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苦しい。苦しい?
銀のナイフを蛍光灯の光に翳すと、光の輪がそれを彩った。
(ただの現実逃避だって事はわかってるけど……)
それでも現実を認めたくなくて、傷だらけの手首に刃をあてた。
微かな痛みが走り、鮮血が零れる。
もう慣れきった行為に自嘲しながらも、ナイフを握る手はそれをやめてくれない。
痛みが麻痺してきた頃には、床に血溜まりが出来ていた。
真新しい傷は、手首から腕……肩まで続いている。
利き手の感覚はもうなくなっていた。
(師匠との約束、何一つ守れてない……)
今更気づいても遅い。
自傷が再発したことよりも、約束を守れなかったことにショックを受けた。
「師匠……」
それでも手は止まらずに、ナイフの切っ先が首に当たった。
自分でも止めることが出来ない衝動に、諦めて目を閉じる。
「おい、エレノア!」
わたしを呼ぶ声と共にドアが乱暴に開かれた。
その向こうに居たのは、メフィスト――わたしの先輩だ。
「てめっ、あれだけリスカはやめろって言ったのに」
先輩がわたしの手からナイフを奪おうとした。
反射的に動いてしまった手。
握っていたナイフはメフィスト先輩の頬を掠め、赤い線を引く。
「あ"っ、あ"ぁ"」
心の中で舌打ちする。
メフィスト先輩は自分の血を見ることで発狂するんだった。
「あー、すみません」
謝って済む問題じゃなかった。
メフィスト先輩に壁に叩きつけられ、ナイフを投げつけられる。
刺さらなかったものの、少しでも動けばナイフにくくり付けられたワイヤーで切り刻まれるだろう。
ワイヤーつきのナイフを投げてくるなんて、悪魔より酷い。
(絶体絶命ってやつかしら)
心の中で毒づきながら、発狂したメフィスト先輩を睨む。
少し血が垂れただけでこれだから、きっと血塗れになったら人格崩壊するだろうな……なんて考えている場合じゃない。
「いっ」
先程のナイフで切った傷だらけの腕を掴まれ、痛みが戻ってきた。
メフィスト先輩の手をわたしの血が汚していく。
「エレノア」
不意に名前を呼ばれた。
優しい声色に思わず顔を上げると、目の前にはメフィスト先輩の顔。
金色の睫毛に彩られた色ちがいの瞳は、普段は前髪に隠されていて見えない。
デジャヴを感じていると重ねられる唇。
(いつもの先輩だ……)
さっきまでの狂った状態とは違う、いつもと同じ雰囲気。
メフィスト先輩が戻ったことに安心した自分に驚く。
いきなりだったキスもいつのまにか受け入れていた。
ちゅっ、とわざとリップ音を立てて唇が離れた。
メフィスト先輩はいつもの笑みを浮かべている。
「最悪……」
楽しそうなメフィスト先輩を見て、思わず本音が零れた。
その呟きが耳に届いたはずなのに、メフィスト先輩は笑っている。
「オレもさ、リスカとかアムカしてた時期あるよ」
聞いてもいないのに語りだしたメフィスト先輩。
隊服の袖を捲り、腕をわたし見せてきた。
「……っ」
かなり深く切った跡がいくつもある。
正直、痛々しいを通り越して、見ていて気持ち悪い。
「お前がリスカする理由は知らないけど、オレはしてほしくない」
いつもより少しだけ優しい先輩の言葉。
師匠もそんなことを言っていたっけ……。
『どんなに辛いことがあったとしても、それが自分を傷付けて良いと言う理由にはなりませんよ』
師匠の言葉が頭の中で谺する。
ぐらり、と脳が揺れた。
「エレノア!? おい、エレノア!!」
メフィスト先輩の声が遠くに聞こえる。
グラグラと視界が揺れて気持ち悪い。
視界が反転したかと思えば、床に叩きつけられる。
倒れたと気がつくのにやたらと時間が掛かった。
「エレノア、エレノアっ!」
メフィスト先輩がわたしの名前を何度も呼んでいる。
それに答える力も残っていなくて、わたしはゆっくりと目を閉じた。
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