傷の癒し方 完

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9 傷の癒し方  その日は、朝から何となく変だった。正護はいつも通り学校に行って、いつも通り授業を受けていたが、何だか物足りないような気がしてならない。確証を得たのは、お昼休みになってからである。 「桐谷君いる?少し聞きたいことがあるんだけど」 数学の先生に、正護が名指しで呼ばれた。その先生は正護の担任ではなく、授業を受ける以外の接点もない。珍しい光景に、教室が少しざわめいた。 「はい、なんでしょうか」 違和感がありながらも、正護は先生の方に向かっていく。  ここでは話にくいからと、正護は使われていない空教室に連れてこられた。景色が寂しいせいか、やけに寒く感じる。正護は早く話を終わらせて教室に戻りたかった。 「ごめんね、お昼休みなのに呼び出しちゃって」 「大丈夫です。…なにかあったんですか?」 正護は何となく不安になって、つい話をせかしてしまう。 「今日、浜中さんからなにか連絡きてない?実は、浜中さん学校に来ていなくて。おうちに連絡しても学校に行ったっていうし。桐谷君は何か知らない?」 浜中の名前を聞いて正護は思い出した。彼女は美佳の担任である。  ただ、正護は美佳の状況が心配だった。 「美佳、あ、ええと、浜中から特に連絡はないですけど」 正護は、自分の体から体温が抜けていくような感じがした。自分が感じていた違和感はこれだった。 美佳がいない。 美佳と正護はクラスも違うし、四六時中一緒にいるような関係ではない。でも全く会わないということはめったになかった。どうして、なんで、ぐるぐると頭のなかで疑問が飛び交っている。ふと、1人の顔が浮かび上がった。 式見 栄治 絶対とは言えない。ただ、あの男ならやりかねない。 「そう…。浜中さんから連絡あったら教えてね」  先生は困った顔をして正護に頼んだ。 「分かりました」 式見のことは黙っていた。あくまで1つの可能性であるし、あまり人に言いたくないことでもある。  先生が教室から出ていく。正護はこっそり携帯を使うために、人気のないところへ向かった。  正護は鶴状高校の屋上にやってきた。春などは人がいるが、今の時期は寒く誰もいない。 正護は念のため周りを見渡してから、島田に電話をかけた。 『もしもし、島田です』 「お疲れ様です。桐谷です。島田さん、今お時間大丈夫ですか」 寒さのせいか、緊張のせいか、正護の声はかすれ、手は震えている。 『正護君か~。どうしたの?また巻き込まれた?どこに行けばいい?』  島田の間延びした声に少し安心する。正護は携帯を強く握り、話をつづけた。 「美佳が家にも、学校にもいなくて…。音沙汰もないし、嫌な予感がするんです」 『…式見栄治が関わっているかもね』  島田は正護の言わんとしていることをピシャリと言い当てる。 『美佳ちゃんのこと、警察には言ってるの?』  先ほどの間延びして感じとは違い、島田ははきはきと話し始める。頼もしい島田に、正護は少し泣きそうになった。 「多分まだです」 『じゃ、僕の方で美佳ちゃんのお家に連絡しておくね。警察に届け出た方がいいだろうし。僕の方でも、色々動いてみるよ』  正護を安心させるように、島田が柔らかく告げる。 「ありがとうございます」 『ふふ、当然のことだよ。君たちは僕の可愛い生徒だ。ただ、正護君も気を付けて。式見が美佳ちゃんを誘拐したなら、これで終わりではないと思う。くれぐれも1人になっちゃだめだよ』  島田の口調はまるで、小さな子に言い聞かせるようだった。正護には、島田の心配がくすぐったかった。 「はい、気を付けます」 『うんうん。じゃ、なにかあったら連絡するよ。またね』 「はい、失礼します」 正護は通話を切り電源も落とした。体は冷え切っており、震えながら中に入り急いで教室に向かう。  その背を2人が見つめていた。 美佳のことに気をとられて半分くらい聞いていなかったが、午後の授業をなんとかうけきり、正護は急いで帰路に着く。 足元は今日もとけかけた雪でぐしゃぐしゃになっており、寒いし歩きにくい。早く帰りたくて一心不乱に歩く。すると背中の方から、聞き慣れた声が聞こえた。 「おい」 正護は驚いて振り向く。そこには防寒着を着込んだ徹と瑠梨そして勇気の三人が並んでいた。徹は何だか怒っているようで正護は居心地が悪かった。 「お、お疲れさまです…?」 なんと返せばいいのか分からず、正護はしどろもどろに挨拶をする。 「お疲れ様です」 「お疲れ様です!」 律儀に返してくれたのは、勇気と瑠梨だけで徹は腕組みをしたまま正護をぎりぎりと睨んでいる。 「貴様はばかか!一人になるなと言われたばかりだろう!」  正護は、どうして徹がそのことを知っているのか分からず、目をぱちぱちさせた。徹は呆れたようにため息をつき、携帯を取り出す。 「まず、島田さんに連絡するから、貴様は大人しくしていろ」 「は、はい…」 急な展開についていけず、正護は黙って立つ。徹は島田と話し始めている。 「あはは、許してあげてください。おにいちゃん、あれでも桐谷先輩のこと心配してるんですよ」  現状についていけない正護に気を使ったのか、瑠梨がフォローを入れる。 「おれと五十嵐さん…お兄さんの方、先輩の昼の電話聞いてたんです」 「え?」 「先輩の様子がおかしかったので、こっそり後を追って…。最初はおれだけでしたが、途中から五十嵐さんと合流しました」  人の多い学校とはいえ、尾行に気付かないとは、随分自分も切羽詰まっていたのだと正護は自覚する。 「それと島田さんから連絡来てました!訓練生はまとまっているようにだそうです。桐谷先輩には連絡きてないんですか?」  瑠梨に促され正護が携帯をみると、島田から連絡が来ていた。 「あ、ほんとだ」  メールには、訓練生はまとまっていること、皆桐谷家に泊まること、と書かれている。 「え、皆うちに泊まるの?」 