0人が本棚に入れています
本棚に追加
世界一有名な男、彼は『ポケットを叩くとビスケットが出てくる』そんな力を持っていた。
彼は時折インタビューを求められ、その時に彼が言うセリフはいつも同じだった。
「ビスケットが出てくるなんてちっともすごい力じゃありません、本当に凄いのは人の力です。」
彼は元々小さな食品工場で働く男だった。彼が始めてビスケットを出す力に気が付いたのは休憩時間のこと、気合を入れて立ち上がろうとポケットを叩いた時だった。
数分後彼はポケットの違和感に気がつき手を入れる。中には何も印字の無い一枚のビスケットが剥き身で入っていた。気味悪がった男はそれをゴミ箱に捨て、仕事へと戻った。
数日たち何度かポケットに手が当たることがあり、そのたびに男はポケット内にあるビスケットの存在に気がついた。彼はこのビスケットを砕きアリに与えてみた。アリはビスケットを巣に運んでいった。次にハトに与えてみた、ハトはビスケットを食べると次のビスケットをじっと待った。
無害であると考えた男はビスケットを自身の口に運んだ。何も変哲の無い素朴な味のするビスケットだった。
男はビスケットが無害だと分かると、仕事の休憩中おやつ代わりにビスケットを食べるようになった。たまに欲しがる人がいるのでビスケットを渡した。数ヶ月続くと職場内で彼はビスケットの男として定着した。
欲しがる人が増えたとき困ったことが発生した、ビスケットを気に入った一人がどこで売っているのかと聞いてきたからだ。彼はとっさに自分で作っていると言った、嘘はついていなかった。
数日すると今度はレシピを教えてくれと言われた。彼は数日間待ってほしいと言った後、自宅に帰ってからポケットから出るビスケットの味について研究を始めた。
シンプルな物だったので特殊な素材を使わずともビスケットの味を再現することに成功した。彼はそのレシピを教えた、それでひと段落着くはずだった。
欲しがる人は日を増すごとに増えてポケットを叩いた分では生産が追いつかなくなる。彼は前に作ったレシピを元にビスケットを焼くようになった。たまに数を作りすぎてしまうことがあり、近隣の住人に配ることもあった。
ビスケットは職場だけでなく近隣の住民にも好評だった。おいしいビスケットの話は次第に広まり、ついには自身が働く工場の社長までも知ることとなった。
社長は社外でもビスケットが人気であることを知ると工場内でビスケットを作る許可を出した、ビスケットを元に工場の食品生産物を知ってもらおうとする狙いだったらしい。彼の職場はビスケットを作る環境へと移され彼はそこで熱心にビスケットを作り続けた。
数年経ってもビスケットの人気は衰えを知らず、むしろ広がりを見せていった。他の会社もこぞってビスケットを作ったが彼の作るビスケット以上のものは作られなかった。
彼は社長となり、人々の期待に沿って仕事を進めていくと工場全体がビスケットを生産する工場となっていた。そして彼はビスケットブームの第一人者として有名人となる。
この頃から彼はただ食べるためではなく、人助けのためのビスケットを考え始めた。完成したものは真空パックに入れられたビスケットであったが、これを利益ではなく人助けにと飢餓に苦しむ地域へと配って回るようになった。そのためこのビスケットを知らないものは世界に居ないと言われるほどまで、このビスケットは有名となる。
テレビは時折、『ブームの火付け役』『世界を救うビスケット』『小さな工場から始まった大企業』と称して彼をメディアの場へと出した。その効果でさらに有名になる。企業はもはや安泰だった。
彼がこの世を去った今も、工場はビスケットを世界へ向けて作っている。彼が歳をとり、病のため工場を離れることになったとき、昔からの職場仲間に打ち明けた。
「実は最初に君達が食べたビスケットは、私のポケットを叩いて出てきたものだったんだ。」
男達は顔に刻まれた皺をさらに深く見せるように笑い、しわがれた声で言った。
「それはすごい。ここがもし不思議の国のアリスの世界ならば、君は気が狂っている帽子屋やウミガメのスープよりもよっぽど有名だっただろうね。」
このにこやかな会話の数ヶ月後に彼は死去した。死ぬ間際に言った一言は今でも世界中の人が知っている。
「ビスケットが出てくるなんてちっともすごい力じゃありません、本当に凄いのは人の力です。」
最初のコメントを投稿しよう!