駄目教師は復讐する

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(十)パワハラ校長への復讐じゃ  翌年、深谷は転勤になった。私は同じクリスチャンの教師が学年主任をやっている学年で担任を希望した。  進路指導部人権係なんていう部署に回されるのなら担任の方が生徒とも触れ合えるし、良いに決まっている。---健康ならばであるが。  そう。その時の私には担任などやる余力はなかった。すぐにパニック障害(不安発作)が出て、六月より休職することになった。  洋子との夫婦生活が十年も持ったのは、私がしょっちゅう学校を休み、暫らく離れて暮らす時期が多かったからであろう。    さて、翌年に進路指導部人権係として職場復帰した私に大変な試練が訪れた。  四月当初の辞令交付の日、総務部長の年輩の教師が慌てふためいて職員室へ入って来るなり、開口一番「皆さん、前代未聞の発令が教育委員会から来ました」と言った。その慌てようは尋常ではない。一体何なのだろうか?  「新しい校長が赴任してくるので職員一同で車を出迎えるようにとのことです」  まさに「前代未聞」の発令だ。そんな発令、この後にも前にも聞いたことがない。  嫌な予感がした。  そして、これが吉村靖雄校長との最初の出会いであった。  この校長は、田舎にある銅像のようにふんぞり返っていた。歩く時も座る時もふんぞり返っていた。  威張る事によって自己のアイデンティティーが保たれると信じているようなタイプの人間だ。  恐らく今まで挫折を経験することなくやってきた人間なのだろう。  私にとっては最も嫌いなタイプの人間である。  自我が異様に肥大化し、尊大で居丈高な教師の典型であった。  吉村は校長に就任すると、先生方に様々なことを聞きまくった。部活動は何を持てるかとか、3年生をもう送り出したのかとか、学校が変わるが、どう思うかとか、私にとってはどうでもいい話であった。  そうこうするうちに、私の精神病のことも校長に伝わった。  「あいつは3年生も送り出してないし、しょっちゅう学校を休職するとんでもない奴だ」とでも伝わったのであろう。吉村は私を何とか辞めさせようと画策し始めた。  駄目教師を辞めさせるのがあたかも校長としての義務であるかのように考え始めたのである。              *  この頃から私は授業を全く聞かない生徒に悩まされていた。---と言っても、かつては教育困難校に七年もいたことがある私である。特別なことではなかった。しかし、何かが違っていた。  そう。学校が以前とは違って忙しくなってきたのである。モンスターペアレントも出現し始めた。また、夏休みもなくなってしまった。教師への風当たりが強くなってきたからだ。学校内での喫煙も禁止された。何かぎすぎすした雰囲気が学校全体を支配しはじめていたのだ。この頃から「学校」は一種のブラック企業と化していったようである。  そしてある日、授業を聞こうとしない生徒に対して私は切れた。  「じゃかましわい!授業くらい聞け!」  教卓をひっくり返す私。  しかし、これは何も珍しい光景でも何でもない。以前に私がいた教育困難校では日常茶飯事の出来事である。だが、なぜかこれが吉村校長の耳に入り、事件となった。  否、今思うとその理由が良く分かる。吉村校長は私が何か事件を起こさないか手ぐすねを引いて待っていたのである。そこへ、吉村にとっての朗報が飛び込んできたのだ。元々厄介払いしようとしていた教師である。理由なんか後付けでよかったのだ。    校長室に呼び出された。  「何でこんなことになったと思う?」  「(『こんなこと』って、これがそんなに大騒ぎするほどの異常事態であろうか)いや、彼らは小学校で学級崩壊を経験していますからねえ」  「それだけやろか?」  「じゃあ、顔でしょう」  私は童顔である。だから馬鹿にされたのかも知れない。大学時代、古武道部の主将をやっていたが、実際に組手をやるまで後輩達は本当に私が強いとは思ってなかったようである。  しかし、吉村は言った。  「顔でこんなことならへんやろう」  そこへ吉村の飼い犬で学年主任の林田が割って入った。  「先生、自分が正しいと思っているんでしょう。ちゃんと立って授業して下さいよ」  私は体が疲れるので教卓で座って授業をしていた。それが問題だと言うのだ。  私はこの林田も嫌悪していた。職員会議で自分の言ったことに感極まって泣き出したりするナルシストである。  私はこいつに「生霊」を飛ばした。今、こいつは精神病院にいる。神が復讐されたのか、私の生霊なのかは分からないが、そうなった。     その夜、帰宅した私の触手がまたしても妻の洋子に伸びた。  「おい。ベール被れ。今から拷問する」  もう洋子には慣れっこになっていた。あるいは、洋子もそれを楽しんでいたように感じられることがあった。洋子はこのような私の性癖を嫌ったり、拒否したりしなかったからである。  「わかった。何があったの?」  「うるさいわ!着い言うたらとっとと着替えるんじゃ!」  いつもの通り罵声が飛んだ。  