「そうだ」  島田との連絡を終え、徹が会話に混ざる。 「島田さん曰く、浜中の通学路に手袋が落ちていたそうだ。そのため、誘拐の可能性が高い。式見が関わっている場合、次に誰が狙われるか分からない。ただ僕は瑠梨との2人暮らし」 「おれ今日父さん出張でいないです」 「というわけだ。正直不安要素しかない。だから皆まとめて貴様の家に泊まることになった。分かったか?」 「は、はい」 自分の知らないところで事が進んでおり、正護は話についていくのが精いっぱいだった。 「ではまず、僕の家に行って荷物をとってくる。そのあとは香山の家だ」 そういうと徹は雪が跳ねるのも気にせず歩きだした。皆はそのあとを追う。固まって歩いているせいか雪がびちゃびちゃと跳ねるが、なぜかそんなに気にならなかった。     3人も引き連れてぞろぞろと帰ってきた正護を、母親の恵は快く迎えた。特にいつもの横柄な態度を隠した徹をいたく気に入ったようで、こんな先輩がいてくれるなら頼もしいわね、と笑った。しかし、美佳のことを心配しているせいか、少し憔悴した顔だった。  そんな母を気にかけつつ、正護は皆を自分の部屋に案内した。正護にとっては見慣れた自分の部屋だが、4人もいるとなると雰囲気が変わる。いや、正確には狭いというべきだろう。そんな中で皆がベッドや椅子、床に腰をかけると徹が口を開いた。 「さて、まずは式見について聞かせてもらおうか?」 ベッドに腰かけた徹は、腕組みをしながら床に座った正護を睨んだ。 「式見について、ですか」 どこから話せばよいのだろうと、正護は困ったように自分のほほを掻いた。 「式見は、トラウマを利用した犯罪組織のトップだと聞いている。そいつがなぜ『浜中』を狙ったのか。お前に聞けば分かると島田さんが言っていた」 なぜか、と聞かれれば自分のせいだと正護は思う。美佳は自分のせいで巻き込まれてしまった、と。しかし、そんなことは言えなくて正護は視線を落とした。 「式見栄治は、こどもなんですよ」  口を閉ざした正護の代わりに、隣に座っていた勇気が口を開く。 「式見は先輩に構って欲しいんです。しかし、ひどくひねくれてしまって、ちょっかいをかけることしか出来ない。ちょっかいといっても犯罪ですがね」  勇気の発言に、徹と瑠梨は目を丸くした。 「なんだそれは?子供っぽいでは許されんぞ」 徹は勇気の話に眉を顰める。 「でも、お兄ちゃんもそういうとこあるよね。素直に心配したって言えないとことか」 「僕の話はいい!」 椅子に座った瑠梨は、クスクスと徹をからかう。徹も自覚があるのか、むすりと口を尖らせた。 「まあいい。話を戻すぞ。つまり浜中は、式見が桐谷に構ってほしいから誘拐された、と。そういうわけか」 「そうです」 自分のせいだと思っていた正護は、話の方向が自分に優しくて言葉が出なかった。その代りに勇気がトントンと話を進めていく。 「やっかいなやつに好かれたもんだなあ、桐谷」 徹は正護に憐れみを含んだ眼差しを向けた。 「先輩に惹かれる気持ちは分かるんですけどね」 勇気も大きなため息をついたあと、じいっと見つめた。正護は2人から視線を送られ、腰が引ける。 「も~、先輩ったらうらやましいです。香山君にそんな風に言ってもらえるなんて!ね、あたしは香山君だって素敵だと思うよ」 いたたまれない雰囲気を壊したのは瑠梨で、彼女は椅子から降りると勇気の前にしゃがみ込み、勇気の顔を覗き込む。その眼差しはまっすぐで、瑠梨の発言が心からのものだと訴えかける。 「あ、ありがとうございます…」 瑠梨の褒め言葉に、勇気が頬を赤く染めた。過去の勇気にとって、今までの瑠梨の発言は扱いの分からない、恐怖の塊だった。自分なんかが受け取っていいものだと思えなかった。でも今は違う。瑠梨の偽りない好意を、素直に受け取れる。しかし、未だ自分の中でどう処理すればいいか分からなくて、ただお礼をいうことだけしか出来なかった。 それだけでも瑠梨は嬉しくて、目を輝かせた。やっと勇気に自分の言葉が届いたと感じられたから。瑠梨の胸がきゅうと甘く苦しくなる。  徹はそんな微笑ましい情景をみて、僕は認めない認めない、と苦悶している。そしてはっと我に返り、軌道修正を行う。 「とにかく、だ。式見は桐谷に執着して、それに浜中は巻き込まれた、なあ瑠梨」 「なあに?」 「ただやられっぱなし、というわけにいかないよなあ?」 「ふふ、そうね。自分たちが狙われると分かってるんだから、ね」 徹と瑠梨は気持ちが高揚しているようで、イキイキとしている。 「はは、それはいいですね」 この熱に浮かされた空気に酔ったのか、珍しく勇気が声をだして笑った。にやりとした笑みに、瑠梨は見惚れている。 「どういう形かはわかりませんが、式見はおれたちにアプローチをかけてくるはずです」 「それが僕たちにとってのチャンス、ということだな」 「それまでは待つしかないのかなあ」 トントンと、部屋のドアがノックされた。 「はあい」 正護が扉を開ける。そこには恵が立っていた。 「これ、正護あての手紙」 恵から手渡されたのは、真っ白な封筒でへたくそな文字で「桐谷正護様」と書かれている。 「うん、ありがとう」 正護は素直にその手紙を受け取る。一階に降りていく恵を見送ってから部屋に戻る。  切手すら貼っていない手紙に嫌な雰囲気を感じ取る。一秒でも惜しくて、正護は素手で封を切った。 『大切なものは預かった。明日の12時、木の俣山の廃工場で待つ 式見 追伸 警察やブレイブに通報しても無駄だ』  乱雑に書かれた文字をなんとか読む。木の俣山の廃工場は10年以上も前から使われておらず、崩れやすくなっていることから、人がよりつかない場所だ。バス等を使ってここから1時間ほどの場所だ。 正護が顔をあげると、皆が自分を見つめている。きっとばれているんだろうな。諦めたように正護は大きく息を吐く。姿勢を正し皆に向き合った。 「改めて、みなさんにお願いがあります」  正護は手紙の内容を読み上げた。そして最後にこう締めくくる。 