リアルドール

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「ないわー」  僕が考えた書き出しを伝えると、彼女は言葉とは裏腹に、とても爽やかな調子で笑い飛ばした。  繁華街近くのマックで、僕は彼女と向き合っている。彼女はいわゆる、夜の街で働く女だ。紆余曲折を経て知り合いになった人物で、他の人にどうしているのかはわからないが、割と僕にはあけすけに話してくれている気がする。  僕は趣味で小説を書く。その小説の中で、夜の街の人の話を書きたいと思った。だが僕は夜の街どころか、昼の街ですら歩くのが億劫でめったに寄り付かない。だからと言って自分で足を運ぶのは少々気が引けた。  なので、知り合いの中で唯一そちらの事情に明るい彼女に声をかけたというわけである。最初は電話でやりとりをしていたのだが、やがて彼女の方から「お店の近くで、直接会って話そうよ」と持ち掛けられたのだった。  僕が頼んだチキンクリスプより、背も値段も高いビッグマックを頬張りながら、彼女は言った。 「アダルトビデオ観過ぎな男に多いよ、こういう発想。女に対して幻想抱き過ぎ」 「そうなのか」 「だって、本当に誰かの特別になりたいのなら、もっと違う方法があるっしょ。誰かの……って言ったって、誰でもいいわけじゃないし。風俗に勤める女がみんなエッチなこと好きかって言ったら、そんなわけないの」 「なるほど。生きるためにやってんだ、ってこと?」 「当たり前じゃん、そんなの。世の男たちにとっては娯楽だとしても、うちらにとっては立派な仕事なんだから。これの稼ぎでごはん食べてんだよ?」  そう言って、彼女は食べかけのビッグマックを置くと、湯気の上がるポテトに慌ただしく手をのばす。店で働いているときも、これくらいの勢いで客の服を剥ぎ取っているのだろうか。  口の中でマッシュされたポテトが、彼女の喉をある程度スルーしていったところを見計らって、さらに訊いた。 「じゃあ、きみはなんでその世界で働いてるの」 「うん? 夢があんの。お金貯めて、いつか自分のお店を開きたいなーってさ。でもあたしバカだし、学歴もない。あと、じっとしてんの無理だから、事務職とか絶対無理だし。今の仕事選んだのは、あたしみたいなのでも入れてくれたから……ってだけ。でもその先にはちゃんと目的があるからね」 「あくまで夢のための過程だ、と」 「当然。いつまでもこの仕事続けられるわけないしさ。周りでも、昼職と兼業している子、たくさんいるよ。そもそも本当に寂しくて誰でもいいから愛してって言うのなら、SNSの方が相手見つけるの簡単だもん」 「ふうん」 「甘い言葉をささやくのも、求められたとおりに演技するのも、ぜんぶ仕事だから。一人ひとりの客にいちいち惚れたりなんかしないし、仕事抜きで特別扱いされたいわけなんかないから。みんな何かやりたいことのためとか、単純に生きるためとか、そういう理由でこの仕事してるの。そこは覚えておいてほしいね」    かく言う僕も、女性に対してなんらかの幻のようなものを考えていなかったか、と問われれば否定はできない。  そもそも僕はそれほど女性経験が豊富じゃない。ただ、歳を重ねれば重ねるだけ、青春映画に出てくる大半の男女関係はあくまでフィクションであって、どんなに清純派を気取る男も女も、二人でひとつの部屋に閉じ込められればやることは一つしかないだろう……ということだけはわかるようになった。    なるほど、まだまだ知らないことばかりだ。訊いてみるもんだな。  昼下がりの陽の光に照らされながら、僕はのんきに考えていた。  すると目の前でビッグマックの最後の一欠けを咀嚼し終わった彼女は、ひとつ咳ばらいをして「でもさ」と言った。 「でも?」 「どんな仕事をしていたって、誰だってプライド持って仕事に臨んでるよ。ビジネスマンでもトラックドライバーでも、OLでも風俗嬢でも。それはみんな一緒なの」 「ほう」 「だから、あんたみたいに他人から聞いた話だけで森羅万象をわかった気になってるニートは、一番腹が立つの」  な……と言いかけたところで、やおら立ち上がった彼女が僕に向かってぶちまけた褐色の液体が、目の前に広がるように飛んでくるのが見えた。  反射的に目を閉じる。ビシャア、という大げさな音が耳をつく。次の瞬間には顔と胸のあたりからひんやりと冷たい感覚。彼女がセットでオーダーしていたドリンクは、ダイエットコーラだったことを思い出した。  そして、それにはほとんど口をつけていなかったことも。 「目が覚めた? ……な。あんたもちゃんと自分で働いてお金稼いでみ。自分で稼いでない金で店に来たら、あんたのなんて噛みちぎってやるから。んじゃ」  そう言って席を立った彼女は、律儀にも自分のぶんのトレーはきっちり自分で持って行ったようだ。僕の伸びきった前髪から、彼女がぶちまけたコーラが雫になって滴っていた。そして、すでにびしょ濡れになった、最近飛び出てばかりの腹の段々畑に落ちてゆく。あえてダイエットコーラを選んだのも、こうすることが目的で選んだのだとすれば、かなりデキる女だ。  確かに、ろくに仕事もしていない僕が、彼女に対して偉そうな口をきく権利など、もともとなかったのだろう。いつも公募に送るたび、落っこちてばかり。親に「小説家になる」と言い続けて、もう何年になるだろうか。芽吹くどころか、種もなかったんじゃないかと思うほどの時間が経ってしまった。  小説書く前に履歴書を書け。  彼女は、今日はそれだけが言いたくて呼び出したに違いなかった。  目覚ましにしちゃ少しばかり、気持ち悪い。  でも、不思議と気分は悪くないかも。    快晴の日のあたたかな陽射しに照らされ、僕はコーラでベタベタになりながら、帰りに近所のコンビニで履歴書を買うことを決めたのだった。
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