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「本題は一つだけなんだ」
「ん?」
そう言うと萌崎君はおもむろに立ち上がり、机から紙を取り出した。見てみれば、それは以前に渡された契約書だ。俺の名前と印鑑が捺してある、そのままのそれを、手渡す。
「これから、ここに居れば今回の件と同じような事件にいくつも遭遇することになるだろう。それだけは確実に言えることだけれど、しかし。
それを以て言うならば、これから先に君の生命の安全を保証できないってことだ。緑君だけでなく、樹鳴ちゃんも。
だから改めて問うよ。綱取緑君、僕と一緒に、請負人として活動をする気はあるかな?」
その気がなければ、今ここでこれを破り捨てろと言いたいらしい。
「……はっ!」
笑って、手にした紙をデスクに戻した。
「今更な話だろ。ここまで深く関わらせておいて、引き返すことなんかできるかよ」
強気に返す。萌崎君は驚いたように軽く瞠目する。
しかしそれを混ぜ返すことはなく、右手を出してきた。
ひひ、と悪戯っぽく笑い、その手を握る。その上に樹鳴の小さな手が乗っかった。
「活きる理由が必要なんです、今のぼくには。それを教えてくれるなら、あなたに協力しますよ」
「そういうことだ。よろしくな、渦錬」
渦錬は、それに対して安堵したように息を漏らすのだった。
……本当は、その提案を断ることも出来た。それをしなかったのは、損得の勘定よりも心底の感情を優先したからに過ぎない。
ここで彼に背を向けていたなら、ここから先に待ち受けている災難や悲劇は一時的に回避することができたかも知れない。しかしそんなものは、本当は回避し続けることのできない運命なのだと知っていた。
運命の絶対収斂。
始まったものは必ず終わる。
時間稼ぎができないだけの話で、渦錬も俺が承諾することは確信していたはずだ。
そんなことを考えるまでもなく、俺は向かい合った相手を無碍に扱うことが出来ないだけというか、そういう甘さがあるだけのようにも思えるが、さて。
緑と樹鳴が部屋を出ていった後、渦錬は一人でぼんやりと虚空を見つめていた。その目は青色に輝き、どこか遠くを眺めている。
「全ての因果は一つに収斂する……そんな説は、一体誰が提唱したのだったか」
少なくとも、それは数年以内の話ではない。例えば昨年に起こった、世界そのものを巻き込んだ大戦争の最中に起こったことにしても。
十年前に起こったアメリカとデュオナイトの戦争の決着の経緯にしても。
五十年前の十和田火山の噴火にしても。
二百年前のオーストラリアで起こった黒血の嵐の発端となったブラッディウェンズデイを巡る経緯にしても。
四百年前の名の無い宗教と大瀧家の小競り合いにしても。
「全ての事件は起こるべくして起こっている。その出来事が回避できた事例は一つとして存在しない」
渦錬の眼は歴史ではなく、世界の情報を読み取ることが出来る。それは、どのような世界が存在するかといった基本的な情報から、選択によって分岐するパラレルワールドまで。
その世界は無限に分岐し、宇宙全体の像を掴むことは誰にも出来ていない。その中で、渦錬は今自分がいるこの世界の情報を拾い上げている。
その歴史を探っていくと、どこかで回避することの出来ない特殊なイベントが発生している。
その内の複数個が、何故か緑の周りで発生すると思われるのだ。
「とはいえ、緑君の周囲情報はぼやけていて読めないのだけれど」
その読みにくい未来の中で、鮮明に見て取れるシーンがあった。
血に塗れた緑の姿を自分は後ろから見ている。声をかければ、彼は激高したように掴みかかってきた。
『お前、こうなることを知っていたんだな!?』
『……そうだね、ずっと前から読めていたよ、この状況だけはね』
『何で、言わなかった。こうなることが、解っていながら』
『意味が無いからだよ。この未来は定められていただけ。ずっと前から言ってきたはずだよ、この仕事をする以上、こういうことを覚悟しなければならないって』
『それでも』
項垂れ、力なく声を漏らす緑を、渦錬はただ見下ろしていた。
『それでも、どこかにあったはずだ。この未来を回避する方法が―――』
『そうかも知れないね。この世界は失敗だったってことだ。君がそれを認めないのなら、それでいい。それでも世界は進むんだ』
『ざけんな……こんなこと、認めてたまるか』
『……………………』
ふっと意識を現実に戻した。アカシックレコードは発動中意識が自分から離れていくので、こまめに休憩を取らなければ戻ってこれなくなってしまいかねない。
「この未来は既に二百パターン以上試してきたけれど、今回はどうなるんだろうな」
運命すらねじ曲げるのがイレギュラーたる所以なら、或いは―――そう思ってもそれは一毫にも満たないギャンブルだ。それに克つためには、奇跡などに縋ってはならない。
出来ることをしようと、渦錬は立ち上がった。
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