「美佳を助けるのを、手伝ってください」 正護は深々と土下座をした。 「顔を上げろ、桐谷」 徹が威厳のある声で告げた。その声に反応し、瑠梨が姿勢を正す。正護はゆっくりと顔を上げた。 「いいか、勘違いするなよ。決して、お前のためじゃない。僕の矜持のために、浜中の救出に向かう。それだけだ」 「お兄ちゃんたら、ほんとに素直じゃないんだから。でも、あたしもやりますよ。だってあたし、浜中先輩大好きですもん」 瑠梨は、にこりと正護に微笑んだ。 「当然、おれも行きます」 勇気も迷うことなく宣言した。 「みんな、ありがとう」  何が起こるか分からない、こんな危険なことに、誰一人嫌な顔をせず、付き合ってくれる。 正護は、自分がどれだけ恵まれているのか噛みしめる。 「先輩方の行いが、返ってきているだけですよ」  正護の気持ちを読んだかのように勇気が告げた。 「五十嵐さん…妹さんの方も言ってたじゃないですか。おれ達は先輩方が好きだから、行くんです。じゃなきゃ、こんな危ないことしませんよ」 「ぼ、僕は違うからな!」  勇気の発言を、徹は慌てて否定した。その慌てっぷりが返って肯定を裏付けていて、正護はくすりと笑った。 「香山君、紛らわしいなら瑠梨でいいよ!」 すかさず自分を売り込んでいく瑠梨はしたたかと言えよう。勇気は返す言葉が見つからず、無視を決めた。  緊張感の欠片もない光景に、1人じゃなくてよかったと正護は安堵した。1人では、不安を抱え込んだまま、美佳を助けにいくことになっただろう。 「香山、お前は廃工場の見取り図がないか調べてくれ。瑠梨、お前は明日いかに学校をさぼるか考えろ。桐谷、お前は僕と一緒に式見の犯行手口について調べるぞ」 徹がそれぞれに指示を出す。正護たちの戦いはもう始まっている。 夜も深くなり、正護達は明日に備え寝ることになった。流石に正護の部屋に4人も寝られず、正護と勇気、徹と瑠梨に別れ、徹たちは客室に泊まった。  正護はベッドに横になり、その隣の床に勇気用の布団が敷かれている。部屋は暗く静かだった。 「香山、ありがとうな」 正護は囁くようにお礼を言った。 「何がですか?」 勇気は礼を言われることに宛てがなかった。明日、美佳の救出に行くことへの礼ならもうもらっている。 「美佳が連れ去られた理由、オレが悪く言われないように説明してくれたじゃん」 そう言われて勇気は、やっと思い出す。 「そのことですか。別にお礼を言われることではないですよ。ほんとのことですから」  少し付け足すなら、勇気は徹たちにどう説明しようかずっと考えていた。正護はきっと、自分を責めるだろうと思っていたから、その思考をどうにか変えたかった。 「いいじゃんか、お礼くらい言ったって。香山がああ言ってくれなかったら、オレはきっと自分のこと責めてたよ」  正護は子供のよう小さく拗ねた。 「それは、言った甲斐がありますね」  勇気は自分が口下手な自覚はある。ただ、自分のために泣いてくれた先輩は救われるなら、百でも千でも言葉を紡いだってかまわなかった。 「ほんとのことだからな」 正護は眠くなってきたのか、少し舌ったらずな口調になった。 「先輩が嘘つくなんて思ってませんよ」 勇気も思考がふわふわとしてきて、上手く頭が回らなくなってきた。 「そっか…」 納得したのか、眠くて頭が働かないのか判断しかねるが、正護がぽつりと言った。少しするとすうすうと寝息が聞こえてくる。 「おやすみなさい」 正護の寝息を子守歌に、勇気も眠りについた。 「あれが廃工場か…」  正護達は木の陰に隠れて廃工場を観察する。勇気の下調べの通り一階建ての工場のようだ。また、建物の前には車が10数台見える。 「結構な人数を連れてきているようだな…」 「では、プランBですね」 「ラジャー!」  各々の動きを確認すると、まず正護と勇気が動き出した。工場は事務所も兼ねているようで、奥には事務室がある。式見はそこにいる可能性が高いというのが徹の考えだ。そして、周りには人がいないだろうというのが、正護の予測である。式見が正護を狙っているのなら、だれにも邪魔されたくないだろうから、と。  したがって正護達は作戦を2つ立てた。1つ目は仲間がいなそうな場合。そのときは、正護のみが乗り込み、他は待機とする。2つ目は仲間がいそうな場合。現在はこれに従っている。まず、正護は式見のいそうな事務室に乗り込む。勇気は、仲間がいるであろう工場の作業場に乗り込み、事務室へ続くドアを守る。徹と瑠梨は勇気のフォローを行う。人数の少ない正護達が行える、精いっぱいの策だった。  正護も勇気も玄関からは入らなかった。正護は事務室の、勇気はドアに近いところの窓をぶち破る。老朽化していたのが幸いして、2人とも楽に入れた。  勇気が工場に入ると、式見の手下だと思われる、数十人の柄の悪い男に睨まれる。 「おいてめえ何もんだ!」  1人の男が勇気に怒鳴る。勇気は意に介さず、ドアへとかけていく。  勇気の態度が気に食わなかったのか、先ほどの男が殴りかかった。勇気は難なく避け、ドアへとたどり着く。 「突然入ってきてすみません。おれは、皆さんがここを通らなければ特になにもしませんので」 勇気はドアに背を向け言い放つ。埃くさい薄暗い工場の中で、多くの男達に睨まれているにも関わらず、勇気は坦々としている。 「なめやがってくそが!」 先ほどの男が再び勇気に襲い掛かる。勇気はカウンターを食らわせ、男は地に倒れた。 「交渉決裂、ですかね」 仲間がやられたのを皮切りに、手下たちは勇気に襲い掛かる。その様子を徹たちは玄関から覗き見ていた。 「では、僕たちもいくとしようか。準備はいいな、瑠梨」 「任せてお兄ちゃん」 瑠梨の両手には爆竹とチャッカマンが握られている。2人は真っ向勝負では分が悪いため、瑠梨が陽動を行い、徹がその隙を突くという作戦である。  瑠梨が爆竹に火をつけ、敵陣に投げ入れる。耳をつんざくような爆音と、目に刺さるようなまぶしい閃光で、何人かは動きを止めた。徹はそれを見逃さず、首に手刀を入れる。