その日の私は完全に理性を失っていた。洋子を縛り上げると、スカートを脱がせ、下腹部に何回もパンチを浴びせた。洋子の腹部は柔らかかった。その感触がたまらなかった。 「うー、うー。痛い、痛い」  その悲鳴で私は益々燃えてきた。  「俺はなあ、ロシアで女子大生の下腹部をこうゆう風に、そう、こういう風に蹴ったんや。そうしたら、そうしたら、今のお前みたいにもがき苦しみ出したんや。そやのにあの校長、馬鹿にしやがって!馬鹿にしやがって!もっと苦しめ!」  執拗な責めが続いた。いつもの責めではない。  「あなた、痛い。お願い、もうやめて」  「うるさい!つべこべ言わずに拷問を受けろ」  柔らかい女の下腹部。女の下腹部。これだ。この感触だ。  何度もパンチをおみまいした。  「うぎゃーーーー」  とうとう洋子は気を失った。  「ちぇ!つまらない奴や。もう壊れたか」  そう。私にとって洋子は「いい玩具」だったので気絶したら「壊れた」と思ったのである。言うことを聞かない「悪い玩具」は壊さなくてはならないのだ。               *  その後、吉村はあの手この手で私を辞めさせようとしてきた。  理由など何でもよかったのだ。  「大事な仕事のある教頭を自分のものにして。教頭はん、もっと大変な先生の話聞かれへんやないか」  もう教頭には何も相談できなくなった。  また、何度か吉村が私の授業を覗きに来たこともある。  「あんたの授業やったら、やかましい学校へ行ったら余計やかましくなるし、進学校へ行ったら皆寝るなあ」  では、どんな授業がいいというのか?  私は授業内容で駄目印を押されたことなどない。大体、教育実習では担当教師よりも授業が上手いと言われたし、生徒の感想文でも「授業が分かりやすくて楽しい」ばかりである。もし直すことがあるのならば、もっと具体的に何をどう直すのか言って頂きたいものだ。  とにかく、校長は何とかこの問題教師を葬り去りたかったのである。この駄目教師の授業での自信を挫こうと、何の根拠もないことを言ったのである。     そして、私はとうとう辞職願を出そうと思った。昔の私ならば校長と喧嘩をしていただろうに。駄目教師のうつ手はもうなかったのだ。  事務室へ行く。  「辞職願の用紙を下さい」  事務長はあっけなく手渡した。  しかし、「辞めたら負けだ」という理性の声が私を現実に引き戻した。  再び事務室へ。  「あのー。やっぱり教師続けます」 そして、吉村靖雄校長から呼び出しがかかった。  「あんたなあ。辞める言うたり、続ける言うたり、それやったらわしは何を信用したらええんや?」  この一点張りで粘られた。  成程、問題教師が自ら辞めようとしてくれたのだ。後は校長のペースである。この一点での粘り勝ちである。  しかし、私には全てお見通しであった。このような汚い手を使う馬鹿上司のやり方なんか知らないわけがない。  「(辞めると言ったらおしまいである)」  今まで精神病を理由に何回も辞めさせられかけていた私である。それは嫌と言うほどよく分かっていた。  勿論、精神病と言っても、どんな幻覚や幻聴、妄想が私の頭の中で起こっているのかは彼らは知らない。  「あんた。辞めるのか辞めへんのかどっちかはっきりせい」  「だから辞めません」  「それやったらわしは何を信じたらええねん」  「辞めません」  「それやったら何で辞職願をもらいに行ったんや。わしは何を信じたらええねん」  「タバコ吸わせて下さい」  「あかん。隠れて車の中で吸ってる教師がいるって言うのはあんたのことや」  とうとう私は最後の手段に打って出た。  「疲れたので医者へ行ってきます」  これは校長と言えども止めるわけにはいかない。「だめだ」と言えば人権問題になる。  そして翌日、康祐は「三カ月の休養を要す」と書かれた医師の診断書を持って行った。  この時の吉村校長の勝ち誇ったような顔を私は今でも忘れていない。これで問題教師を処分できるのだ。そう言っているような顔だった。            実は、この直後に人権講演会を控えていたのだ。私は人権の係長だったので、本当は休むわけにはいかなかった。講師ももう決まっていた。しかし一旦休むと言ったからにはもう引き下がれない。休む他に手はなかった。また、診断書を教育委員会へ送りつけるなどと言う芸当も当時の私には思いつかなかった。                    *  さて、三か月が終わろうとしていた。  私は県立病院の診断書と主治医の診断書を手に学校を訪れた。  「職場復帰可能」という診断書だ。 「やっと職場復帰できるぞ」 私は浮かれていた。  しかし、その時の吉村校長の言葉に私は二の句を告げられなかった。  「今ええ先生が来とるのや。すまんけど三月まで休んでくれ」  精神的な病というものは、一般に病とは見てくれないものだ。「怠け病」のレッテルを貼られて差別されるだけだ。それは私もよく心得ていた。しかし、「休んでくれ」とは一体何だ?公立病院と主治医の診断書があれば職場復帰できるのではなかったのか?  