魔女のいる世界にて

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月の裏横丁の、この上なくのどかな小道に足を踏み入れた時のことだ。 どこからともなく幼い「みゃあ」の声が聞こえて、私は顔を上げた。嫌な予感がしたからだ。音がした方へと耳を動かせば、青い屋根の一軒家からだった。おそらくあれがこの世界で最後の届け先になるだろう。 やれやれ、やっとか。そんな感慨に浸っていると、ヒゲが心地よい風にそよいだ。この世界の風の大精霊殿は、今日は機嫌がいいらしい。 私は石積みの塀の上に跳び乗った。次に、石積みの塀からレンガ積みの塀へと飛び移り、家と家の狭い隙間を歩く。出来得る限りの最短ルートで目的地まで行くのが我々郵便屋の務めである。 塀の上には白いウィスタリアが枝を巡らせており、花の房をたわわにつけていた。その房と房の隙間を蜜の妖精がしきりに飛び周り、玉のような蜜を採っては腰につけた瓶に詰めていく。 その藤棚のトンネルの終わりに、彼がいた。 藤の花の合間から入り込んだ暖かな陽の光の中、すらりとした前足を几帳面に揃え、すっと胸を反らして座っているその姿に、私は思わず見惚れて息を呑んだ。 吸い込まれそうな黄金色の瞳は澄んだ輝きを放ち、月並みな表現だが宝石のようだ。何を想うのか、その色に反した青々とした空を、枝の間からじいっと眺めている。艶やかなシルバーの毛並みに映える、黒い毛の気まぐれなさざ波模様が芸術のように美しい。細く、長い尻尾には、等間隔の縞模様が刻まれ、身体とは別の生き物のように、しなやかに、蠱惑的に揺れていた。彼の頭上には白い藤棚が咲き誇り、辺りを舞う蜜の妖精たちが集めた蜜がきらきらと輝く。 まるで精巧な絵画のようなこの光景を、このまま眺めていたい。 私は塀の上に座りかけて、思い直してまた立ち上がった。辛くも仕事のことを思い出したのだ。 「もし、そこの方」 声をかけてから、この世界の猫とは意思の疎通が取れないということを思い出す。 しかし、藤棚の君は私の言ったことがわかっているかのように、ゆっくりとこちらを向いた。物憂げとも無感情ともとれるその眼差しが私をわずかに怯ませる。 「すこし、お尋ねしたいのですが、その、ええと……ひぃっ!?」 私は尻尾に絶大なる違和感を覚え悲鳴を上げた。 「みゃあ!」 先ほど聞こえた声だ。慌てて尻尾を振り返ると、やんちゃ盛りな年頃のふわふわとした毛の真っ白な子猫が、青い目をらんらんと輝かせて私の尻尾にしがみついていた。 「こら!おやめなさ、わぁっ!」 子猫を振り払おうとするあまり、塀の上だということを忘れていた私は、足を滑らせて無様に塀の端から落っこちた。受け身をとれなかったが、幸い、掘り返したばかりの花壇の土の上に落ちたため痛みはない。 先ほど私の尻尾に無礼をはたらいた白い子猫は、元気な鳴き声を上げると、またしても私の尻尾に向かって元気に跳びかかってくる。 「ちょっと、いい加減にしなさい!」 尻尾を振れども振れども、子猫は離れていく素振りをちっとも見せない。それどころか尻尾であやされていると勘違いしたのか、余計に興奮してじゃれついてくる。 ふと、先ほどの藤棚の君の前で醜態をさらしていることに思い至り、塀の上を仰ぎ見ると、彼はとっくに姿を消していた。子猫一匹、いなせないでいる私に呆れたのかもしれない。 「アルー?どこに行ったんだあいつ……って、アルフレッド!何してるんだ!こら、やめなさい!」 青い屋根から出てきた丸眼鏡の男の手が、私の尻尾にしがみついて後ろ足で蹴りまくっていた子猫の首根っこを摘んだ。ようやく尻尾が不愉快な攻撃から解放され、ほっと息をつく。 彼らの本能によって大人しくなった子猫は、微塵も反省していない様子で不機嫌そうに「なうー」と声を上げている。何とも小憎らしいことだ。 「まったくやんちゃなんだから。脱走は今日で何回目だ?ああもう、土で真っ黒じゃないか……『なうー』じゃないの!」 子猫を抱き上げて視線を合わせて叱る男の顔はうっすらと微笑んでいて、子猫に対する愛情を多分に含んでいた。これでは子猫もやんちゃを叱られているとは思わないだろうなと私は嘆息する。 