1人2人倒したら、工場の機械に隠れた。  手下達は何が起きたのか分からず、混乱しながら辺りを見まわす。瑠梨は再び爆竹を投げ、徹がその隙を突く。  2-3回繰り返したところで、手下も絡繰りに気が付いた。後ろから来ていた徹の手刀を受け止める。  徹は内心舌打ちをする。最低限瑠梨だけは逃がさなければ。急いで瑠梨に駆け寄ろうとするが、すでに遅かった。 見つかったことは、ちゃんと分かっていた。何に使うのか分からない機械の陰に隠れていた瑠梨を、1人の男が見つけた。その男は怒り狂っていたのに、瑠梨の姿を見ると卑下た笑みを浮かべた。その笑い方がある男に似ていて、瑠梨は恐怖で動けなくなってしまった。  瑠梨と徹の両親は4年前に亡くなっている。死因は交通事故。 瑠梨たちは、両親へのプレゼントとして、2人分の食事券を送った。久しぶりに夫婦水入らずの時間だと、両親の喜ぶ顔を瑠梨は今でも覚えている。浮かれた様子で出かけた両親は、そのまま帰らぬ人となってしまった。 瑠梨たちは、父方の叔父の家で暮らすことになったが、あまりいい顔をされなかった。特に叔母は迷惑そうな顔を隠すこともしなかった。徹はそれをよしとせず、弱みをみせまいと高圧的な態度をとることが増えた。それが一層両者の溝を深めていく。 一番異質だったのは、叔父の瑠梨に対する視線である。叔父は徹のことなぞ気にせず、舐めるような視線で瑠梨のことをずっと見ていた。徹もそれに気づいていたから、なるべく2人にしないように動いていた。しかしずっとというわけにもいかず、4か月前事件が起こった。 瑠梨に対する暴漢未遂である。その日は、徹も叔母もおらず2人きりしかいなかった。瑠梨はなるべく自室にこもっていたが、風呂上がりの気の抜いたときを襲われた。 叔父はニタニタと気持ち悪い笑みを浮かべて、瑠梨を抑え込んだ。瑠梨は叔父に触れられたところが気持ち悪かったし、肌にあたる吐息に悪寒がした。好いてもない男の欲望にあてられ、恐怖で動けなくなった。そのときである。瑠梨がトラウマを発症したのは。瑠梨のトラウマを喰らった叔父は、ニタニタとした笑みからデレデレとしたものに変わった。雰囲気が変わったとはいえ気持ち悪かった瑠梨は、触らないで、と小さくいった。それを聞いた叔父はふらふらと立ち上がり、気を失った。我に返った瑠梨は慌てて自室に閉じこもり、自分で自分を抱きしめながら徹が帰ってくるのを待った。 徹が部屋に帰ってくると否や、瑠梨は徹に抱き着き、全てを話した。徹は激怒し直談判したが、叔父はトラウマのせいか記憶がなく、叔母は取り合ってくれなかった。全く話にならず、徹は一刻も早くこの家を出ていこうと思った。もともと、徹の就職と同時に家を出ていく予定だったが、それすら待てないと転校手続きなどを急いだ。 五十嵐兄妹が珍しいタイミングで転校してきた裏には、このような理由があったのである。  あれから瑠梨は男性が少し苦手だ。どんなに人の好さそうな顔をしていても、叔父のような一面をもつのではないと勘ぐってしまう。ましてや、誰かが瑠梨のトラウマに引っかかる度に、やっぱり、と嫌悪感が増していく。そんなときに出会ったのが勇気だった。自分の魅了にかからず簡単に打ち破った人。自分の理想に出会えて、瑠梨の恐怖心は少しずつ溶けていった。  正護も島田も疑う必要もないほど善人で、いつか綺麗に消えていくのではないかと思っていた。 しかし、目の前の男のせいでそれは間違いだった気付く。男が、恐怖で動けなくなっている瑠梨を面白がっているのが見て取れる。  逃げないといけない、頭では分かっていても体はいうことを聞いてくれなかった。男はかすかに震える瑠梨の腕を掴み、無理矢理立たせた。 「可愛い顔して、物騒なもの持ってんなあ」 男は、瑠梨が持っていたチャッカマンを奪って投げ捨てた。そのまま瑠梨を引っ張り、徹の前に連れていく。男は瑠梨が動かないよう、後ろから抱え込んだ。 「おい、坊主。動くなよ」  徹は、かけ出そうとしていたのをぴたりと止めた。その目には、グラグラと憎悪が燃えている。  一方瑠梨は、ひゅーひゅーとか細い呼吸をしている。手足が恐ろしく冷たかった。 「瑠梨を放せ」  冷たく吐き捨てられた言葉には、怒りが詰まっている。 「てめえ自分の立場分かってんのか!」 徹の手刀を止めた男が、徹の腹に拳をいれた。ごふっ、と徹は苦しそうな声を出したが立ち上がったままだ。 「聞こえなかったのか。そいつを放せと言っている」  再び男が徹を殴る。徹は一度倒れたが、ゆっくりと立ち上がった。 「お兄ちゃん…!」  瑠梨は男から逃げようともがいた。しかし瑠梨では男の力にはかなわない。 「大人しくしろ!」 男が瑠梨を怒鳴る。瑠梨は再び恐怖で固まってしまった。目の奥が熱くなり、目頭に涙がたまる。 「はっ、かっこ悪いなぁ、貴様は」  ぼろぼろなはずの徹は、男を鼻で笑った。もう1人の男が徹を黙らせようと殴りかかるが、ひらりと躱した。 「おい、瑠梨。そんな男に何を怯える必要がある」 徹は先ほどまでとうってかわり、ひらりひらりと男のこぶしを躱す。 「おい、動くなと言っているだろう!」  瑠梨を捕まえている男が慌てたように怒鳴ったが、先ほどよりも恐怖はなかった。 「か弱き者を、力で押さえつけるやつなぞ、弱者にすぎん」  徹の言葉を聞いて、瑠梨ははっとした。 瑠梨は鶴状にきて学んだことがある。本当に強い人は、人に優しくできること。それは先輩である美佳が教えてくれたことだ。美佳は強かった。腕力がということでない、心が。まっすぐ自分の正しいと思う道を突き進む。そのまっすぐさは瑠梨には真似できなかったが、迷わず人のために動ける美佳を尊敬した。美佳はそのまっすぐさゆえに人とぶつかることもあるが、上から押さえつけることはしない。瑠梨にとって美佳は、強さの指針の1人だった。  そんな美佳に比べたら、瑠梨を押さえつけている男など大したことなかった。瑠梨の弱さを嗤い、そのくせすぐ余裕をなくす男など、決して強くなんてなかった。  