慌てふためいて私は知り合いの弁護士に相談した。弁護士に相談するような事案かどうか分からなかったが、吉村のあまりにも一方的なごり押しに頭髪天を突く勢いで怒ったのであった。  「こうなれば、うつ手はみんな打ってやる」  そう意気込んでいた。  知り合いの弁護士と言っても父の教え子であり、京大出の有能な人権派弁護士である。彼は、「管理職との会話を必ず録音するか、あるいはメモに取っておくように」という指示を出した。  もう一度話し合いが行われた。  学校へ出向いた私は弁護士に言われた通り、校長や教頭から言われたことを全てメモした。  教頭の笹山が言った。  「昔、今帰ったら迷惑でしょうからもう少し休みますと言った先生が居たけど、男らしい立派な先生やと思ったで」  「今来てる先生はなあ、土日返上で剣道部の面倒見てくれよるねん。あんた、そんなことできるか?」  校長がそう言うと、教頭が言葉を継ぎ足した。  「あんた、メモばかり取っているけど何や?」  そんな質問に正直に答えるほど私も馬鹿ではない。  診断書を持っている私の方が断然有利なのだ。  「わかった。それなら戻ってもええけど、校長室で模擬授業やってくれ。それはええな?」  吉村はただ虐めたいだけの理由で模擬授業をするつもりだ。勿論、企業でも復帰前の社員が軽い仕事をすることはある。しかし、そんなものとは違うことは私には分かっていた。  ここで、私を虐め倒して復帰の意志を挫こうという腹であることは明確だ。このような模擬授業を「復帰前の軽い仕事」としてやらせること自体がおかしい。民間企業と違って、正教員というものは公立病院と主治医の診断書があれば仕事に復帰しても何の問題もないのだ。特に、私のような気の弱そうな奴には復帰してほしくないから模擬授業でいじめようという魂胆であることが分からないような私ではない。 大体、教師というものは常に居丈高でふんぞり返っているものだ。 また、教師というものは精神疾患に対して理解が全くない。  病気だとは思っていないのである。  不登校生や引き籠りに対する奴らの見方もその程度である。  「あの子の怠け癖は一年の時からやな」  「わしも休む方法教えてほしいわ」  「引き籠りなんか飯食わさんかったら治るんや。甘い親が飯食わすからあかんのや」  「不登校?そんなんやる気のないだけの問題や。やる気があったら学校くらいきちんと出て来る」  等の酷い言葉は職員室で何度も耳にしている私であった。           *  こうして模擬授業の日がやってきた。  校長・教頭・教科主任・事務長などが顔を揃えている。  私は「鎌倉幕府の成立」という単元を選んだ。世界史が専門であったが、どっちみち虐められるのである。何でも良かったのだ。 教案のプリントを配り終えて黒板の前に立つ。  「前の平氏政権から説明しましょう。平清盛は自分の娘の徳子を高倉天皇の奥さんにして、二人の間に安徳天皇が生まれて、権力を振るいました(黒板に系図を書く)。これは何かと似ていませんか?山口君(社会科主任)」  「わかりません。あのう、わかりません言うていいんですね」 社会科主任は人柄は悪くないが、何かこの模擬授業を楽しんでいるようである。  「摂関政治です。いいですか?平氏政権というのは半分貴族で半分武士の政権だったんです」  突然、吉村校長が口を開く。  「おい、笹山君(教頭)、修学旅行何処行くで?」  「(さあ、嫌がらせのお出ましだ)吉村君、修学旅行の話は休み時間にいっぱいして下さい。今は日本史の時間です」  そして、源平の合戦の話の途中でまたしても校長の嫌がらせ。  「先生、質問。僕ら専門学校行くので日本史なんか関係ないんですけど、なんでしないといけないんですか?」  「それは大事な問題やからねえ、休み時間にしつこうに聞いてきて。わしもしつこうに答えたるから」  「おい、下らん授業やのう。出て行くか?笹山君よ」  康祐は無視して授業を続ける。  そして話が終わりかけの頃、吉村がまた口を挟む。  こいつはよっぽど康祐の授業に難癖をつけたいのだ。  「半分武士で半分貴族言うたら、顔の半分は貴族で半分は武士の格好しとったんかいな」  (いくら何でもそんなこと言う奴は本当の馬鹿である。)  「あんた、生徒が胸倉掴んで来て、何で今頃帰って来たんやと言われたらどないするねん?」  (この校長は康祐が武道六段で、昔は喧嘩に明け暮れていたことを知らないらしい。胸倉を掴んで来た生徒を関節技で固めるくらい朝飯前である。勿論、ロシアsでのことも知らない。)   そして、一時間の模擬授業は終わった。  「わしは教育実習の時、一時間教えるのには十時間教材研究せなあかん言うて言われたわ」  (こいつ、相当なアホである。私は教育実習で『担当教員よりも上手い』と言われた。『一時間教えるのに十時間教材研究をしなさい』と言われたなんて自分の馬鹿をさらけ出しているようなものではないか)   「まあ、前にも言うたけど、あんたの授業やったらやかましい学校へ行ったら余計やかましなるし、進学校へ行ったら皆寝るなあ」 その何の根拠もないことをまたしても吉村は口にした。  