駄目教師は復讐する

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(序)幼少期(犬を殺して食うんじゃ)  私は瀬戸内の島で生まれた。家は金持ちでもなく、取り立てて生活に窮するということもない、普通の家であった。父は小学校の教師、母も中学校の音楽教師であったが、兄が生まれると専業主婦になる道を選んだ。島と言っても漁業で生計を立てている者は少なく、大半は兼業農家であった。私の家もその例に違わず、父の教師としての収入と一反七畝の狭い田畑で米や苺などを作って生計を立てる兼業農家であった。  家は兵庫県で最も舗装状況の悪い道路の前に立っていた。この道路は、私の幼少期はアスファルトではなく砂利道であった。車線などなく、トラックなどが対向車としてやってくるとバックして道を譲らなければならなかった。そして道路を渡ると典型的な棚田が小さな川まで続いていた。家の裏には手入れも植林もしてない林が迫っていた。一番隣の家まで百メートルはあった。  家族は両親に祖父、そして兄と妹がおり、私は二番目の子供であった。  大体、人間の性格というものは幼少期、否乳児期に形成されると聞く。私の歪んだ性格も幼児期に形成されたようだ。極端に神経質で、長じてはパニック障害(不安神経症)と鬱と境界型統合失調症を発症してしまったこの私の性格も親が適切なスキンシップをしてこなかったからであろう。---というのは、この兄弟姉妹の中では、なぜか兄だけが特別の存在であったからである。母親の愛情は一身にこの兄に注がれていたのだ。私や妹は完全にお呼びではなかった。それもそのはずで、兄は幼稚園の時に計測したIQが一三〇以上もあり、小学校に入ってからは勉強も運動も人一倍出来たからである。こうして兄は後天的なオプチミスト、私は後天的なペシミストに成長する。  兄は全く手がかからない子供であったのか、ほとんど放任状態で育てられた。母親は兄に英才教育を施そうと考えていたようであったが、熱心な日教組の組合員であった父の反対でできなかったようである。  一方、私と妹はなぜか幼少時よりピアノを習わされた。当時の田舎でピアノを持っている家なんか珍しく、余程の資産家でもなければ持てないものであった。だからかなり無理をして買ったものだろう。まあ、母親は音楽の教師だったから仕方がない。  幼稚園児の頃に家にピアノがやってきて、これを誰が弾くのか不思議でならなかったが、しばらくすると母が弾いていた。その時に初めて母が元音楽の教師であったことが判明した。  しかし、このピアノは母が楽しむために買ったのではなかったのである。「教育用」であることが徐々に理解されていった。なぜならば、嫌がる私や妹が無理矢理母親からピアノの練習をさせられたからであった。しかし、やがて私のピアノはどんどんと上達し、一日五時間もピアノの前に座るようになってきた。そして小学校の低学年で既にベートーベンの「悲愴ソナタ」や「テンペスト」なんかを弾きこなすようになった。そこで母親は別のピアノの教師をつけた。  ピアノをやっていたからだろうが、私が小学生の頃は音楽だけが突出して成績がよかった。しかし、その他の教科は全く駄目だった。理数国社、どれをとっても3か2の成績であり、5なんかついたことがなかった。また、体育や図工といった技能教科に至っては点数もつけられないといった有様であった。  一方の兄は、通知簿には5が並んでおり、小学校の高学年になると児童会長までつとめていた。  だから小学校の教師や母親はよく言ったものである。  「お兄ちゃんはあんなに勉強ができるのにねえ」  「ほんまに、この子は音楽しか能がないのやろか?」  また、少子化の進んだ現代とは違って、私のいた集落にも多くの子供がいた。私を含めて男子児童が四人、女子児童が三人いた。  私は元々運動が大の苦手だった。だから女の子と一緒にお人形さんごっこやオママゴトに興じていた。  当時のいなかでは、運動ができないと「駄目人間」の烙印を押されてしまう。だから運動嫌いであった私は当時から既に「駄目人間」であった。例え駄目人間でも勉強ができるといじめられることは滅多にないのだが、勉強もできない判を押したような駄目人間であった。だから、上級生によくいじめられた。  大体いじめる奴というのは誰かは決まっていた。特に帰るルートが同じであった一年上級の康夫君という先輩は、他にやることがないのか陰湿に私をいじめてきた。当時の小学校では学校の帰りに店に寄って何かを買って食べる行為を「買い食い」と言い、禁止の対象であった。しかし、そんなものをいちいち守っている児童なんかいない。みんな買い食いをしていた。