丸眼鏡の彼もまた、魔女と同様に「猫の主」なのだろう。 「ごめんよ。怪我はしてないかい?どれ、尻尾を見せてごらん」 「いえ、怪我はありませんのでお構いなく。ところで、ロドリーさんのお宅はこちらでしょうか」 尻尾を診ようと伸ばされた手をくるりと輪を描くようにして避ける。それと同時に、丸眼鏡の男も目を見開いて後ずさった。腕に抱かれた子猫が「みぃー?」と鳴いた。 「ね、猫が、しゃ、しゃべっ……?!」 「私は郵便屋ですので。喋りますとも。ところで、ロドリーさんのお宅はこちらでしょうか」 淡々と要件を聞くと、落ち着いた、というよりも、目の前の彼にとっての超常現象について深く考えるのをやめたらしい男が地面に膝をつく。 「あ、ああ、ロドリーは僕だけど……」 「そうですか」 背負ったカバンの蓋の金具がパチンと開き、花と若草の香りのする淡い桃色の羊皮紙の封筒が一通、ひらりと彼の手に飛び込んだ。 「ニーナさまとジゼルさまより、連盟でお手紙です」 「ニーナ?ジゼル?手紙?冗談だろう……だってあの子たちは……」 「目の前の郵便屋を見ても、そう思いますか」 届けた手紙を、いたずらだと思われることは少なくない。差出人が手紙など書くはずがない、書けるはずがないと思い込んでいるからだ しかし、世界が変わればそれまでの常識も変わる。字を書けない生き物が字を持つことだってないとは言い切れない。字を持てば、別れた相手を想って手紙をしたためたいと思うこともある。 たとえ、気まぐれの権化のような彼ら、彼女らであっても。 「喋る猫に化かされているんじゃ……」 「猫ではありません。郵便屋です」 そう言って帽子と背中の鞄を見せつけるように、くるりくるりと二度ほどその場で回って見せる。ロドリー氏は理解したのか出来ていないのか判別のつかない顔で「なるほど」と呟いた。 「こ、この手紙、今ここで検めても構わないかい?」 「どうぞ」 まだ信じられないのだろう。確かに、長年当たり前だと認識してきた世界の常識をおいそれと訂正するのは難しいことだ。 ロドリー氏は器用に子猫を抱えたまま、今しがた受け取った手紙の封を開く。数行ほど目を走らせたところで目を止め、震える手で丸眼鏡を外して目頭を押さえた。 その隙にロドリー氏の腕から逃れた白い子猫は、すぐそこを飛んでいたワスレナグサの妖精目掛けて、あまりにも低い跳躍を繰り出した。どれくらい低いかというと、私の膨れた尻尾を跳び越せないくらい低い。けれど、彼はいたって真剣な顔で跳んでいる。 どうやら私の尻尾への執着はなくなったようで何よりだ。 「……返事を出したいときは、どうしたらいい?」 ロドリー氏の声が不自然に揺れたのは聞かなかったことにして、私は鞄の中身を思い浮かべる。これ以上届け先を増やすと、届けるまでに時間がかかりすぎてしまう。ここは別の郵便屋に任せることにして、赤い目をしたロドリー氏を見上げた。 「お手紙は我ら郵便屋に直接お渡しください。ただし、今の私はお受けできません。満月、もしくは新月の夜に、窓辺に絹のリボンか絹の端切れで束ねたアイリスの花を。あとは何か銀細工を傍に目印として置いていただければ、他の者がきっと伺いますので」 「絹のリボン、アイリス、銀細工……わかった、ありがとう」 「……それでは、確かにお届けいたしました」 そう言うと、私は尻尾を翻してロドリー氏に背を向けた。彼には手紙を読む時間が必要だ。あの小さな暴れん坊がいる限り、ゆっくりというのは少々難しいかもしれないが。 すぐそこの路地を曲がると、先ほどの藤棚の君が、日当たりのよいベンチに座って、やはり空を見ていた。 私は一瞬だけ躊躇った。あの美しい彼と共にある未来をうっかり想像してしまったからだ。 ――けれど。美しい想像は、想像のままだから美しいのだ。 私は鼻先で空間を突いた。すると、何もないように見える場所に郵便屋のための扉が現れる。私は尻尾を引かれるような思いで、その向こうへと足を踏み入れた。 次の世界へと向かうために。 大切な誰かへ宛てた手紙を届けるために。 それが私の仕事なのだから。
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