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「いやあ今年は盛大に積もりましたねえ」
そう言って、清掃員の青いつなぎを着た男は帽子のツバを軽く上げながら感嘆としている。
彼の前には天を衝く壁があり、その根本に黒い煤が積もっていた。その高さはゆうに男の背丈を超えている。
男の傍らには清掃道具を乗せたリヤカーがあり、彼の手にはデッキブラシも収まっていたが、どう見積もってもこの大量過ぎる煤をなんとかできるとは思えない。
「困ったなあ…… どこへ払おう。運ぶのも一大事だな」
少し途方に暮れた声を出し、髭の残る顎を撫でる。困ったように眉が八の字を作っているのが見えた。
だが、すぐに彼は笑顔であなたの方を振り返った。何も心配ない、と言いたいのだと、あなたには分かるだろう。
「まあ、こういうときもありますって。
世の中どうにかなることばかりじゃないっすよ。どうにもならないものだってあります」
そう言うと、男はつなぎの腕を捲くる。デッキブラシの代わりにスコップを握りしめ、煤の山へと向かった。捲くった腕からは、ちらりと入れ墨が踊っているのが、あなたには見えた。
「そりゃあ少しっくらいの煤なら別の用途なりなんなりあるかもしれないけどね」
スコップで煤を掬い、リヤカーに乗せていたポリバケツへと放り込んだ。この先、何杯のバケツが必要になるのか考えるのも嫌になりそうだ。
「こんな量、もうどうにもなんないですって。
何かできるだろう、何か実になるだろう、何か見つけられるだろう、なんて、無理やり捻り出すくらいなら」
ほら、と男はあなたを、あなたの後ろを指差した。
あなたは彼の指先が示す方を振り返る。そこに、透き通った青をした空が見えるだろう。
「いっそ新しい方を向いちまった方が易いですよ。
どうにもなんないってことがあったって、いいじゃないすか」
はは、と男は笑った。軽々とした(完全燃焼し何も残っていない)声をしていた。
「どうにもならなかったって事実だけ覚えておいてくださいよ。
これはこれとして、残しておきましょ。てか、残さざるを得ないんすけど」
苦笑いする男の様子を見ると、やはり彼の掃除道具では歯が立たないのだろう。こんな壁まで作って、煤を堰き止めているのだから。
そもそも払うつもりもないのだ。彼以外は。いや、彼も「どうしようもないが、自分がやるしかない」と足を運んでるだけだ。
「みんなが足止め食らうことないですよ。
あなたが覚えててくれればいいです。煤を払ってる誰かがいるってね。それでいいです」
けれど、と。あなたは男に声を掛けた。
男は口端を上げ、苦笑に似た笑みを作る。
「胸が痛いだろうけど、それもまたしょうがないんですわ。
滞留する温い安寧を取るか、痛みを伴いながら歩いていくか、どちらかの選択肢しかないのが今で」
男は手を伸ばし、あなたの胸を軽く押した。青空の方へ。
「時間はそっちに進んでるんです。実は、この選択肢は選べないんすわ」
仕方ないね、と男は笑う。いたずらめいて。
あなたは、首筋を冷たい風が通り過ぎるのを感じた。乾いた木枯らしに焦げた煤の匂いが混じっている。
「煤が付かないうちに行ってしまいなさい。
払えるものだけ払って、あとは気にしないのが一番です。
積もるもんなんですから、煤なんて」
煤払い。
男は再びスコップを持ち直すと積もった煤に差し入れた。
あなたはその背中を記憶に深く深く刻み、壁に背を向けて歩き出す。足元を微かな黒い煤が纏わりついたか。
片足を上げて、手でさっさと払い落とす。
これくらいなら。
新しい靴を汚すにはまだ早い。
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