ジェンキスと黒衣の女

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 ここ最近は雨が多い。夏の初めに差し掛かろうというのに、ジムホの街に晴れが訪れることはまだない。ジェンキス魔法書房の店主であるジェンキスは、商品が湿気にやられないように手入れをしていた。  ジェンキスが扱う本はほとんどが魔力を帯びていない普通の本である。しかし、中には魔力を帯びた特殊な本もある。世間から魔本と呼ばれ、貴重がられている本である。先代店主は魔力も豊富で、大層魔本の扱いに優れていたそうだ。  古くからの客が先代の思い出話をする際には、いつもそう切り出されるのだ。ジェンキスの魔力は少なく、先代と比べられるたびにジェンキスは心の中で舌打ちをしていた。確かに彼の代で魔本の取り扱いは減った。しかし、魔本の扱いがゼロになったというわけではないのだ。  ジェンキスは厳重に閉じられた本棚に目をやった。魔本が仕舞われている本棚だ。手入れの際には万全の注意が必要である。ジェンキスはゆっくりと扉を開き一冊の本を取り出し、作業机に置いた。本の手入れを始めようとした瞬間、店の扉が開いた。間が悪い。ジェンキスはそう思った。 「こんにちは。本屋のおじさま」 「いらっしゃいませ。お嬢さん」  店に入ってきたのは少女だった。プラチナブロンドの髪に、古風なドレス。そして、宝石のように蒼い瞳。服が全く濡れていないところを見るに、馬車か何かでこの店に乗り付けたのだろう。馬のいななきや車輪の音は、雨に濡れて消されてしまったに違いない。  ジェンキスは少女の服が濡れていないことと、身に着けている服装からそう判断した。 「なにかご入用ですか?」 「別に何も、ただ見に来ただけよ」 「お嬢様にお連れの方はいらっしゃいますか?」 「どこに、子供を一人でむさくるしい本屋に行かせる親がいるのかしら?」  ジェンキスには返す言葉が無かった。大人顔負けの舌のうまさだ。厄介な客だとジェンキスは思った。さっさと商品を選んで帰ってもらえないものだろうか。顔に出ていたかもしれないが、幸い少女はジェンキスの顔を見てはいなかった。  少女は店の本棚を見終わったのだろう。ジェンキスにいたずらっぽい表情で話しかけた。 「この店は魔本を扱っているのでしょ?なにか魔本にまつわる面白い話はないのかしら?」  厄介な注文をする客だ。ここで彼女の要望を断っては、後々の禍根になるかもしれない。魔本についての話は、出来なくもないが少女には退屈な話になってしまうだろう。作業台に置いた魔本をジェンキスはちらりと見た。 「その本、やたら丁寧に扱われているけれど魔本なのよね?店主さんがちらりと見たということは、何か事件が有ったのよね?」 「ええ、まあ。面白くない話ですよ。ご婦人の耳に入れるものではありません」 「そんなに、言うのならますます気になるわね。その本にまつわる話、聞かせてくださらない?」  ジェンキスの遠回しな拒絶は却って少女の興味を引き立ててしまったらしい。旺盛な少女の好奇心をはねのける術をジェンキスは持たなかった。ジェンキスは中年らしい底意地の悪さでこの少女が自らの話で怖がる様子を見たくもなったのだ。 「それでは、話をはじめましょう」  作業机の上に乗った『少女と未亡人』と銘打たれた絵画本の表紙を、ジェンキスは撫でた。  それは、ジェンキスが今のように白髪交じりではなく、青二才と呼ばれるような年頃に起きた話だった。ちょうど今日のような雨音に紛れ、行きかう人間が少なくなる日に女が店に来たのだ。  女は、黒い古風なドレスと揃いのベールで顔を隠していた。しかし、ベールから伺える輪郭や、僅かに覗く首筋は、女の妖艶さを引き立てていた。ジェンキスは一目見ただけで、彼女に吸い寄せられる気がした。御伽話で聞く、この世のものではないような美しさとは彼女の美しさを形容するためにあるのかもしれない。