弐「ハイドライト」

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「あれ、圏外だ」  気付いた時には商店街の奥深い場所に居て、電波が届いていない。薄暗い裏道に顔を上げれば、春の陽気には程遠いぬるりと湿った空気が周囲を漂っている。  迷ったかな、と引き返そうとした瞬間、背後で小さく妖気めいた寒気が背筋を走った。  振り向けば、そこには場違いに黒い背広を着た男が立っている。その表情には色はなく、底なしに黒く深い、光のない眼が俺達を見据えていた。 「…………っ!」  タブレットを懐に仕舞い、鞄から錫杖を取り出す。ギミックによって短くして収納していたそれを一気に伸ばしきり、地面について音を鳴らす。  しゃりん、と響く音に漂っている怪しげな空気が周囲から弾かれる。その感覚に男は僅かにひるんだように後退った。 「緑さん?」 「ごめん、ちょっと待ってて」  鞄を地面に落として地面を蹴った。五歩で間合いを詰めていき、右手で錫杖を真横に薙ぎ払う。インパクトの瞬間に霊力を纏わせた攻撃は、しかし右手で止められた。  それに意識を囚われることなく、流れのままで左手で霊符を取り出し、男の鳩尾に貼り付けた。その符には墨で紋様が描かれている。  それを確認して飛び退り、印を切って霊力を動かした。 「討霊式・雷砕!」  白い光が弾け、辺りに轟音が拡がる。その残響が消えないうちにその場を離れようとして振り返ると、もう一人の男が虚ろに俺を見据えていた。  マズい、と直感してから、錫杖を仕舞って鞄を拾い上げ、樹鳴の手を引いて逃げ出す。 「あの、緑さん。この辺りって、寒くないですか」 「そりゃあ、こんな環境なら当たり前なんじゃあ」  そうじゃなくて、と樹鳴は俺の後ろの暗がりを見る。 「人の熱を感じないんですよ。こんな大きな街の真ん中で、無人の空間ってできるんですかね」  言われてみれば、さっきから人の気配が感じられない。俺のような術師であれば、人の持つ霊力がセンサーに引っ掛かるはずなのに、この周辺には、それを見つけることができなかった。 「…………後回しだ、今は」  思考を半ば無理矢理に打ち切って、道の前後に湧き出した死徒の対処にリソースを割り当てる。霊力を殆ど持たない死徒には生きた人間のような攻撃は不可能だ。  霊力そのものは生体組織、もっと言うなら有機物に干渉する故に、霊能や呪術は対人戦で活きてくる。  除霊術は霊的なものを対象にする特性から、人の死体を相手取ることはほぼないのだが、それでも全く経験がないわけではなかった。 「こういうのは、織戸(はとりべ)ちゃんのが得意だったんだけどな」  地元で活動していた霊能者。彼女が持っていた「終息形式(アンリアルリフューズ)」が、もっとも意味があるものだったはずだ。 「樹鳴、動くなよ」 「逃げないんですか」  逃げるのはこの場合には得策じゃあない。地理に疎い俺が闇雲に逃げ回ったところで、追い詰められるのは目に見えている。  死徒の目的がなんなのかは知らないけれど、ここは殲滅しか取れる手はない。 「剥霊式・鈴鳴!」  錫杖を地面に突き立て、周囲に霊力を放出する。音に乗せて弾ける白い光が、薄暗い空間を一瞬だけ白く塗り潰した。 「うみゃっ!」  樹鳴が苦しげに呻いて耳を塞ぐ。  それには意識を向けずに、衝撃に弾き飛ばされた死徒を確認しつつ、それでも向かってくるそれを霊符の攻撃で応じる。  幾重にも爆発音が響くその中で、土煙の奥で蒼く眼を光らせる誰かの姿を見つけたような気がした。  蹲っている樹鳴を左腕で抱え、荷物を回収して隙間を縫うように包囲から脱出する。両腕が塞がってしまっていては何もできないので、来た道を素直に戻るしかないのだった。
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