そして、模擬授業が終わり、何とか職場復帰できた。勿論、今来ている講師の先生には悪いとは思ったが、元々三か月の診断書のはずである。それを言ってきかせるのが校長の務めではないのか?                     * とにかく後味の悪い職場復帰だ。私は嫌な予感に全身を包まれていた。こんな気分で職場復帰も何もあったものではない。そして、その予感は後に現実になる。  こうして私はアパートへ戻り、また洋子も戻ってきた。  私は既に吉村の嫌がらせに辟易としていた。だから、当然その不満は洋子に向かう。この頃には、洋子も自分が私の「玩具」であることを薄々と感じ始めていた。  「おい、今日はおもろないんじゃ。スカート脱げ。柱に縛り付けてやる」  「また。校長先生から何か言われたの?」  真実を言い当てられたことは康祐の怒りに火を注ぐ結果となった。  「その通りや。今から拷問してやる。ロシアの女子大生のスパイめ、馬鹿にしやがって。嫌やったら命乞いせえ」  そうして洋子を柱に縛り付けると、康祐はスプレーのようなものを取り出した。  「これは催涙スプレーや。少し試してやる。嫌やったらHelp meと言うてみろ」  そう言って、噴射口を洋子の目に向け、安全レバーを抜いて勢いよく噴射した。  「あの校長め、馬鹿にしやがって。今度はこれをおみまいしてやるんや」    「嫌、何?これ。いやー。目が、目が、痛いよう。あなた、お願い、許して」  「アホが。こんな時は『ご主人様。お許し下さい』と言うんや」  「いやー、目が潰れる。もう止めて。こんなこと」  「違うわい。『ご主人様、お許し下さい』や、言い直せ」  すると洋子は泣きだした。  「うぇーん。目が痛いよう。許して、お願い」  「わかった、わかった。もう寝ろ」  洋子は布団の中でもずっと泣いていた。    そして次の年度になった。  この頃より洋子の嫉妬妄想がより酷くなってきたのである。  洋子は私が電話をする時は必ずスピーカーホーンにすることを要求した。私は浮気などするはずがなく、またそんなにモテルわけでもないから、快諾した。  しかし、女の人が出ると必ず聞いてきた。  「さっきの人誰?」  「奨学金の関係の人や」  それを確かめるために学生支援機構へ電話をする洋子。  「あのー。あなた誰ですか?」  こんな失礼な質問のしかたは聞いたことがない。  「学生支援機構ですけど、あなたこそ誰ですか?」  「主人が電話したと思うのですけど何ですか?」  これでは失礼の倍返しである。  「それはもう御主人に伝えてあります」  電話口の女性(学生支援機構の職員)は言った。    こんなことが繰り返されると仕事にも支障が出る。私は兄を呼んで説得してもらうことにした。  兄は車ではなく電車で現れた。そして妻に毅然として言い放った。  「今度弟をいじめるようなことしたら承知せんぞ」  馬鹿にとっては少しきつい言い方かも知れなかったが、洋子は分かったように頷いた。    そして六月の文化祭の日、事件は起こった。  またしても奨学金関係の事務所へ洋子が電話をしたのである。 洋子は何事もなかったかのように夕食を食べている。  私は兄を呼んだ。  程なく兄がやってくる。  洋子の顔が急に曇った。嵐の前触れである。  「お兄さん呼んだの?自分で来たの?」  洋子は私の兄から電話を注意されてから兄を嫌っていたのだ。  「自分で来たんや」  「本当に?」  「やかましい奴やなあ。呼んだんや」  「うぎゃー」  机をひっくり返して洋子が暴れ始めた。私と兄は隣の部屋へ避難した。  「こりゃ警察にでも来てもらうしかないな」  「そうやなあ。しゃあないな」  康祐の兄は110番を入れた。間もなく警察がやってきた。  暴れる洋子を取り押さえた警察は、そのまま洋子をパトカーの後部座席に乗せた。後部座席には二人の婦人警官がいて、暴れる洋子をねじ伏せている。  「うちの嫁さん、少しおかしいんですわ」  「ああ、わかるわかる。警察にも同じような人がいた。何でも、奥さんがしょっちゅう電話してきて『主人は本当に出勤してますか?』とか聞くんや」  パトカーでは別の警官が無線で何か話している。  暫らく経ってから警官が口を開いた。その間、兄は何か調書のようなものを記入していた。  「今、赤穂の精神病院と連絡がついたので、そちらへ奥さんを護送します。御主人とお兄さんは車で後を追って来て下さい」  次の日は文化祭の予行である。夜中ではあったが、私は即教頭に電話を入れて事情を説明し、明日の予行には行かれない旨を告げた。  パトカーは二時間かかって赤穂の精神病院へ到着した。そのパトカーの後を兄の運転する車で追った。  洋子は入院ということになった。一時的な緊急入院である。翌日には解放されるのだが---。  私と兄はそのまま帰った。  翌日、洋子を出迎えるために私は電車で病院まで出かけた。洋子は体操服に着替えさせられていた。  「とにかく帰ろ」  二人は無事にアパートへ戻ってきた。この時の洋子はまるで人が変わったかのように無言だった。  