瑠梨の体から恐怖が抜ける。そして、ふっと体から力も抜いた。 「おいっ!」 男が慌てて瑠梨を立たせようと、下の方を向いた。それに合わせ瑠梨が顔を上げると、男と目が合う。その瞬間、トラウマを発動させる。 「あの男、倒しちゃって」 瑠梨が、徹に殴りかかっている男を指さす。すると男はデレデレとした顔で向かっていく。その隙に、瑠梨と徹は逃げ出した。逃げ出す2人を何人かの手下たちが追う。2人は玄関からでると、徹がトラウマを発動させ瑠梨を抱えて工場の屋根へと飛んだ。  2人を見失った手下たちは散り散りになって2人を探す。その光景をみて徹が獲物をねらうかのように、にやりと笑った。 「ちょっと狩ってくる」  徹がぶわりと羽を広げた。その様子はまるで鷹のようである。 「トラウマ使いすぎちゃだめよ」 瑠梨はいつも通りふふふと笑って徹を見送った。  一方そのころ、勇気は1人の男と向かい合っていた。 「俺は本堂 柔(ほんどう じゅう)。お前の名はなんだ?」 扉に近づこうとしていた手下たちを、勇気はことごとく蹴散らしていた。本堂はそんな勇気を気に入ったのか、手下たちを制し、こいつは俺がやる、といっていた。  手下たちが素直に命令を聞いたところから、本堂は幹部なのだろうと勇気は推測している。身長は2m近く、体の厚みも勇気の1.5倍近く違う。分厚い筋肉で覆われた体は、本堂が強者であることを示している。 「香山、勇気です」 素直に答えた勇気に気をよくしたのか、本堂は口角を上げた。 「勇気、か。良い名前じゃないか。勇気、俺と戦え」  本堂から、ちりちりとした熱い戦意が伝わってくる。その熱さは勇気に伝染した。 「いいですよ」  勇気の腹の中に、ぐわりと熱いものがたまっていく。心臓がどくどくと強く脈打ち、全身が心臓になったようだ。勇気は拳を構え、本堂を睨みつける。 「はは、これは楽しめそうだな。では、始めようか」  本堂の声を合図に、2人は動き出す。  先制を仕掛けたのは勇気で、右の拳を繰り出す。それは本堂に難なく躱され、お返しと言わんばかりに右の拳が振り抜かれた。勇気はそれを左手で受け止めたが、本堂の拳は重くびりびりと痺れた。  勇気はすぐに悟った。本堂は自分より強いと。しかし、その事実はなぜか自分の体温を上げるだけだった。  勇気は負けじと本堂の横腹を蹴りつけた。それは確かに本堂の脇腹にあたったが、本堂は少しバランスを崩しただけだった。  本堂はにぃと笑うと足を大きく上げ打ち下ろす。その踵は勇気の頭に当たり、勇気の意識は揺れた。しかし、勇気はぎりりと唇を噛み、耐えた。拳を握りしめ、本堂のみぞうちをえぐるように殴る。  本堂も流石にこれは聞いたのか、顔を歪ませ勇気と距離をとった。  2人とも息は上がっているが、勇気が劣勢なのは明らかだった。それでも、勇気の目には勝つという強い意志が宿っている。  勇気に、負けることは許されなかった。これは彼が勝手に決めたものだが、揺らぐことはない。自分が負けて傷つけば、正護を始め傷付く人がたくさんいることを勇気は知っている。 今でさえ無傷とは言えないが、勝利しない限りはどんな言い訳も使えない。本堂の勝負を受けたときから、勇気に勝利以外は有り得なかった。 「いいぞ、勇気。久しぶりだ、こんなに楽しいのは」 本堂の目は、興奮のせいかギラギラと輝いている。 「ただ、足りんな。全然足りん。せっかくこんなに実力があるんだ。もっと楽しめばいい」 「たの、しむ?」 本堂の言葉を、勇気はただ繰り返す。 「そうだ!お前は俺と同類だ。強き者との闘いを楽しめるやつだ。しかし、今のお前は義務で戦っている。どうすべきかと考えるから、俺より一つ遅くなる。それでは、お前は俺に勝てない」  本堂は勇気を指さしながら、真面目な顔で語る。 「自覚がないとは言わせんぞ。お前は闘いが好きだ。あの一瞬も気の抜けない時間も、相手に殴られる痛みも、全て飲みこんで愛せる強者だ。であれば、お前の好きなように戦えばいい。この闘いはそういうものだ」  勇気は、本堂の言葉をかみしめる。 ―――おれは、闘いが、好き?  勇気は今までを思い返す。本堂と戦うことが決まってから、腹の中でふつふつと煮えたぎっているような感情も、心臓が強く脈打つ感覚も、全て、全て。 「なるほど、これが…」  「好き」と「楽しい」という感情か。  勇気はずっと自分の中で持て余していた感情に名前をつけた。自覚して受け入れると、体が軽くなった気がした。痛みさえ感じなくなる。  もしかして、おれはずっと闘いが好きだったんだろうか。だから、戦闘訓練がおおかったのかな。  勇気は今になって島田の優しさに気付いた。島田に謝ることが増えたと内心苦笑いする。気持ちを切り替えるため、ふっと息を短く吐き出す。勇気は再び拳を構えた。 「敵に塩を送ったこと、後悔しないでくださいね」  勇気は駆け出し、右の拳を振り上げた。本堂はガードの体勢に入るが、構わず振り下ろす。 びくともしない本堂に、勇気は驚かなかった。すかさず踏み込んだ足をけり上げる。それは顎に入らなかったが、本堂の腹をえぐった。本堂も膝で正護の腹をけり上げた。 「ぐっ…」 勇気は一瞬息が出来なくなる。しかし、その感覚は勇気に高揚をさらに加速させた。 勇気は自分の感覚が変わっていることに気付いた。さっきよりも、本堂の動きの1つ1つが見えるようになった。周りの景色など全く分からないのに、本堂についての情報が多大に入ってくる。体中に痛みが走っているはずなのに、全く感じられず、いつも以上によく動く。 頭は冴えているのに、体のてっぺんからつま先まで、熱がこもっている。  楽しい、と勇気は心から思った。手に汗握るようなこのスリルがたまらなかった。相手に攻撃を当てるのが快感だった。痛みさえ楽しさへのスパイスだった。 2人の闘いは、すさまじい競り合いとなった。殴って殴られ、蹴って蹴り上げ、2人は傷だらけにも関わらず、闘い続ける。  よろりと勇気が体勢を崩し、2人は再び距離をとった。  