雨の日の陰鬱さとジェンキスの若さも彼女をより魅力的に見せたのだろう。  彼女は鈴のような声でジェンキスに尋ねた。「市に流れた祖父の遺品を探している」と。  ジェンキスは答えに窮した。遺品と言われても彼には何も分からなかったからだ。見栄を張りたかったが、彼は正直な男だった。自分には分からないということを正直に話し、女には自分の店の品物を自由に見ても構わないということを告げた。  女は、本棚の中身を吟味しているのだろう。ゆっくりと林立する本棚を見て回っている。ジェンキスは女のために自らの記憶を掘り起こしていた。最近、市で遺品が流れたという話をジェンキスは聞いていない。 「これ、いただくわ」  女が、ジェンキスに手渡したのは、数冊の文庫本だった。文庫本は近年の魔法科学の発達に伴って人々に安価にもたらされた産物だ。しかし、文庫本という形式は新しくとも、そこに記された内容はいわゆる古典の名作が多かった。 「女子供でも手に取りやすいものが出来たのね」 「え、ええ。はい」  ジェンキスは自分が満足な返答を返せなかったことに忸怩たる思いだった。残念ながら、彼は美しい女性に話かけられて、戸惑わない男ではなかったのだ。 「えっと、あのこのえっと」  まごまごしているうちに女性は姿を消してしまっていた。机の上には、数枚の金貨が残されていた。 「金貨!金貨だよな!?それも何枚も。この金貨はいつのものだ?歴史書で見たことがあるような?」  あの未亡人然とした女性に、ジェンキスの興味は引き立てられるばかりだった。ジェンキスは彼女の正体を知るべく慣れない酒場で情報を集めようとして、酔いつぶれて馬車に轢かれそうになった。それでも、数週間の間、彼はミステリアスな女と会うための手立てを尽くした。 「一体彼女はどこに消えてしまったのだろう」  店の本を手入れしながら、彼は悩んでいた。貰い過ぎた代金を返さなければならなかったのだ。他にも純粋に彼女に会いたいという理由もあった。  一向に彼女の情報は得られぬまま、いつしかジェンキスは彼女のことを忘れかけていた。  転機が有ったのは、仕入れのために古本市に赴いた時のことだった。噂話好きのデミアンの顔を見たときに彼は彼女のことを思い出したのだ。  デミアンには良くない噂が付きまとっている。街の後ろ暗いやつらとつながっているとか、転売で大きな利益を得たとか、妻子を殺したとか。そんな噂に負けずに日の当たる場所に堂々といるのだから、一筋縄でいく男ではない。  ジェンキスはデミアンのことをよく知らないし、流れてくる噂から良い感情を持っていなかった。だが、情報通なデミアンならば、あの雨の日に店に来た彼女のことを知っているかもしれない。駄目元でジェンキスはデミアンに話を聞くことにしたのだ。 「やあデミアン」 「これはこれはジェンキスの旦那。あんたぁ、俺みたいなやつが嫌いじゃなかったのか?」 「聞きたいことがあってね」 「全く、この場で俺に話掛けるなんて度胸があることで」  デミアンの言うことはもっともだった。ジェンキスはその日は仕入れに集中し、デミアンには酒場で夜に会うことにしたのだ。  太陽は西に沈み、夜が街を覆った。ジェンキスは覚悟を決めてデミアンと会うことになっている酒場に向かった。酒場に向かうジェンキスの心臓はばくばくしていた。デミアンは噂通りなら悪党なのだ。臆病な自分が酒場で彼に会うなんて、一年前の自分に言っても信じなかっただろう。  飲み屋街は喧噪に包まれていた。酔っぱらいの反吐と酒と、飯の匂いが混ざり合って混沌とした空気が漂っている。ジェンキスはデミアンと約束した時間通りに店の扉をたたいた。  給仕にデミアンと待ち合わせていることを伝えると奥まった個室に案内された。デミアンの姿はまだ無かった。個室には窓もなく、外の喧噪とも無縁だ。仮にデミアンがジェンキスを殺しても、ジェンキスの声も物音も聞こえないだろう。