その後、洋子の母は、これが原因で洋子が精神を病んだと思っていたそうであるが、それは事実ではない。  この後に起こる「ある事件」からだ。  それは康祐と洋子しか知り得ないことであった。                        *  九月になった。なぜか運の悪いことに人権大会の発表が私の学校に回ってきたのである。レジメを作ってビデオも見せて発表しなければならなくなった。  しかし、私は昨年の人権講演会の内容を知らない。休んでいたからだ。  そして吉村の反撃が始まった。  これに関しては他の先生も「あれは酷い」と言うほどの吉村の「虐め」である。あの、「わしも休み方教えて欲しいわ」と言った教師まで「酷い」と口にしていた。  人権係は、この年、二つの仕事を抱えることになった。  一つ目が昨年に行われた人権講演を元にしてレジメを作り、人権の大会で発表することである。  もう一つが本年度の人権講演会の講師の招請である。  先ずは、人権大会のレジメを作らなくてはならない。  私は、レジメでの発表ではなくて、その年に行われた文化祭での三年生の演劇の「ライフ」をビデオで見せるつもりでいた。テーマは「いじめ」である。こんな恰好の材料はない。  しかも「ライフ」は評判も良く、文化祭の大賞を獲得していた。  これを見せるだけで他の学校も納得するはずだと私はふんでいた。  しかし、なぜか吉村はレジメでの発表にこだわった。  「去年の講演会の記録作れ」  そう言って、レジメを用意させようとした。  そこで問題なのが、昨年の人権講演会の内容である。  私は、人権講演会の時に休職していたので、その内容を全く知らない。そのことは吉村校長も知っているはずなのに、あえて無理難題を押し付けたのだ。  「これは困ったことになったぞ」  また、鬱のスパイラルが始まった。  鬱で仕事を休む。↓戻ってきたら虐められる。↓鬱がひどくなる。↓また休む。  これが鬱のスパイラルである。  そこで勝手に講演の内容を創作して二枚のレジメを作成した。  ところが、昨年の講演会の講師は吉村の知り合いだったらしく、これがとんでもないことになる。  私は校長にレジメを見せた。さあ、吉村の反撃の開始だ。  「ほんまに村山さん、こんなこと言うたんか?電話して聞いてもええか?」  しまった。これは計算外。  「もしも言うてなかったら承知せんぞ」  居丈高な態度である。まるで暴君である。これが校長と言う者の真の姿なのだ。問題教師が問題を起こしてくれることを手ぐすね引いて待っていたのだ。まさに絶好の機会である。この好機を逃してなるものか。と吉村は考えていたことには疑念の刺しはさむ余地がない。  教頭が口をはさむ。  「校長はん、ほんまに聞きよるで。どないするねん?」  実は、教頭は「解決法」を知っていた。しかし、敢えて教えようとしなかったのだ。出世に響くからだ。教頭は校長からの推薦状がなければ校長にはなれないのだ。  この教頭は頭が禿げあがり、太っている。態度は居丈高である。居丈高であるがゆえに実際に数年後、別の学校の校長になる。    もうこうなっては私の得意技、すなわち土下座しかない。  「この土下座を決めてしまわねば」  そして校長室へ出向く。  「申し訳ございません」 土下座が決まった。  先述した通り、土下座は私の最終兵器であった。私には土下座の「美学」があった。相手に有無を言わせぬように土下座は存在し、手を曲げる角度から頭の下げ方まで徹底していた。  頭はこれでもかと言わんばかりに床にこすりつけられ、肘を見事に百八十度折りたたみ、「どうぞ頭ごなしにお叱り下さい」と言う意志表示として最高の芸術であったのだ。  「(我ながら見事な土下座である。さあ、どんな言葉が発せられるのだろうか?)」  ところが、吉村はそんなことは一向に意に介せず言葉を続けた。  「それやったらなあ、誰かメモってる人が居るやろう。探せ」  そこで私は学年の人権係の教師達に聞きまくった。  たまたま二年生の人権係の教師がメモっていたので、それを使ってレジメを作成することになった。  膨大な量である。  「わしがやったる」  教頭が引き受けてくれた。  レジメが出来あがると、進路の教師が手伝ってくれて百部ほど刷り上がった。  その後、校長室に呼ばれてプレゼンの練習をさせられた。  「そんなん、自分の話しても誰も聞かんなあ。やり直し」  何度も何度もやり直しをさせられた。  実は、私はプレゼンが下手なわけではない。その証拠に、次に赴任した特別支援学校で、見事な人権の授業を教育委員会の指導主事に見せて、指導主事をうならせている。吉村校長は、ただいじめたいがために私にプレゼンの練習をさせたのだ。  そして人権大会の当日、ビデオを見せながら何とか発表は終了した。私が予想していた通り、「もっと『ライフ』のビデオを視たかった」という意見が続出した。  そして吉村校長に呼ばれた。  「あんた、このたびの大会では色々な人に迷惑かけたなあ。どうする?あんたが迷惑かけた人の名前言うてみい」 「はい。えーと。○○先生に○○先生に、○○高校の○○先生に---それから---」  「もうええわ。