ぜえはあ、と2人の荒い呼吸が響く。消耗が激しい。これで最後だとお互いが悟った。  先に仕掛けたのは勇気だった。血の付いた右手を力の限りしめ、顎を狙うように脇をしめ構えた。本堂もそれに応えるように、右の拳を振り上げた。  本堂は、勇気の右手が自分の顎に向かってくるのを見た。本堂も拳を振り落とす。相打ちか、そう思った本堂の腕は、勇気の腕に掴まれた。振り上げられると思っていた勇気の右手は、本堂の腕を掴むために使われた。殴るために前のめりになっていた本堂の体重を利用し、勇気は本堂の腕を引いた。同時に自分の体を半転させる。本堂は、自分の体が浮いているのを感じた。そのすぐ後にどしんと重たい音が響き渡る。背中に衝撃が走った本堂は思わず目を瞑った。再び目を開けた本堂の視界には、自分を見下ろす勇気と工場の汚れた天井が入った。  本堂は自分に何が起こったのか分からず、茫然とした。 「殴る蹴るだけが喧嘩じゃないと教わったんすよ」 勇気の声が降ってきて、本堂は自分が投げられたことを理解し、笑い始めた。 「はっはっはっは!これはまさしく一本取られたというやつだな」  本堂はゆっくりと立ち上がり、体についた埃を落とした。そして勇気に向かい合う。 「香山勇気、お前の勝ちだ。…負けるつもりはなかったんだがな」 「では、そこが敗因です。おれは絶対勝つつもりだったので」 勇気は誇らしげに笑う。本堂は勇気の生意気な態度に気を悪くすることなく、豪快に笑った。 「なるほど、そこが勝敗の分け目か!」 闘いを楽しむ本堂と、闘いを楽しみつつも勝利を目指す勇気では、覚悟が、重みが、踏ん張りが違う。本堂は負けたというのに、清々しい気分だった。 「いくつになっても、学ぶことはあるものだな」 ふむ、と本堂は腕を組み考え込んだ。 「では、俺たちはここで引くか」 そういうと本堂は、意識のある部下たちを集め始めた。 「おい、お前ら。ここは撤退するぞ」 「な、なんでっすか、本堂さん!あんなぼろぼろのガキ、おれ達でも」 「やかましい!」 反論する部下に対し、本堂は手刀を食らわせる。 「いい年した大人が、ボロボロのガキに袋叩きにしたって無様なだけだ。なにより、この俺が負けたんだ。それは俺達の負けと同義だろう」  本堂がそういうと、部下たちは渋々と従い始めた。部下たちが動き始めたのを確認している本堂に、勇気が声をかける。 「あなたは、どうして式見といるんですか?」 本堂と式見の性格は全く似ていない。正反対に近い。それなのに、どうして式見の味方をするのか勇気には分からなかった。 本堂は大きくため息をついて、部下たちに視線をやった。その眼差しには慈愛の色が見える。 「俺は戦闘狂だが、他の奴らはろくでなしだ。まともに生きていく方法も知らず、人の幸せを憎み、そのくせ自分の幸せを見つけられないバカどもだ。特にひどいのが栄治だ。俺はそんなバカどもに懐かれているから、見捨てられない」  勇気は部下たちを眺めた。時折罵倒しあいながらも、一生懸命気を失っている仲間を運んでいる。 「こいつらは悪人だし、栄治は極悪人だ。そんなことは知っている。それでも、このバカどもがまともな生き方に近づいて欲しい。だからつい、面倒を見ている」 あらかた撤収し終えたのか、本堂は玄関に向かって進んでいく。 「式見は、置いていくんですか?」 本堂は振り返り勇気をみた。 「あいつのトラウマ知ってるだろう?あいつが俺達のところに帰ってきたければ帰ってくる。帰ってこないということは、まあそういうことなんだろう」 本堂はまた玄関に向き直り歩き始めた。引いてくれるのであれば、大人しくしようと勇気は決めた。勇気はふらつく足を叱咤しながら、事務室に続く扉に寄りかかりながら座りこむ。  扉の向こうからは、喧嘩のような声が聞こえる。喧嘩は対等なもの同士でしか起き得ない、勇気はふとこんな言葉を思い出した。 「先輩はそういう方法を選ぶんですね…」  大丈夫そうだと、勇気は安心する。勇気は扉に寄りかかりながら、正護が出てくるのを待った。  事務室の窓を破り、正護は部屋に転がり込んだ。事務室は想像していたより殺風景で、机や椅子などは撤去されているようだった。部屋の中心には式見、部屋の奥には縄で縛られている美佳がいた。美佳はどうやら誘拐されたときのままのコートやマフラーをしている。美佳は窓を破ってきた正護に驚き、目を見開いている。 「はは、来たか桐谷正護」 式見は正護をみてにやりと歪んだ笑みを見せた。遠くから、何人かの罵声が聞こえてくる。 「どうやら、お仲間を連れてきたようだな。…可哀想に。お前のせいで、この女だけじゃなく、他のやつらも傷つくとはなあ」 式見はにたにたと正護をあざ笑う。式見は、正護が傷つく顔が見たかった。傷ついて、そして、自分の善性を否定する様を見たかった。 「オレの仲間の心配なんていらない。皆強いから」 式見の嘲笑をものともせず、正護は平然と告げた。その顔に強がりなど一切ない。そんな正護の態度が面白くなくて、式見は声を荒げる。 「なに強がってるんだ。どうせ来たとしても、たかが訓練生3人程度だろ。こっちが何十人連れてきていると思っているんだ」  式見は、正護が仲間を連れてきてもいいよう部下を連れてきた。あわよくば、仲間が傷つくのをみてうろたえる正護の顔を見たかったからだ。懸念要素は勇気だが、本堂がいれば問題ないと考えている。 「それでも、だ。こんな危険な場所に一緒にきてくれるような人達だぜ。滅茶苦茶強いに決まってるじゃん。なによりも、心がさ」  正護は右手で左胸を軽くたたく。 「だからそろそろ、お前はオレと向き合え。式見栄治」  正護は式見の濁った眼を、まっすぐ見つめた。正護の大きな黒曜石のような目とあい、式見は身じろぐ。 「何を今さら。お前と向き合ってどうなる」 「どうなるかは分からない。でもやめようぜ、こういう遠まわしなの。オレが嫌いだからって、周りの人間巻き込むなよ」  正護はわざとらしく大きくため息ついた。 