペットが口に合わないということが分かった音楽の教師はサクスフォーンに変えるように言った。私は面白くなかったが、仕方なくサクスフォーンを吹くことになった。サクスフォーンを嫌がった理由は、それがオーケストラで使われる楽器でなかったからである。また、木管楽器は大半が女生徒の持ち分だったという理由もあった。その上、手渡されたサクスフォーンは所々メッキが剥がれ、リードも汚れたままであった。だから、この時点で吹奏楽なんかやめて帰宅部になるべきであった。しかし音楽の教師の言うことなので素直に従った。  そして夏休みが近づいていた。  そして、この頃から私は一年生から嫌われるようになってきたのである。特に藤田という女子のいじめは陰湿であった。ただ、男子と違って暴力に訴えることはなく、口でのいじめではあったが---。  本当ならこの時点で部活動なんかやめたらよかったのだ。「嫌われている」と分かった時点で部活動なんかやめるのが正解である。学校をやめるというのは少しハードルが高いが、部活動なんか嫌々やるものではない。  その後、私は何度か「やめたい」と顧問の音楽教師や父親に言うのだが、みんな判で押したように言うことが決まっていた。  「こんなことに耐えられないようだったら将来困るぞ」  これは大人の常套句で、さらに言えば「嘘」である。事実、私は大学に入ってから武道を始めた。運動は大の苦手だったにも関わらずである。そして、武道のクラブだから当然のように「しごき」があった。しかし辞めようとは思わなかった。それどころか、三回生の時には主将をやっていた。古武道と言って、大昔の柔術なんかをやるクラブだった。この古武道部には「しごき」はあったが「いじめ」はなかったのだ。それに対して吹奏楽部には「しごき」はなかったが「いじめ」は厳として存在していた。  これも後になって知ることなのだが、最もいじめの多い部活動は体育部ではない。吹奏楽部なのだ。その理由は、吹奏楽というものは「連帯」を重視し、そこから外れた者はいじめられるのだ。一年の時の担任であった栗山もクラスの「連帯」を重視するためにみんなと一緒になって私をいじめた。葬式ごっこ事件で有名になった東京の富士見中学では、教師がクラスの「連帯(団結)」のために葬式ごっこに加わっていた。だから音が少しでも外れたりみんなと違うことをやったりするといじめられるのだ。だから柔道を続けるべきだったのかも知れない。この後のいじめを考えたらそうすべきであったのだ。  とにかく、部活動が嫌で嫌でたまらなかったのだ。  さて、嫌われたら嫌われ者らしくおとなしくしておけばいいものを、私は逆に目立つ行動に出ることによって挽回しようとしたことがいけなかった。例えば生徒会長選挙に二度立候補したりした。勿論、幸いにも生徒会長にはならなかったのでよかったが、私の取った行動はいずれもが目立つ行動であったことが事態を益々悪くしていく。  特に藤田は私を見ると何か爬虫類でも見たかのように嫌な目をして、実際にことあるごとに嫌みを言った。生徒会長選挙のポスターを見て「おえー」と聞こえるように言ったり、学校のバルコニーに立っていたら「そこは立ち入り禁止なんよ。生徒手帳取り上げやで」などと宣い、会うたびにあたかも爬虫類に道で出くわしたような嫌な目つきをするのだった。 (や) *  二年生の二学期が始まった。嫌われ者の私は嫌われていることが分かっていながらも部活動に参加していた。そしていくつかの事件が起こる。    そんな頃、帰宅部であった早野と、同じく帰宅部で在日韓国人であった金が吹奏楽部に入りたいと言ってきた。二人は早速音楽準備室でトロンボーンの練習を始めた。なぜかトロンボーンなんか吹いたことなんかなかった私が指導した。早野と金は性格も学業成績も全く違っていた。早野はガリ勉タイプであり、金は根っからの勉強嫌いだった。だから二人の関係はというと、いつも早野が金をいじめていたのである。彼らは二週間くらいいたであろうか?二人の練習が終わると私は一年生の女子に呼び出された。藤田が言った。  「ねえ加納君(なぜか中学の吹奏楽部では先輩を『さん』でなく『君』と呼んでいた)、あの二人気持ち悪い。