その恐ろしい考えは、ジェンキスにこの場を処刑場だと錯覚させた。  自分が殺されるようなことは無いだろうとジェンキスは考えていたのだ。だが、この個室に通されたジェンキスは不安に吞まれていた。彼をここまで導いた給仕の頬に浮かんでいたのは微笑ではなく嘲笑だったのかもしれない。  逃げ出そうとジェンキスが考えたとき、個室の扉が開いた。デミアンが扉の向こうから姿を見せたのだ。 「ジェンキスの旦那。随分と不安そうな顔をしてますね。なぁに安心してください。殺そうなんて考えていませんよ」  デミアンの言葉にジェンキスは一応の安心を得た。デミアンは言われているほど、危険な人物ではないのかもしれない。 「彼女について知っているのだろう?教えてほしいんだ」 「わかりやした。話しましょう」  ジェンキスはごくりと唾を飲み込んだ。 「最近、ジムホの街の本屋では雨になると未亡人の幽霊が現れる。黒いドレスと黒いベールで顔を覆った女の幽霊だ。幽霊は、本屋の主に決まって無理難題を押し付けるのさ。王家しか持っていない本が欲しいとか、龍の皮作られた本が欲しいとか。娘が勝手に売ってしまった本が欲しいとか。そんなことは土台無理な話さ、店主はみんな冷やかしだと思って、冷たくあしらっちまう。そして幽霊は静かに消えるんだってよ」  デミアンの話に出た幽霊とは、ジェンキスの店に訪れた彼女だろう。ジェンキスへの無理難題は随分と優しかったようだが。 「知りたかった話はこれかい。じゃあ、代金として金貨百枚だ」  デミアンが求めた対価にジェンキスは困惑した。高くとも情報料は金貨一枚くらいには収まるだろうと考えていたからだ。 「暴利だ。それはおかしい」  デミアンはジェンキスが反論したことに対して、哄笑した。 「いやぁ、旦那にそんな勇気が有るとわね。このデミアン驚きましたよ」 「じゃあ、金を……」 「いえ、やめませんとも。あんたをここで殺すのも俺はわけないんだぜ。ここで断ればあんたの店に仲間が火をつけるかもしれない」 「衛兵に訴えるぞ!」  ジェンキスがそう伝えるとデミアンの瞳には狂気が宿った。 「あんた俺を舐めているよな?俺は女だろうと子供だろうと容赦しないんだぜ。俺に惚れた馬鹿な子持ちの女を娘もろとも殺したことだってある。つまりな、あんたが思うよりも俺は大悪党なんだぜ」  デミアンは懐から長い刃渡りのナイフを抜いた。ここで、ジェンキスを殺そうというのだろう。 「死体は従業員に片付けさせりゃあいい。金は有るんだ」  デミアンの狂気にジェンキスは対抗する気力を失った。デミアンの殺意に恐怖したのだった。ガタガタと恐怖で身体を震わせながら、ジェンキスはやっとのことで口を開いた。 「払う。払うから殺さないでくれ」  デミアンは口元を歪め、くつくつと笑った。 「分かればいいんでぃ。旦那は物分かりがいい。いやぁ、ありがたいね」  デミアンは親しげにジェンキスの肩を叩いた。 「万が一逃げようものなら、地の果てまで追いつめてお前を殺すからな。覚悟はしとけよ」  ジェンキスは震えあがった。逃げることもできない。更に店には金貨百枚なんて金は無い。ジェンキスは自分が首をくくろうとすら考えてしまった。  ジェンキスは月を見ながら、暗澹とした気持ちで店に帰っていた。このままでは自分には破滅しか待っていない。月は雲に覆われ消えてしまった。月にすら見放され気分だ。    夜にはデミアンとその一味がジェンキスから金を奪いに来る。そう考えるとジェンキスは寒くもないのに震えが止まらなかった。恐ろしいことになってしまった。降りしきる雨はジェンキスの心を映すようだった。  夜になった。ジェンキスは歓迎せぬ来客のために店を開けていなければならなかった。心臓はバクバクと激しく音を立てている。心臓の鼓動が破滅へのカウントダウンのようだとジェンキスは思った。  ダンダンと乱暴に店の扉を叩く音がした。