「偉そうなこというな!」 式見の叫び声が、びりびりと鼓膜を震わせる。 「これだから偽善者は嫌いだ!恵まれたやつは嫌いだ!僕の不幸も知らず、上から正論を叩きつける!これだから、これだから、人間は嫌いだ」  式見の幼少期は誰から見てもひどいものだった。母親から虐待を受け、ろくな教育さえ受けられなかった。トラウマを発症して、母親から逃げ出し、施設に入ってもまともなコミュニケーションもとれず、いじめられてばかり。誰一人式見を救ってくれる人はおらず、式見は施設も逃げ出した。しかし、待ち受けていたのは小さな子供だけでは生きていけないという現実。式見が生きていくには、トラウマを使って犯罪を行うしかなかった。  それなのに、それなのに世間は、それを間違いだという。誰一人式見を助けなかったくせに、生きていく方法さえ否定する。  当然、式見は人間を嫌った、恨んだ。幸せそうな人間は特に妬ましかった。自分と同じようにトラウマを発症させたかった。心に、深い傷を負わせたかった。 「それでも、色んな人を傷つけんのは間違ってるだろ」 「お前は僕の話を聞いてなかったのか。正論なんていらないって言ってるんだよ」 「そうじゃなくて…。そんなことしたって、お前は幸せになんてなれないだろ」  式見は1つ瞬きをした。そして正護の真意に気付くと、また嗤った。 「ははっ、お優しいなあ偽善者様は。僕にさえ情けをかけようとするのか」  ああ、気持ち悪い。何なのだろう、この男は。偽善にもほどがある。こんなにも自分に害をなした人間さえ、助けようとするのか。  式見は、正護をただの偽善者だと思っていた。しかし、その表現では生ぬるい。 「いかれてるよ、お前」 偽善もここまで来れば善なのかと、式見は自分らしからぬ考えに至る。 「そうでもないと思うけど。オレはそんな立派な人間じゃないからさ」 正護はちらりと美佳を見た。 「幼馴染をおいて逃げようとした。それがトラウマになってる。だから、助けないこと後悔するより、助けたあとに悩んだ方がずっといい。たとえそれで傷付こうと、それを否定する人がいようと」  それが式見に対する、正護の答えだった。 「やっぱりいかれてるよ。後悔するから人を救うだと?人も選ばず?損得勘定へたくそか?」 「そう思ってるなら、思っとけ」 正護は、たくさん悩んで、こういうあり方にたどり着いた。だから、誰に何を言われたって変えるつもりはない。 「お前は、やっぱり、嫌いだ」 出会った時からそうだった。正護を見ているとイライラする。式見は、人間は自分を救わないものと決めている。人間の性根は悪だということを思い知っている。  それなのに、どうしてこいつはこうなんだろう。どうしてこんなにまっすぐなんだろう。 「人間なんてろくなもんじゃない。だからお前もいつかそんなこと言えなくなる」 「いつかのことは、いつか考えればいい。大事なのは今の自分だろ」 「は、綺麗ごと並べて。じゃあ、僕さえも助けるっていうのか」 「式見が望むなら」 単なる皮肉だったはずなのに、正護の眼差しは真剣そのもので、式見は息を飲む。 「馬鹿いうなよ。僕が救われていいわけないだろうが」 式見は今更戻れなかった。たくさんの人を傷つけておいて、幸せになれるなんて思えなかった。それでも、心は痛いままだったから、やっぱり誰かを傷つけずにはいられなかった。  自分の幸福を許せないくせに、他人の幸せは妬ましい。だから誰かを傷つけて、さらに自分を許せなくなる。式見は、自分が負のループにいることが分かっていた。けれど、抜け出せなかった。 「じゃあ、償うことから始めようぜ。お前は悪事働けるくらい頭いいんだから、いろいろできるだろ」  正護はさも当然のように言い切った。 「確かに、お前の罪は消えない。でも考えるべきは、これからどうするか、だろ」 いつか正護が美佳にかけてもらった言葉。この言葉で自分が前を向けたことを正護はまだ覚えている。 「もし、罪悪感でつぶれそうなら、話くらい聞くからさ」 お前を助けるって、そういうことだろ、と正護は付け足した。  式見は何か言おうとしたが、言葉が出なかった。簡単に言ってのける正護の気持ちがさっぱり分からなかった。でも、本心であることを、正護の目が告げていた。 「お前、やっぱりバカだろ」  後悔するとかなにか言っていたが、本当に目の前の男はどこまでいっても善人で、お人よしなのだろう。  式見はすっかり毒気を抜かれてその場に座り込んだ。 「え、大丈夫か?」  急にしゃがみこんだ式見を見て正護が慌てて近寄った。その顔には心配の色が浮かんでいて、式見は笑ってしまった。  人間なんて嫌いだった。自分を助けてはくれなかったし、自分を否定してばかりだったし。本当の善人なんていないと思っていた。  でも、正護を見ていたら少し前向きになれる。正護は簡単にいってくれたが、自分のこれからはきっと辛いものになる。多くの人に恨まれ憎まれ、罪悪感に苛まれる夜だってあるだろう。それでも、それでも、ちゃんと生きてみたい。心のそこからやりたいことをしたい。…幸せになってみたい。  やっと、自分が1人じゃないと思えたから。 「何がおかしいんだよ」 正護は憑き物が落ちたように笑い始めた式見をみて、困ったように笑った。座り込んでいる式見に、すっと手を差し出す。  差し出された手に、式見は目をしばたたかせた。恐る恐るその手をとる。その手が暖かくて、頼もしくて、安心した。 救われるとは、こういうことか。式見は心の中でつぶやいた。  正護の手をかりて式見はゆっくり立ち上がる。2人の言い争いが終わったと判断したのか、美佳が猿轡されたままうーうーとうなった。 「美佳!」 正護は美佳に駆け寄り、拘束をといた。 「もう、体いたあい」 拘束された体は固まってしまったようで、ほぐすように動かした。誘拐されたにもかかわらず、怯えも見せない美佳に、正護はほっとする。 「頼もしいやつだよ、お前は…」 「えへへ。でもあたしまだ怒ってるからね!式見栄治!」 