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紳士なのね
「ああ、気持ちいい・・・・・・・」巴は露天風呂で夜空を見上げる。都会では見えない星が沢山輝いている。手を伸ばせば本当に届きそうな雰囲気であった。
刈谷が女将に部屋の変更を申し出たが結局、他の部屋は全て塞がっているという事で、変更する事は出来なかったそうだ。なぜだか、刈谷が申し訳なさそうに謝っていたが、巴のほうは「仕方ないですね・・・・・・・」と言いながらも、ニヤニヤと笑いが止まらなかった。
「ふふうんふん♪」自然と鼻歌がこぼれる。湯舟から上がると、なぜかいつもより念入りに体を洗った。「デヘヘヘヘ」その間も、ニヤニヤと笑みが収まらない様子であった。
「よっしゃ!」両頬を叩いて気合を入れると、立ち上がりもう一度湯舟に飛び込んで体を温めた。こういうニュアンスで、実はこの温泉は男女混浴で、刈谷が自分に気づかず入って来て鉢合わせになる・・・・・・・・、なんて妄想をしてみる。「デへへへへ」完全にこの旅行が失恋旅行であった事は、彼女の頭の中から消え去っていた。
ガラガラ!浴室のドアが開く音がする。まさか、本当に!巴はひとまず軽く悲鳴を上げる準備をする。人影が近づいてきて、巴の傍にやってきた。
「きゃああ!」巴は両胸を隠しながら悲鳴を上げた。
「び、びっくりした!お客さんどうしたの!?」そこには女将の姿があった。
「い、いえ・・・・・・・・、別に・・・・・・・」巴は、そのまま湯舟から出ると、スタスタと脱衣所に逃げるように歩いて行った。「はあ・・・・・・・・」我ながら、浅はかだなと思いながら、濡れた体をバスタオルで拭いてから浴衣を着た。
★
「ふう」刈谷はため息をついてから、一枚の写真をテーブルの上にトランプのように投げ捨てた。そこには、髭を蓄えた初老の男性の姿が写っていた。
先ほど、自動販売機で買ってきた缶ビールの蓋を片手で開けると、ゴクゴクと飲み込んだ。「ああ」昼間の移動で疲れたのか、大きな欠伸が出た。ちょうど、その時隣の部屋の扉が開く音がする。「お帰りなさい・・・・・・・」と、なぜか自然に言葉を口にしてしまうが、考えてみれば同じ部屋でもないはずなのにその言葉を掛けるのは可笑しいと苦笑いしてしまった。
「ただいま・・・・・・・・、あの、刈谷さんはお風呂入らないのですか?すごく気持ちよかったですよ」返答が返ってきた事に刈谷は少し驚いた。
「温泉ですか・・・・・・・、いいですね。僕も後で行ってみます」
「何をされてるんですか?」巴は部屋で髪に櫛を入れながら、襖越しに声を掛けてくる。
「ああ、ビールを飲んでます。あ、そうだ一本いりますか?」イチイチロビーの自動販売機まで買いに行くのも面倒くさいので、まとめて数本買っていた。
「えっ、いいんですか?」言いながら巴は、襖をゆっくりと開いた。
「ええ、嫌じゃなければどうぞ」刈谷は軽く掌を開いて、テーブルの対面側に座るように即した。
「それじゃあ、ご遠慮なく・・・・・・・・」巴は浴衣の上に、着物を羽織ると刈谷の部屋に移動した。
「「乾杯」」そういうと二人は、ビールの缶を重ねた。
「刈谷さん、お仕事って、こんなところまで何をしに来られたんですか?」少しアルコールが回って来て、巴の頬は赤く染まっている。
「ああ、人探しです。この辺で見かけたって話を聞いたんで」なぜかバツが悪そうな感じで、目を瞑り首の後ろ辺りを手で摩っている。仕事の事を聞かれるのは嫌なのだろうか。「巴さんは、何しにここへ?」
「あ、私は・・・・・・、一人旅が好きで・・・・・・、色々な人に出会えることが楽しくて・・・・・・」言うまでも無いが真っ赤な嘘であった。一人で旅に出かけるなど今回がはじめてである。
「ふーん、楽しそうですね。お仕事は何をされているんですか?」その刈谷の質問を聞いて巴は一瞬顔を引きつらせる。
「えっ、えっと・・・・・・・OLです。あのオフィスレディってやつです」刈谷は久しぶりにOLって言葉を聞いたなと思った。
「へえ、そうなんだ」特に深く聞く必要も無いのであろう。気の無い返答であった。取り留めの無い話題が続き、いつの間にか巴は、机に前のめりになって眠ってしまったようであった。その肩には毛布が掛けられていた。気が付くと、外は少し明るくなっており、刈谷は部屋の窓際に設置された椅子に座ったまま、眠っているようであった。
「・・・・・・・・紳士なのね・・・・・・・」なぜか巴は残念そうな顔をしてから自分の部屋の布団に潜り込んだのであった。
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