何とかしてよ」  「何とか言うても入りたい言うてるんやから仕方ないやないか」  「そう?みんな気持ち悪い言うとるで」  私は思った。「(俺のことも気持ち悪いなんて思っていたのか?)」  「とにかくやめてよ。みんな嫌がってるやないの」  そこへトランペットの野田が入ってきた。  「野田君、助けて.加納君がいじめるねん」  「俺、何もいじめたりしてないやん」  「みんなが嫌がっていることをするんやったらいじめとちゃうのん?」  「そうや、そうや、いじめや、いじめや」  野田は一言も発しなかった。しかしなぜか一年生はよってたかった言った。  「ああ、野田君はよく分かってくれるわ。それに比べて加納君は何も聞いてくれへん」 「ほんまや、ほんまや」  「わかった。それなら二人にそう言ってくる」  「ああ?うちらのせいにするの?」  「おまえ等が言い出したんやないか?」  「ああ、怖。こんな先輩無視や、無視無視」  とにかく、二人はやめた。後で早野が言っていた。「何か金と一緒にされたなあ、嫌やなあ」  また、二学期には吹奏楽コンクールがあった。それへ向けての練習も始まっていた。  そしてコンクールが始まる。三村中学の課題曲と自由曲が終わると、浜須中学の演奏が始まった。曲目はドボルザークの「新世界第四楽章」であった。最初の出だしと激しい金管楽器の音に一同が驚愕してしまった。見事な演奏であった。そして、何を思ったのか、次のコンクールで三中が同じ「新世界」をやると後輩達が言い出した。  「下手の猿まねではないか?」と思ったが、ほぼ全員が「新世界」をやることに賛成したので、やることになった。あまりの馬鹿馬鹿しさに私は呆れかえり、幽霊部員に等しくなっていた。  この頃から私は音楽をやる人間を何か異人種か妖怪のように思い始めた。「奴らは人間ではないんだ。だから音楽なんてできるんだ」と本気で思い込み始めた。こんな連中とは付き合いたくなかった。私のこの音楽人に対する偏見は、私が教師になるまで続いていた。 その頃、音楽の教師がやっていたピアノ教室で発表会があった。吹奏楽部の生徒も参加することになったが、私はピアノを弾くことになった。選んだ曲はベートーベンの「テンペスト」の第三楽章であった。  私が音楽室へ入ると、早速一年生がやってきた。  「そら、加納君、ピアノの練習はせんでもええの?」  これは完全に馬鹿にしきった物言いである。一年生が私のピアノの腕を買っていたわけではない。邪魔者は音楽準備室に追いやりたかったのである。  しかし、私は言われた通りに練習を続けた。その曲(テンペスト)を聴いて数名の一年生がやってきた。私に対して何の悪感情も持ってない生徒もいたのである。特に尾西という「町の子」は「いつからピアノを習っているのか」とか「今ピアノはどのあたりまで進んでいるのか」とかしつこく尋ねてきた。彼女とはなぜか悪い関係にはならなかった。不可思議な現象である。この子は後に中学の音楽の教師になる。    二学期も終わりが近づいてきた。私は国語の文法を覚えながら渡り廊下を歩いていた。そこへ運悪く藤田が通りかかった。「目を見てはいけない」反射的にそう思って、横を向いて「せ、○、き、し、しか、○」などと国語の文法を覚えるふりをした。しかし、そのようなことでひるむ藤田ではない。このブスはこっちをしっかりと見据え、なぜか「おえー」と言って通り過ぎて行ったのだ。こんなことは日常茶飯事だった。とにかく、このブスが嫌いであった。顔中ニキビだらけで目が極端に細く、その様はまさに「蛇」であった。顔だけでなく心まで蛇であった。そしてまた事件が起こる。  この頃、生徒会長選挙が行われることになった。とにかく中学時代は目立つことをやって地獄から逃げようと考えていた私は生徒会長に立候補した。本当は、生徒会長になれば「忙しいから」と言って部活動をさぼれると考えていたというのが真因であった。それほど吹奏楽が嫌だったのだ。なぜやめなかったのか今でも不思議でならない。そしてなぜか理由は不明なのだが、同じ吹奏楽部の栗田と木山も立候補した。誰かがポスターを書いて貼りだしてくれたが、私は全く関心がなかった。