貴女に贈る花は、僕に贈る花

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貴女に贈る花は、僕に贈る花

 ここはどこなのだろう。  気づくと見知らぬ山の中を、ただひたすらに歩いていた。月明かりだけがゆく道を照らし、ざあざあと木々が揺れる音が不気味に響く。  いつから歩いているのか、何故歩いているのか、何も分からない。  僕は夢でも見ているのだろうか。  そうでなければ、何も分からないこの状況に理由がつかない。 「きっとこれは夢だな。そうだ、そうだ」  暗闇の中ひとりで山道を歩く心細さからだろうか、普段は発することのない独り言を呟いた。  しばらく孤独な道を歩いていると、月明かりを背に、人影が一つこちらに近づいて来るのがぼんやりと見えた。  暗闇の中とはいえ、背格好から女性であることはすぐにわかった。前方を見据えて歩くフリをしながら、不審がられないようにチラチラと、段々と大きくなる女性の姿を確認する。  初秋とまではいかないものの、夏も終わりに近づき、夜風は冷たさを含んでいるこの季節にしては、女性の着ている真っ白なワンピースは少し薄着にも思えた。  しかし、その姿はどこか懐かしさを感じさせた。  あと1歩で女性とすれ違うかという刹那、女性は僕の前に立ち止まると、真っ直ぐに目を見つめ微笑んだ。 「もうここに来るなんて、随分早かったね」  血の流れが見えるのではないかと思うほど透き通った白い肌に垂れ下がった目尻、綺麗に手入れされている腰まである髪は暗闇に溶け込んでおり、そのどれもが特徴的だった。  いや、今はそんなことを考えている場合ではない。  不意に女性が放った言葉の意味を理解しかねて、返答に詰まってしまった。  随分早かったとはどういう意味なのか。ひと違いでもしているのか。 「あの・・・・・・どこかでお会いしたことありましたか?」  女性は目を細め、少し切なそうな笑みを浮かべる。 「そうよね、もう30年以上経つものね」  それは30年以上前に、僕がこの女性と会っているという意味なのだろうか。  30年以上前というと、僕は大きくても5歳といったところだ。 「こんなに大きくなって、立派な大人になったのね・・・・・・30年も経つもの、当たり前よね」  僕の戸惑いをよそに、女性は眉を下げ、どこか寂しそうにそう続けた。 「少し散歩でもしましょうか」  穏やかな笑みは、闇夜の中ではそこはかとなく不気味にも感じられた。  女性は僕の返答を待つ様子もなく、するすると歩き出した。  強引な女性の振る舞いに戸惑いながらも、その後ろ姿を追いかけた。 「あなたはどうしてここに来たの?」  幾許か歩いたところで、ぽつりと女性は呟いた。  木々の音に掻き消されそうなほど、問いかけというにはあまりにもか細い声だった。  女性はこちらも見る様子もなく、ただ前を見つめ、歩む足を止めることはない。 「正直自分でもいつからここに居るのか、何故ここに居るのか・・・・・・ここがどこなのかすら分からないんです。でも・・・・・・これって夢ですよね?」  ここで初めて女性の足が止まった。  何を言うでもなく、ただじっと真っ直ぐに僕の目を見つめる。  女性の表情は、まるで気の毒とでもいうかのようだ。 「そう・・・・・・きっと色々あったのね。ねえ、あなたは幸せって何だと思う?」 「え・・・・・・?幸せ、ですか?」  幸せとは何か。  不意に投げ掛けられた漠然とした問いに困惑する。  こたえに迷う僕をよそに、女性は最初から僕のこたえなど当てにしていないかのように続けた。 「ふふ。そんなこと突然聞かれてもわからないわよね・・・・・・でも分からないくらいが丁度いいのよ」  僕が「分からないくらいが丁度いい」という言葉の本意を理解しかねていることを、女性はお見通しのようだった。 「幸せなのが当たり前で、幸せかどうかなんて意識しない。私はね、そんな状況に居られることが幸せだと思うの。幸せを感じられるのは幸せじゃない状況を知っているから、不幸の中に居るからでしょう?だったら幸せかなんて、分からない方が幸せよ」  木々を揺らしていた風が、より一層強くなる。  まるで森全体が彼女の言葉に賛同しているようだった。  女性が放った言葉の意味を深く考えているうちに、一つの疑問が頭の中をよぎった。 「あの・・・・・・僕がこんなこと言うのもどうかと思うんですけど、あなたはどうしてこんなところに居るんですか?」  これまで淡々と語っていた女性が初めて黙り込む。  しばらく考え込んだあと、昔の記憶でも思い起こすかのように、遠くを見つめながら話し始めた。 「自分の人生こんなものだって、諦めがついたから、ね。こんなもの、この先何十年続いて行くんだろうって。もう終わらせたいなって。本当に自分勝手でごめんなさいね」  しかし、これは僕の質問の答えになっているのだろうか。  思い掛けない女性の言葉に呆気にとられていると、あるものが僕の目に映った。 「その花・・・・・・」  三輪の真っ白な秋の花。女性は大切そうにその花を握っている。 いつから持っているのか、あるいは初めから持っていたのか。 「ああ・・・・・・これね。毎年あなたが6月にくれているお花よ」  毎年6月の白い花。  ・・・・・・ああ、なるほど。そういうことか。 「それは僕が贈った菊の花ってこと・・・・・・だよね、母さん」  その言葉を聞き、女性は幼い頃に写真で見たのと同じ穏やかな笑みを浮かべる。  その表情を見て、僕はこの状況を理解した。 「         」  突如風が吹き荒れ、それまでのとは比べ物にならないほどの木々の騒音に包まれた。  女性の口が小さく動くのが見えたが、その声は僕には届かない。 「こっちでは穏やかな日々を送れるわよ。行きましょう」  先程までの風が嘘のように、辺りは静寂に包まれた。  僕は女性とふたり、再び暗闇の中を月明かりだけを頼りに歩き出した。
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