「…なんだよ」 「あたし、正君のこと傷つけたこと許してないから!」  式見は、美佳を誘拐したことを責められると思っていた。しかし、正護のことを言われ、目を見張る。どいつもこいつも他人のことばかりだと、式見は緩く笑った。 「2人とも、ごめんなさい」 式見は深々と頭を下げた。式見とって初めての謝罪だった。 「許すよ、オレとのことは。巻き込んだ人たちへの謝罪は、これから頑張ろうぜ」 正護はにかりと太陽のように笑った。 「あたしは正君と一緒、かな」 正君が許しちゃったしねえ、と美佳が笑みとともに小さくこぼす。  遠くでパトカーの音が聞こえる。正護は式見をちらりとみた。 「今更、逃げない」 式見が小さく、けれどしっかり告げた。 「知ってる」 そのあとすぐに警察がやってきて、式見を連行した。 こうして、式見による美佳の誘拐事件は幕を閉じた。 廃工場から帰ってきた正護達四人はブレイブの基地にて、正座で島田に説教されていた。 「もう!どうして君たちは無茶ばかりするのかな!」  島田は正護たちが家にも学校にもいないと知ると、皆の居場所を探した。といっても、勇気の父親に許可をとり、もともと勇気のGPS追跡が出来たようなので、特定はたやすいらしい。  しかし島田の沸点は、訓練生の皆が自分の知らぬところで無茶をしたことなので、治まることはないようだ。 「いい?君たちは僕の大切な生徒なの。その生徒たちが、僕の知らないところで犯罪組織と戦っていた僕の気持ちが分かる?みんな傷だらけだしさ」  島田が自分たちが心配していることを分かっているせいか、皆が居心地悪そうにした。 「僕にだって、君たちを大事にさせてよ」 島田が拗ねたように吐き捨てる。 「ごめんなさい」 一番先に頭を下げたのは勇気だった。続けて他の3人が頭を下げる。 「自分たちの気持ちを優先させて、貴方の気持ちを無視しました。ごめんなさい」  勇気の言葉に、島田は言葉を詰まらせた。島田だって、自分が下手に介入すれば式見に逃げられてしまう可能性があるのは分かっていた。それでも、一言でも相談して欲しかった。 「…次はないからね」 「はい。おれはもう二度と、貴方を傷つけることはしません」  勇気は、自分が今まで島田にどれだけ大切にされてきたか、ちゃんと分かっている。だからこれからは、自分が島田を大切にしたかった。  勇気はまっすぐ島田を見つめた。その目に嘘はないと判断し、島田は説教を終えた。 「とにかく、みんな治療を受けてね。あと、勇気は怪我がひどいから、当分戦闘訓練はないよ!」 「それは、残念ですね」 勇気が困ったように笑う。  島田はそんな勇気を見て嬉しそうにしたが、甘やかすわけにいかないと頭を振る。 「そんなこといってもダメ!…怪我が治ったら、いくらでも付き合うからさ」 島田は結局可愛い弟分を甘やかしてしまう。しょうがないじゃないか、と島田は言い訳した。やっと、勇気が気づいてくれたのだから。  緩む頬をそのままにして、島田は皆をブレイブの救護室に案内する。2人のやり取りを正護はにこにこと見守るだけだった。 エピローグ 数日後、正護は式見に会いに行った。 「ふん、僕に何しに来たんだよ」 式見はトラウマカウンセリングを受け、ワープは使えなくなっている。 「用事があるわけじゃないけど、会いに来た。友達ってそういうもんだろ」 正護はへらりと笑ってつげた。 「『喧嘩して傷ついても、謝れば泣いて仲直り』そんなハッピーエンドはまだ嫌いか?」 式見がかつて言ったセリフを、正護はなぞった。  式見はあのとき、確かにその展開には反吐が出そうだった。しかし、自分がその立ち位置にいれば悪くないと思うのだから、現金なものだ。 「反吐がでるほどではないな」  素直になれない式見をみて、正護はくすりと笑う。その様子をみて式見は舌打ちした。 「用がないなら、僕から言うぞ。…警察の相談役になった」 「相談役?」 「ああ。餅は餅屋、っていうことだな。犯罪者の思考は、犯罪者の方が分かる。だから、警察に協力することになった。まあ、贖罪にはちょうどいいだろ」  随分と饒舌な式見はどうやら乗り気なようで、正護は安心した。 「そうだな。式見は向いてそうだ」 式見の罪は重かった。殺害こそしていないが、被害が多すぎて無期懲役となっている。牢屋からでるのは遥か先だ。それでも、そうそうにやりたいことができてよかった、と正護は喜んだ。 「お前、やっぱ、おかしいよ」  辛辣な言葉を吐きながらも、式見の顔は穏やかだった。誰からも恨まれて当然の式見のことなのに、それでも正護は自分のことのように喜んでくれる。 「ひっどいな!」 正護は式見に怒ったふりをする。それが分かっているからか、式見はクスクスと笑うだけだった。 「たっくもう…。そういや、オレ、ブレイブに就職するわ」 式見の話を聞いて、正護は自分の進路を決めたことを思い出した。  自分のしたいことはなにか、答えは簡単にでた。誰かを助けたい。正護に出来ることなんてたかが知れている。それでも、傷付いた人がいるならせめて、そばに寄り添うくらいしたい。それだけでも救われることは、自分の幼馴染が教えてくれた。 「今更だな。お前みたいな善人に向いてる仕事なんて、それくらいだろ」 式見は特に驚きもしなかった。まるで、ずっと前から知っていたように。 「あはは、それもそうだな」 つられて正護も笑う。 「そろそろ、面会時間終わりです」 看守が面会時間の終わりを告げる。 「うお、もうそんな時間か。じゃあな式見。また来るわ」 「ふん、勝手にしろ」 正護は当たり前のように次を約束した。式見にはそれがくすぐったくて、言葉はひねくれたものになった。正護は気にすることなく手を振って部屋を出ていった。   式見は人間の大半は嫌いだ。それに、自分はこれからも傷つくことを知っている。 それでも、正護との「また」があれば、なんとかなると思えるのだ。
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