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「ああ体が冷えきってしまっている。ほら、暖炉の前に座りたまえ。お茶を用意させよう」
男に促されるまま暖炉の前に腰を下ろす。どこかの貴族なのだろうか?それはそれは広い屋敷だ。それにしては人の気配が少ないのだが。
恐らく使用人であろう背の高い男からカップを受け取ると、ふわりと甘い香りがした。そして、暖かい。
ほぅ、と思わず息が漏れる。暖かいものなんて、生まれてこの方口にしたことがない。どんな味なのだろう?どんな飲み物なのだろう?口をつけようとして──カップを床に投げ付けた。音に驚いて、貴族の男は目を丸くして振り返る。オレはただ、その男を睨みつけていた。
「お前なんか信用しない。何が目的だ」
「……じゃあどうして来たんだい?」
「それは……」
「どうでもよかったんだろう?何もかも」
男は目を数回瞬かせてから優しく微笑んだ。そしてゆっくりこちらに歩み寄ってくる。なに、なんだ。咄嗟に後ずさると、後ろのソファに引っかかって思わず倒れ込んでしまった。ぼふ、と優しく柔らかい感触が体を包む。それに一瞬ほっとしてしまったのも束の間。男の手が音を立てて顔の横に付いた。咄嗟に体が強ばる。
「あーあ、紅茶を無駄にしてしまって」
男はそう言いながら床を見ると、カーペットに紅茶と呼ばれた液体が染みていくのが見えた。それに怒っているのだろうか?だがどうやら、怒っているのとも少し違う。変な男だ。
「ブルーム、もう一度紅茶を」
ブルームと言われた背の高い男は、少し困ってから部屋の奥へと消えていく。部屋に二人きりになってしまった。その震える瞳を逃すまいと貴族はじっと見つめてきた。
「怖いかい。そうだろう、それが正しいさ。知らない男の屋敷に上がって、組み敷かれて…男の君でも怖いだろう。だがそれが正しい」
何が言いたいんだ、なにがしたいんだ。震える体を隠すように拳に力を入れて睨み返す。貴族はそれを見てか少し笑って上から退いた。そして手を差し出してくる。
「……変なやつ」
ん?と貴族は首を傾げて、オレの手を無理やり掴むとぐいっと上体を起こさせた。手袋越しでも分かる暖かい手。こんな奴の手なのに、安心してしまう。
男は改めて、と言うと被っていた帽子を胸に当てた。
「私はこの屋敷の主、アェルド。アェルド・ルチア・ヴィヴァルディ。お前を拾った大人だよ」
さて君は?とわざとらしく目を細めながら無言で問いかけてくる。だが……。
「名前なんてない。気づいたら外で……記憶も無い」
一番最初の記憶は、路地裏で目を覚ました時だった。それ以前の記憶は全くない。どこから来たのか、自分が何者なのか……は少しわかるけど、とにかくほとんど何もわからなかった。
そう聞いた男──アェルドはふむと小さく零してから「では」と口を開いた。
「ジェシー。君はジョシュアだ。いいね?」
「勝手に決めるなよ……」
「はい決定。拒否権はなし、だ」
アェルドは小さく笑うとブルームから紅茶を受け取り、再び差し出した。暖かそうで、美味しそうなもの。思わず喉がこくりと音を立てた。はっとして喉を抑えたが、既にアェルドは笑っていた。……腹立つヤツめ。
「ほら、飲むといい。ブルームの淹れた紅茶は美味しいんだ」
「……」
そっと受け取ると再びあの温かさが手に染みる。じわ、と熱が移っていくこの感じは、嫌いじゃなかった。
もう死んでもいいのなら、なんでもいいのなら。とカップに口をつけた。そしてゆっくり傾けると、やがて甘い味が口に広がる。ふわぁ、と思わず声が漏れた。
「おいしい……」
「だろう?」
アェルドは満足そうにこくこくと頷いて、ソファへと腰掛ける。そして指を絡めて手を組むと、じっと見詰めてきた。
「さてジェシー。お前が気になっていることもここに居ればやがて分かるだろう。どうだい?ひとまず、ここに住むというのは。
お前は住む場所が欲しい。私は君を保護したい。利害は一致している」
嫌になればいつでも逃げ出せばいいさ、なんて嫌味ったらしく笑ってから「おいで」と手袋をした手を差し出す。自分よりも大きい手。大人の手。今までは、その手に何度傷付けられた事だろう。理由もなく殴られ、打たれ、蹴られて、時には変なやつに体を撫で回されたりした。
だがここは暖かい。温度だけじゃなくて、空気というか……雰囲気というか。そうだ、嫌になればいつでも出て行けばいい。だから……。
少年、ジョシュアは、そっとアェルドの手を取った。
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