あんた、どうする?こんなに迷惑かけて」  言い返す気力は残っていなかった。精神病が再発したようである。しかし私はそれをひた隠しにしていた。  「(病気やからまた休めと言うんだろう)」  そう思っていた。  しかし吉村校長の言ったことに驚かざるを得なかった。  「あんた、島へ帰ったらどうや?この間お父さんにも電話したけど元気なさそうやったし、父の介護ということで帰るのが一番やと思うけどなあ」  「父の介護」と言っても父親はまだボケてはいない。また、私は島が嫌で洋子と結婚し、ここへ逃げてきたのだ。  「でも島に帰る学校なんかないでしょう?」  「それがあるんやなあ」  「(一体どこの学校のことを言ってるのだろうか?まさか---)」  「特別支援学校やったら空きがある」  そう、吉村は康祐を特別支援学校へ飛ばして厄介払いにするつもりだったのだ。  特別支援学校には社会科も英語科もない。そして、私の苦手な工作や家庭が出来なくては務まらない。私は広汎性発達障害である。好きなことはとことんやるが、苦手なものは全く手がつけられないのだ。    しかし私には、もう吉村に反抗する気力もなかった。  翌年に私は特別支援学校は赴任し、奇跡的なことに初めて卒業生を送り出し、教師の職を辞してしまう。  また、転勤が原因で洋子にも逃げられる。  地位も名誉も財産も妻も全て失くしてしまうのである。              *  ところで、この後、まだ人権講演会が残っていた。  そこで、私ばかりか洋子までも人格が崩壊してしまうことになる。  人権講演会で誰を呼ぶかは、大体前もって決まっている。しかし、吉村校長から何の連絡もない。自分で講師を見つけなければならない。吉村校長が嫌がらせをしているのだ。通常ならば校長から「こう言う人がいるけど」と打診があるのだ。私を困らせようと企てているのである。いつもながら汚い手だ。    ところがそんな折、講演を買って出ようと言う奇特な人が現れた。精神保健福祉士の本岡女史である。かなり年輩の方であるが、精神障害者のための作業所として喫茶店を営業し、これが順調に行っていたのだ。私の知り合いであり、私もよくこの喫茶店を利用していたので顔なじみであった。  本岡女史は「いじめ」をテーマにして講演をするのならいい人がいると言った。  「躁鬱病の人やけど、原因がいじめやったからちょうどええんと違いますか?一度話してみます」 実は、本岡女史を呼ぶことに教頭などは不快感を顕わにしていた。精神疾患の専門家であって、教育の専門家ではないというのがその理由であった。しかし、今になってその理由が手に取るように分かる。  本岡女史を呼ぶことに難色を示したのは、教頭ではなくて校長だったのだ。  「せっかく『あいつが講師なんか呼べるはずがない』と思っていたのに誤算だった」というのが理由であることは明白だ。  校長は私が失敗をやらかすのを手ぐすね引いて待っていたのだ。  さて、本格的にその方を呼ぶ事になった。私は、その作業所がアパートの近くだったこともあり、洋子を連れて夜に打ち合わせに行った。  その時のことである。  たまたま電話が教頭につながった。なぜか本岡女史が待ってたように言う。  「先生なんですか?一度話させて下さい」  「教頭先生、講師の先生が話したいと言ってるのですけど」  「ああ、やめて。電話かわらんといて」  ところが本岡女史がどうしても話したいと言って聞かなかった。  この人はよっぽど「学校の教師」という者と話したいようである。その理由は定かではないが、多分精神障害の主たる原因が学校時代にあると思っていたからだろう。しかし、「学校の教師」なら目の前にいるのに何も教頭と話す必要なんかないであろうに---。  仕方なく電話を代わる。何か一言二言話したようであるが、すぐに電話は切れた。  次の日は土曜日であったが、これはまずいと私は思った。教頭を怒らせたかも知れない。否、必ず怒らせている。---というよりは、校長から「あの先生が失敗をやらかようにお前も仕向けてみろ」と言っているのに間違いはなかった。  私は場の空気を読むのが下手である。しかし教頭を怒らせたことは容易に推察できた。  「しょうがない。明日謝りに行こう」  そう言うと、洋子が  「私も一緒に行く」と言った。  土曜日、校舎内で先ず校長に出会った。  講演会の時程表を見せた。  「これ、昼休みあらへんがな。生徒の人権踏みにじってるわ。あのなあ、昼休みは生徒にとって休憩時間と決まっているねん」  「いや、教務にたのんで四十五分授業にと思ったんです。そうしないと向こうの都合が合わないんです」  と言いかけて、私は話を止めた。  何を言っても無駄だ。言い返されるに決まっている。こいつは「荒さがし」をしているだけなのだから---。  次に問題の教頭である。頭がきれいに禿げあがって太っている。  玄関の入り口で鉢合わせになった。  「教頭先生、昨日はすみませんでした」  しかし教頭は許さなかった。  いきなりふんぞり返ったと思うや否や「何で電話代わったんや?」