きっとデミアンらが来たのだろう。こわごわと店の扉を開けると傘を差したデミアンと、三人のずぶ濡れで汚い身なりの男がいた。 「金は用意出来ているのだろうな?」  ジェンキスは弱弱しく出来ていないと答えた。案の定デミアンは激昂した。そして、そのまま大声で罵倒を続けようとしたが、様子が変だった。  異常な光景だった。デミアンは何かを払いのけるように身体を激しく搔いている。雨に打たれ輪郭が浮き出たそれは、ジェンキスには人の形をしているように思われた。デミアンの連れてきた男たちも明らかに動揺していた。 「お前は、エリザ。それにアイリーン!お前たちはこの俺が首を絞めて殺したはずだ!」  デミアンは幻覚を見ているのだろう。虚空に向かって必死に叫んでいる。傘はとうに投げ出され、水たまりの中に捨てられていた。 「貴様!エリザが、化けて出たなァァァァ!!!!」  デミアンは完全に狂っていた。 「殺してやったぞ!殺してやったぞ!どうだ、滅多刺しならお前も復活は出来まいエリザァ!」  デミアンがエリザだと思いこみ、滅多刺しにしたのはデミアンが連れてきた男だった。ジェンキスからしたら、まるで意味が分からなかった。デミアンが発狂して男を刺し殺した殺したのだ。  呆然としているジェンキスを尻目に騒ぎを聞きつけた衛兵がナイフを振り回すデミアンを取り押さえた。そしてそのまま、デミアンは投獄された。  ジェンキスの魂はどこかに飛んで行ってしまいそうだった。意味が分からないままジェンキスは寝床に入った。なかなか寝付けなかったが、何とか眠ることが出来た。  目を覚ましたジェンキスが作業机にふと目をやると、そこには昨日までは確かに存在していなかった本が一冊有ったのだ。  絵画本のようで、厚さはそれほどない。本の表紙には『少女と未亡人』と表題が記されている。ジェンキスが本を開くと、そこにはジェンキスが店で会ったであろう女の絵があった。ジェンキスは手をわなわなと震わせた。  美しい絵を集めたものなのだろう。しかしジェンキスにはこの本が奇妙に思えた。どことなく絵のバランスがおかしいし、表題にもなっている少女はかけらたりとも登場しないのだ。この本に描かれている人物は、未亡人だけであった。  とにかくジェンキスはこの『少女と未亡人』を、魔本だと判断した。先代からは魔本のことは聞いていたのだが、他人事だと思っていたそれを自身で経験することになるとは夢にも思っていなかった。この本はジェンキスの店が気に入ってくれたのだろう。ジェンキスは感謝の念を抱くとともに、デミアンを発狂させた本に恐怖を抱いたのも事実だった。 「店主さん、とても面白いお話ありがとう」 「お嬢さんが怖がると思って、この話をしたのがけれどね……」  少女はニヤリと笑った。ジェンキスが少女を子供だと思い怖がらせようとしたことは事実だった。 「店主さん、デミアンはどうなったのかしら?この店が襲われることは無かったの?」 「全く無かったさ。デミアンなら、この前死んだと風の噂で聞いたよ」  ジェンキスが、自身の若気の至りで起きたこの事件を他人に話したのは初めてのことだった。見ず知らずの少女だからこそ、話せたというのはあるだろう。しかし、それ以上に、この少女には話しておかなければならないという予感がしたのだ。 「お嬢さん。話は終わったよ。何か本を買っていくのかい?」  少女に掛けたはずの声は、少女には届かなかった。店にはもう少女の姿は無かったのだ。 「雨のせいか。嬢ちゃんがいなくなったのに気が付かんとは」  ジェンキスは溜息を吐き、作業机に向き直った。本を開くと、そこには大きな違和感があった。この本に描かれた人物は未亡人だけであるはずなのに少女がいるのだ。先ほどまで話していた彼女とそっくりの少女が。
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