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傷の癒し方
第一話 発動
どこからか、子供のすすり泣く声がした。ふと視線を動かすと、小さな子供が膝を抱えて寂しいと泣いていた。その子供を見て彼はすぐ理解した。あれは自分だ。友達が出来なくて寂しいと泣いた、かつての自分だ。だから彼は知っている。これは自分の夢だということ。…何も心配はいらないということ。彼は口の端をすこし挙げた。遠くからぱたぱたと足音が聞こえる。ほら、来た。夢の終わりを見なくても、ハッピーエンドはもう知っている。
うだるような暑い日のこと、夏休み真っ只中の今日、正護は幼馴染である美佳と一緒に買い物に来ていた。二人の付き合いは保育園時代からであり、今では同じ鶴状高校の男子バスケ部の選手とマネージャーでもある。二人は、部活の合宿準備のため、色々な店がそろっているショッピングモールに来ていた。
「えっとねえ、新しいパジャマでしょー、アメニティ関係でしょー、あと、最終日用の花火!いっぱい買うものがあるね」
正護はぴょこぴょこ跳ねる美佳の黒いポニーテールを見下ろした。正護の身長が高いせいか、平均的な美佳でさえも随分小さく見える。人のことは言えないが美佳もなかなかの童顔なので大変幼く見えてしまう。正護が失礼なことを考えているのを知らずに、美佳は買いものリストを読み上げながら、顔をほころばせる。
「正君、次はドラッグストアに行こうよ」
楽しそうな美佳を、正護はいつものことと受け流し、ドラッグストアへと急いだ。
ショッピングモールは混んでいて、正護にとって気分のいいものではない。ましてや人が多い場所ではいつ巻き込まれてもおかしくはないのだから。
「えー、待ってよう、正君。歩くの早い!」
美佳の声を聞いて、正護は少し歩を緩めた。平均より少し背の高い正護の隣に美佳が並ぶ。二人にとっていつも通りの光景だった。
「せっかくだからさあ、ここでご飯食べていこうよ。歩き疲れちゃったし、休憩もかねて」
お昼時をすぎた頃、二人は買い物を終わらせフードコートに来ていた。買い物を優先してため、お昼ご飯をまだ食べていなかった。正護は早く帰りたかったものの、健全な男子高校生のお腹は空腹を訴えていた。
「じゃ、さっさと食べて帰ろう」
「いえーい!あたしビビンバー」
美佳は意気揚々とかけていく。正護はあたりを見回した。昼時は過ぎたものの、結構な人が座っている。空いた席もなくはないのだが、そのそばでは男女が口論していた。皆、その二人を避けて座っているのだろう。正護は渋々、その空いている席に座った。これが彼の一番の油断だったのだろう。正護を見つけた美佳は彼のそばに駆け寄り、入れ違いに正護は注文に向かった。どの店にしようかと歩きながら考えていたとき、後ろからいきなり怒声が響いた。その方向はそう、先ほどの男女のほうだ。後ろを振り返ると、先ほどの男の両腕が大きなはさみになっていた。
正護は真っ先に、逃げよう、と思った。とっさのことであるが、彼の脳はこれを正しく理解している。これは、「トラウマの暴走」だ。普通の高校生である彼には何もできない。無事に逃げることしか出来ない。
「美佳!逃げるぞ!」
正護の足は一歩も動かなかった。
怖い、逃げたい、しかし、美佳をおいてはいけない。
でも恐怖に立ち向かえるほど強くなかった。
美佳、早く、早く来い。
正護は一心に願ったが美佳はそうしなかった。正護は美佳しか見えていなかったが、美佳には、今男に襲われそうになっている女が見えていた。
美佳は男に向かって走り出した。いや、正確には女のほうだったのかもしれない。正護には大差がなかった。
ああ、くそ。正護は心のなかで悪態をつく。正護はやっと美佳を追いかけた。
しかし、遅かった。正護にはそれがスローモーションのように見えた。
走ってきた美佳に気付いた男は、ハエを叩くかのごとく美佳に鋏を振り下ろした。
縦一文字に血が吹き出る。噴出した血の一粒、一粒がくっきりとみえた気がしたし、倒れ行く優佳を現実だと思えなかった。これはまるで、映画なんじゃないか、と。
そんな風に現実逃避をしたのも、瞬き1つ分のことで、彼はきちんと傷ついた。
あいつのせいで、おれのせいで
ゆるさない、ゆるせない
血がマグマのようにわき上がり、体中が熱くなった。
視界が赤く染まる。抑えきれない怒りが正護の中にあふれかえっている。
正護は何も考えず走った。ただ走っただけなのに体が軽くなっていくようだ。
右のこぶしを振りかぶる。男は正護に気付いたがもう遅かった。
「どりゃああああああああああ」
正護は喧嘩などしたことがなかったが、決まったと思った。
男の左頬に入ったこぶしによって男は数十メートルほどとび、壁にぶつかった。今の衝撃で男は気絶したようだが、正護の気は収まらなかった。もう一発いれよう、正護はゆらりゆらりと男に近づいたが、急に襟を思いっきり引っ張られて止まった。
「ぐえっ」
「はあい、ストップ。それ以上やると流石に死んじゃうよ。あとはおにーさんに任せてあの子みにいったら」
振り向くと、30代ほどの見知らぬ男が立っていた。その男は美佳のほうを指している。
「美佳!」
正気に戻ったすぐさま正護は美佳に駆けだした。そばにはレスキュー隊員がおり、美佳の止血を行っている。
「美佳は、美佳は大丈夫なんですか⁉」
「出血は多いけどね。傷は浅いよ。油断はできないけど、命に別状はない。君、この子の知り合い?」
「はい、そうです」
「付き添いをお願いしても大丈夫かい?」
「もちろん」
正護が救急車に乗り込もうとすると先ほどの男が向かってきた。
「だめだめ~。君だって被害者なんだから。君は僕と来てもらうよ」
正護は男の方に振り向いた。
「なんでですか」
正護は美佳に付き添いたかったからか、少し言い方がきつくなってしまった。
「だって、君もトラウマが発生したでしょ。だから、ね」
正護は言われて気が付いた。体が軽くなったのは、トラウマのせいだと。
「…分かりました」
正護は渋々男についていったが、美佳のことで後ろ髪引かれていた。それを見かねたのか救急隊のひとが、美佳に電話させるといってくれた。
男に案内されるまま、正護は車にのった。
「そうだ。名前を言い忘れていたね。僕の名前は島田 康貴。君は?」
「桐谷正護です」
「正護君か。良い名前だね。これからよろしく」
「は、はい」
島田はにこりとしたが、正護には彼の真意は見抜けなかった。
車が走り出す。彼の歯車が動き出した。
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