元々生徒会長なんかやるつもりはなく、嫌な部活動から逃げたかっただけだったのだから---。  結果は三人とも落選であった。  私はほとほと部活に出るのが嫌になっていた。また音楽なんかやる奴にはろくな者がいないと本当に思っていた。    私は実はこの頃から富山にやってほしいことがあったのだ。しかし、それは先述したように私が高校に入ってから実現する。   *  私は三年生になった。高校受験が近づいてきたが、焦りはなかった。市内で一番の高校に入れることが既に分かっていたからである。---というのは、この当時の兵庫県では、内申書で大体行く高校が決まり、受験は、行きたい高校へ行って「思考力検査」というのを受けたらほとんどフリーパスだったのである。  吹奏楽部でも秋の大会に向けて「新世界」の練習が始まった。新しい一年生も入ってくる。しかし、そんなことには何の関心もなかった。この頃から私は密かに音大へ行きたいと思うようになっていた。理由なんてない。音楽以外にできるものがなかったからである。だから部活動は依然として幽霊部員を決め込み、ピアノの練習に打ち込んでいた。そして新一年生のことでまたもや事件が起こってしまう。そして三年生の三人がそろって部活動を退部するという挙に出るのであった。  それは私が三年生になって初めて音楽室へ行ったことによって起こった。音楽室に入ると藤田等に混じって見慣れぬ顔の女子が二、三名いた。一年生である。彼女らが藤田と話しているところへ割り込んだのだ。大体、あからさまに自分を嫌っている奴の会話に入り込もうとした私は余程の馬鹿であった。こんな時は知らぬ存ぜぬを決め込み、そっとしておくのが得策だとは思わなかったのだ。私は言った。  「君ら、一年生?」  「はい」  「吹奏楽部に入るの?」  「はい」ここで迸る自分の感情から、言ってはいけないことを正直に告げてしまったのだ。  「やめておいた方がいいよ。吹奏楽なんか」  この言葉に藤田が因縁をつけてきた。  「何よ、加納君。せっかく入ってくれると言うてるのに」  私は次の言葉に窮しそうになったが、負けずに言った。  「いや、中学生のうちは運動やった方がええよ。文化部なんか---」  「じゃあ、加納君はどうなのよ?」  私は完全に言葉に窮してしまった。これは一番きつい一言だったのである。  「みんな、こんな三年生放ったらかして行こ」  こうして藤田は音楽室を出ていった。そしてしばらくしてからなぜか藤田だけが戻ってきてきつい嫌みを言うのであった。  「加納君、あんな怖い三年生嫌やって言うてるわ」  この事件ではっきりと部活動をやめる決心がついた。元々、部活動に入っていたら内申点がよくなるというだけの理由で嫌々やってきたのだ。もう何でも良かった。そして栗田と木山にこのことを話すと、なぜか二人とも「僕らもやめるわ」と言った。この二人も後輩からきらわれていたのだ。そうして三人の三年生が部活動を抜けた。当然驚いたのは顧問の音楽教師であった。三人とも呼び出され、辞めないように説得された。こうして木山と栗田は何とか残ったのであるが、恭輔は残る気なんかさらさらなかったのだ。音楽教師は言った。  「何があったのか知らないけど、こんなことでやめるようじゃ将来ろくなもんにならんよ」  「そんなこと関係ないんです。僕は内申点を上げるためだけに部活動に入ったのですから」この言葉がよほど感に障ったのか、音楽教師は激高して言った。  「それやったらお前の音楽の点なんか1や」  本当に通知表が1になっては困る。そこで私は謝った。こうしてもう一年間地獄の日々が続くことになった。    大体、三年生の二学期になると、大半の部活動は引退ということになるのだが、吹奏楽部はコンクールがあるので、なかなか引退できなかった。コンクールの自由曲は猿まねの「新世界」であった。早朝練習もあったのだが、私は参加しなかった。しかし、朝登校すると下手な「新世界」が聞こえてくる。それを聴くとなぜか反吐が出そうになった。  やがてコンクールが終わり、その後私は町の中にある東高校へ進学した。
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