そして私の「買い食い」をみつけた康夫は帰宅途上で私のランドセルを引っ張って、私が後ろに倒れる所を見ては楽しんでいた。  「おい、お前。何で買い食いなんかしよったんや?」と言ってランドセルを引っぱったりしながら家路へついてきた。なぜかそんな時には同級生の三人の男子児童はいず、私ともう一人の上級生である仙治君がいた。帰路の1キロにわたってずっとこれをやられるのである。そして坂道の中腹にさしかかったところで康夫は自分宅のある別の方角へ急ぐ。すると仙治君が「非道い奴やなあ、あんなことして---」と言うのである。  いじめはよく自殺なんかにつながっていくが、私には普通のいじめられっ子とは違うところがあった。それは「やられたら必ずやり返す」ということだった。  私は康夫の家を熟知していた。小さないなかのことである。また、個人情報のこともあまり言われていない時代である。時は昭和である。私は夜中に家にあった木刀を持ちだして康夫の家の玄関へ行った。木刀はびわの木でできた木刀でかなりの殺傷能力があった。なぜ自分の家にこんなものがあったかはわからない。これで康夫の可愛がっていた犬を殺すのである。腕っ節の強い康夫とまともに戦って勝てるわけがない。そこで考えついたのが犬殺しだったのである。  ある日の夜中、私は康夫の家の庭に忍び込んだ。玄関に立つと、予想通り康夫の犬であったラッキーが吠えてきた。ドーベルマンやシェパードなら歯が立たないが、雑種の中型犬である。しかもきちんと繋がれている。殺すのは簡単だ。私はラッキーの頭めがけて思いっきり木刀を振り下ろし続けた。「キャン、キャン」と二、三度言ったかと思うとラッキーは息絶えた。その途端に異変に気づいたのか、玄関の明かりが灯った。  「まずい」  私は逃げに逃げた。そしてどうにかばれずにすんだのである。 その後、私は約一ヶ月経って事件のほとぼりが冷めた頃に、康夫の庭に駐車してあった康夫の父親の車をパンクさせ、また、夜中に石を投げて窓を割った。  こうして康夫に対する復讐を果たした後、私は犬を殺すために家から一キロくらいの距離にあったトンネルへ出かけるようになった。トンネルは山の頂上にあり、ここへ木刀を隠しておく。そして自転車でピアノの先生の教室から帰る途中に犬を殺すのである。野犬である。凶暴な野犬は何匹か群れをつくっていた。そんな中で群れからはぐれて人里、すなわちトンネルまで降りてくる犬がいた。それを殺すのである。  私はこの快感を小学校の四年くらいから覚えた。ピアノを習いに行くというのは口実で、これをやることに快感を覚え始めていたのだ。康夫の犬を殺した時にはそうではなかったのだが、トンネルの犬を殺す時にはなぜか勃起していた。そして犬が「キャン」と言って息絶えることに快感を感じ、ある時は射精までしていた。そして友人がいる前でこれをやってしまったのである。  友人の名は白田と言った。彼を誘ってトンネル探検に出かけ、見事な犬殺を披露したのである。  白田と二人で坂を登る。白田は私が何をするのかわからない。怪訝な顔をしながらついてきた。そしてトンネルを抜けると、一匹の可愛らしい犬が近づいてきた。私は用意してあった木刀を草むらから出すた。白田は驚いたように私の方を振り向いて言った。  「ええ犬が出てきたのう。今からおもろいショーをみせちゃる」  「お前、何するつもりや?その木刀、血がついているけど---」  「犬殺して食うんじゃ」  白田は本気にしていなかったようであった。しかし私の眼光が異様な光彩を放っていたので、「こいつは本気だ」と思ったのか、一瞬たじろいだようになって私をチラリと見た。  私はいつもやっているように菓子袋を開けて、菓子を取り出して犬に与えた。犬は警戒もせずに近づいてきた。  「今じゃ!」私は渾身の力で木刀を犬の頭めがけて振り下ろした。  「キャン!」  一声啼いたと思うと犬は息絶えた。  「弱い犬じゃのう。昔は噛まれたこともあったけど、今じゃわしは犬殺しの天才じゃ。あの康夫の家の犬を殺したのもわしじゃ」  白田はブルブル震えだした。  「お、お、お、お前き○がいか?」  そう白田が言うと、私は勃起した一物を半ズボンの中から取りだした。  「わしは、これやると感じてくるんじゃ。おのれもやってみるか?」  「わー、き○がいー!」そう言って白田は逃げていった。  翌日、私はクラスの中で「英雄」になっていた。  「お前、ピアノばっかり弾いちょるおとなしい人間かと思うちょったが、すごいことするんじゃなあ」  友人達が口々に言った。女子児童はあからさまに嫌悪の目をして私を見ていた。  これが私の幼少期であった。 やがて私は地元の中学へ上がった。
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