である。  私は即土下座をした。部活動の生徒や他の教師も見ている。  「申し訳ございません。おい、お前も土下座せえ」  洋子も土下座した。  「主人が学校でいかに蔑まれ、泣くような思いをしているか、ついてくると言うのならばわかったらいい」と私は思った。  しかし、教頭は土下座を見ると益々ふんぞり返った。これでもかと言わんばかりに威張って腹を突き出し、頭をのけぞらせた。  「何で電話代わったんや?」  「申し訳ございません」  その後、どうやって教頭の怒りが収まったかは定かではないが、夫婦そろって土下座をしている一教師のことなど教頭にとってはどうでもよかったのだろう。この教頭は校長を狙っていたのだ。そして、校長になるためには現校長の推薦状が必要だったのである。  その日は車で帰ることにした。  洋子を助手席に乗せた車が踏切にさしかかった。  急に私は踏切の中でエンジンを切った。  「何するの?」  洋子が尋ねる。  「一緒に死のう」  「嫌よ」  「何で嫌なん?」  「私、死にたくないもん」  「此処まで付いてきて今更何言うとんじゃ?死ぬぞ!」  警報機が鳴り出した。遮断機もゆっくりと降りてくる。  「助けてー。私死にたくない」  窓を開けて洋子が叫ぶ。  「窓閉めい!何で嫌なんじゃ!」  「あなた狂ってる」  「うるさい、俺はロシアで女を殺してる。人の命なんかなんじゃい!俺はなあ、命乞いする女を殺したんや。今度は俺たちが死ぬ番や。電車の乗客も巻き添えにして死んでやる。おい、電車さん。おいで。ここにおるでえ」  「また、ロシアの話。こんな時に。あなた、本当に狂ってる」    後ろを見ると、さっきまでクラクションを鳴らしていた二台の車が既に踏切外へ避難している。  その時、私の脳裏に今までの人生がフラッシュバックして映し出された。  皆から嫌われていた中学時代、ピアノの練習ばかりしていた高校時代、そして古武道や空手に打ち込んだ大学時代、そして教師になって最初に赴任した高校での志恩ちゃんとの恋、それらのものが瞬く間に流れて行った。  その時である。誰かが助手席の窓越しに叫んだ。私は夢から醒めたようであった。  「先生、何しているのですか?」  自転車で通りがかった男子の卒業生である。  我に返った私はただちにエンジンをかけ、車を発進させた。  南海電車が踏切を通過していった。もし一瞬だけ車の発進が遅れていたら大事故である。  洋子はお漏らしをしたらしく、座席が濡れていた。  このあたりから洋子の様子が変わって来る。 食事の用意や洗濯を億劫がるようになってきたのだ。                    *  私が島の特別支援学校に来て二年目に二人は市役所へ離婚届を提出しに行った。  十年間の奇妙な夫婦生活は終わったのである。 その後の洋子がどうなったかは私の知るところではなかった。  何度か電話をしたが居留守を使われた。  何でも知的障害者の施設に入って、まるで子供のようになってしまったと言うことである。退行したらしい。 一方、私は特別支援学校への転勤を前にして、生徒のことで戸惑っていた。  それは生徒からの評判が悪かったからではない。その逆である。  最後の授業で感想を書かせると、皆判で押したように「授業がわかりやすかった」「楽しかった」「よく知っているなあと思った」等の高評価ばかりであったのだ。  吉村校長の勤務評定とは全く違う。  これが「生徒の勤務評定」なのだ。  「管理職の勤務評定」と「生徒の勤務評定」は明らかに違う。  学校では時々「なぜあの先生があんなところに?」という人事異動が行われることがあるが、それは「管理職の勤務評定」がまずかったからなのだ。菓子折り一つ持って来ず、ご機嫌もとるのも下手な康祐が管理職の覚えが良くあるはずがない。その上、私は精神に障害を抱えている。「学校のお荷物」なのだ。  また、最後に「友達」に別れを告げた。  「友達」というのは「不登校生」である。  私は精神を病んでから、教師の癖に保健室へ入り浸りになっていた。  しかし、これは全く無駄なことかと言えばそうではない。保健室からは生徒達の様々な情報を得ることができたのである。  ここで、康祐は「不登校生」の「友達」を作った。  保健室で知り合い、仲良くなった女子生徒である。  保健室で色んな話をした。父親と上手くいってないことや、バッファリンを百錠も飲んだことなど---。  私はどこの学校へ行っても必ず養護教諭と仲良くなる。そして、色んな生徒の情報を仕入れるのだ。  これはどこの学校へ行っても成功している。  また、最後の授業の少し前、校長から「駄目教師」の烙印を押されていたので、授業中にポツリと言ったことがある。  「俺ってやっぱり駄目やなあ」  それに対して、誰かわからなかったが反応が返ってきた。一人の男子生徒からだ。  「先生、駄目教師やないで」  しかしもう世界史を教えることはない。  全て終わったのである。  また、離任式の時に花束を渡す係だった女生徒からも「授業楽しかったです」と言われた。  なぜか、この離任式に吉村校長は欠席していた。          *  ところで、吉村のために何もかも失った私は特別支援学校で定年を待たずに辞めてしまう。本当に何もかも失ったのだ。だから、吉村に復讐を考えていた。私はクリスチャンであって、キリスト教では復讐は厳禁されている。しかし私は復讐した。それも、中学時代のように暴力に訴えたり脅迫・強要・恐喝なんかしなかった。合法的に復讐を果たしたのである。  特別支援学校を辞めて私は友人と塾をやり始めた。そして、何の折か忘れたが、吉村の住所と電話番号を入手した。そこで、パソコンを使って吉村の登記簿を取り寄せた。登記簿は誰でも自由に閲覧できるのだ。個人情報の保護なんか関係ない。閲覧可能なのである。そこで私は葉書を差し出した。勿論、住所氏名も本文もワードで打って誰が出したかわからないようにした。葉書の内容はこうだ。  「一生忘れない。一生忘れない。一生忘れない。一生---」これの繰り返しだ。吉村は、次の学校で定年を迎え、短大の学生部長になっていた。だから、その短大の学長にも同じ文面で葉書を送った。  もしも「殺す」なんて書いたられっきとした脅迫罪である。私は考えに考えて合法的に嫌がらせをしたのだ。また、こんな葉書も出した。  「清荒神に木造二階建ての家を購入し、二〇〇六年には○○信用金庫からの一千万の借入金も見事に返済なさっておめでとうございます。いよ!教師の鏡!」  これは本当に気味の悪い葉書である。「殺す」なんかよりもよっぽど気味が悪い。  そして、ある日ナンバーディスプレイの184をせずに吉村に電話を入れた。  「吉村先生のお宅ですか?先生を呼んで頂きたいのですが」  娘さんと思われる女性が電話に出た。  「はい。少しお待ち下さい」  吉村が出た。私は吉村のために何もかも失ったのだ。言うべきことはいくらでもある。  「あんた、吉村先生か?わしはなあ、あんたのおかげで仕事も嫁さんも何もかも失ってなあ、一人暮らしなんや。わしは法律には詳しいから脅迫も強要も恐喝もせえへん。誰かわかるか?」  「いや、わかりません。それよりもあなた、こちらを怖がらせたら脅迫になりますよ」  「あんたが怖がるような人間か?校長やった時にあんだけ威張りくさっていて---」  「いや、私気が弱いんですねん。今でも心臓がバクバク言ってるんですわ」  「そんな気の弱い人間があれだけ威張れたものやなあ」  「いや、校長してたのでそうせんといかんかったんや」  「ほう。すなわち、自分の弱さを隠すために威張り散らすことによってアイデンティティーを保っていたわけや」  「うまいこと言いますなあ」  「あんたはその後○○高校の校長になって、○○短大の学生部長やってましたなあ。結構なことで。こちらは教師も辞めて嫁さんにも逃げられて何もないんや。何もない人間ほど強いもんはないぞ」  「そんなことどこでわかったのですか?」  「『そんなこと』って。あんたは清荒神に信用金庫から一千万借りて木造二階建ての家買って、その借金も平成六年に返済してるやろ」  「そんなことまで知ってるのですか?」  「あんた校長やったんやろ。あんたにプライバシーなんかないで。それからあんた、精神障害者は病気やと思ってないやろ?」  「いや、そんなことありません」  「うそつけ、こら!」  「あのー。『こら』はやめてください。怖いです」  「俺が誰かわかるやろ」  「もしかしたら加納先生か?」  「そうじゃ。世界史も英語もない特別支援学校なんかへ送りやがって」  「それはすまなかった」  「あんた、わしの授業やったら進学校行ったら寝るし、やかましい学校へ行ったらやかましくなる言うたな」  「わし、そんなこと言うたかなあ?」  「あんだけ言うといて忘れたんか?こら」  「すみません。『こら』はやめて下さい。とにかくそういうことになってるんやなあ。悪いことした」  こんな形で会話が進み、驚くべきことに吉村は謝罪したのだ。  とにかく、私は必ず復讐する男なのだ。しかし復讐のやり方も合法的なものに変わっていた。年のせいだろうか?  そして、私は島の特別支援学校へ転勤になった。  大体、特別支援学校へ行く教師というのは二種類ある。一つは新任で来る場合で、これはエリート教師である。様々な学校を体験してもらおうというわけだ。そしてもう一つは明らかなる「左遷」である。私の場合は言うまでもなく、この「左遷」であった。  ただ、この学校にはなぜか今までのような教師による教師へのいじめはなかった。そして、どこへ行っても卒業生を出せなかった私だったが、ここで初めて卒業生を出し、その二年後に定年を待たずして辞めてしまったのである。  この学校の教師の中には、今でも付き合いが続いている教師も何名かいる。 さて、私は島の特別支援学校へ転勤になった。妻とも別れた。子供もいない。まだ父親は生きていたが、私が教師を辞めてから直ぐに亡くなってしまう。タバコの吸いすぎによる肺気腫であった。その前に認知症を患い、長年老人ホームに居た。
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