壱「ヴァリアントグリーン」

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「お待たせしました」  樹鳴は眠っていたときに着ていたパジャマめいた服から空色のスウェットに着替えて部屋を出てきた。  待っている間は当直の医師やら看護師やらがひっきりなしに出入りをしていたので、ずっとわーわーと騒がしかった。それが一段落すれば、元の静けさに戻っていたのだが、もともと小児科は騒がしい場所だと知っていた。  静かだと言っても押し詰められた静謐とは言い難い。棟内に学校施設も設置されていて、そこからは賑やかな声が漏れ出ていたのだった。  赤みがかった黄土色(サンド)の髪をサイドに纏めている。数年間眠っていたにしては短いと思っていたが、単に昏睡していた時には髪の伸びも止まっていただけのことらしい。  考えてみれば樹鳴の体躯は十歳そこそこであまりに小さく、一見して十四歳には見えないのだ。 「じゃ、行こうか」  萌崎君はさっさと歩いていく。  これからすぐに学校に戻って荷物を取りに行かなければならないし、それから樹鳴を借りているアパートに連れて行かなくてはならない。  面倒だとは思わないけれど、高校生活初日からイベントを詰め込みすぎているように思えた。 「……………………」  隣を歩く樹鳴がちょこちょこと近くに寄ってくる。  痩躯を震わせてついてくるのを視ていると、今まで見たことのないタイプの人間だと思えてくる。俺の周りにいる人間は、皆どこかしらしたたかな一面を持っていて、それを前面に出してくるタイプだったけれど、樹鳴にはそれが感じられない。  弱いのではなく。 「……………………」  見上げる眼はやはり焦点が合っていない。ぼんやりと俺を眺めているような感覚だった。  手を握られる。ほとんど脂肪のない細く弱々しい感触には、覚えがあった。先月まで過ごしていた影守町での記憶が、脳裏をよぎる。  振り払うことはできなかった。  病院を出たところで幹子さんと別れる。萌崎君と何かを話していたようで、色々とやることがあるのだろう。それでも最後に樹鳴を強く抱きしめていた辺り、やっぱり親なんだなあと思った。  それは俺自身も経験のあることだったから、他人事には思えなかったんだ。  しばらく歩いて学校に戻ってくると、校庭に居た生徒に何事かというような奇異の視線を向けられた。そりゃあ、そうなるだろうけど。  玄関に上がろうとしたときに左腕を引っ張られた。  視線を向けると樹鳴がへたり込んでいる。顔が赤く、息が上がっている。衰えた体力で十分も歩き続ける方が無茶だと知っているけれど、痩せ我慢などされると困るのだ。 「よっと」 「うえ!?」  両腕で樹鳴の体躯を抱え上げる。予想通りに軽い。小さな女の子を抱き上げるのは経験がないことでもないから、特にどうとも思わなかった。  肩の上に頭を乗せていると、樹鳴の呼吸が首筋を撫でていく。  五木原高校は靴を履き替えないので、そのまま廊下を進んでいく。  部室(事務室?)に戻って樹鳴を椅子に座らせる。顔は赤いままだったけれど、呼吸は整っていた。 「よし」  萌崎君はデスクのPCを操作して、何かの作業を始めた。それがなんなのかは判らないし、知ろうとも思わない。 「緑君、こっち来てくれる?」  言われるままに近寄っていく。右手を出すように言われた。  その掌に分厚い何かが入った封筒を乗せられた。 「……何? これ」 「今回の報酬だよ。通常案件じゃないから、割高になってるけど」  封筒の中を少しだけ取り出してみた。 「ま、万札……」  いいんだろうか。こんなに貰ってしまって。  というより、この報酬に対する仕事をした記憶が無いのだが。 「まあ、普段は命を懸けたアルバイトだからね。価格帯はそれと同じようなものだよ」  問おうか、と萌崎君は机に肘を載せて手を組み、面白そうに俺を見上げる。 「改めて、君は請負人をやってみないかい?」 「……………………」  あらかじめ外堀を埋めてきたような、そんな感覚があった。  そうであることを知ってしまえば、俺みたいな人間には断りようがないことを、萌崎君は知っていたのだろうか。 「ははは」  笑う。俺は、拒絶のできない人間だと、どうせ見抜かれているのだ。 「いいよ。やることなくて暇だからね」 「正直だね。好感が持てるよ」 「ていうか、バイト探す手間が省けたからさ」 「あはは。なんか君のような子が普通のバイトやってる絵面もシュールだけどね」  それはどういう意味なんだろう。  考えるのはやめておいた。それで、と話を切り替える。 「これから何をすればいいんだ? 常に依頼待ちなのか?」  萌崎君は少し考えるようにしてから、まあそうだね、と肯んじた。 「とは言っても、依頼自体はいくつか重なってるんだけどね。流石に個人で対応するのにも限度があるからさ」  趣味でやってても、好奇心だけで続けられはしないからとよくわからないことを付け足して、その間にプリントアウトしていた依頼書を見せてくる。  萌崎君自身は高校に入ると同時にこの稼業を始めたらしい。つまりキャリアとしては丁度二年間ということになる。  趣味とか、道楽とか。そんなものなのかな。萌崎家の人間が金に困ることなんかなさそうだし。 「何か変なこと考えてないかい」 「別に。依頼の内容見てると、探偵っぽいことやってるね」 「まあ、『アカシックレコード』はそういうことに使うのが正解に近いからね」  チート過ぎる探偵だった。推理もへったくれもありゃしない。 「全部見通せると、トリックもロジックも陳腐だよねえ」  知らねえよ。  よほどそう言ってしまいたかったけれど、呑み込んだ。 「それやると捕まるんだけどね。『檻』のルールに違反するから」  どっちかって言うとそれは「最終定理(ナッシングイフ)」の仕事だからと言い切る。知らない名前を出されても、とは思うけど。 『檻』は世界最強クラスの異能者を縛り上げた組織であるとは聞いていたけれど、その中で誰が所属しているのかといった情報は徹底的に秘匿されている。国家的な組織でさえその情報を得ることが少ないのだから、筋金入りだ。  そんな希少な人材がこんな所でよくわからんことをしてるのは、本当に意味が解らない。 「今度から報酬は口座に振り込んでおくよ。君の口座は既に特定しているし」 「犯罪の一歩手前じゃねえか」  個人情報の保護なんてものが通用しない相手は恐ろしいの一言しかない。
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