幸せドアノッカー

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「ここは…どこだろう?」 俯き歩いていたら知らない道を歩いていた。 日も傾き始め、知らない場所にぽつんと一人。 意識してしまえば途端に心細くなる。 誰かに道を尋ねるにしても人っ子一人通らない。 僕の前にはただ一本の細い道が続くだけだ。 僕はなぜかこの道を行くしかないってそう思った。 臆病な僕には考えられない行動だった。 てくてく歩いて行くと突き当りに見えるのは一軒の家だった。 『Cafe 幸せな時間』という文字の書かれた木製の看板と猫型のドアノッカー。 Cafeと書かれているんだからここは喫茶店なのだろう。 だけど、こんな人気のない所にぽつんとある喫茶店。 怪しさ大爆発だ。 やはり来た道を戻ろうと踵を返すも、なぜかこの喫茶店の事が気になってしまい再びドアの前に立った。 自分はこのドアノッカーを鳴らさなくてはいけない。 理由は分からないけど、そんな思いに囚われてしまった。 恐るおそる手を伸ばし『コンコン』 鳴らしてしまった。 思っていたよりも大きな音が出てびっくりする。 緊張に心臓がばくばくと音を立てて騒ぎ出す。 やがて『キィー』という小さな音とともに開かれたドアから一人の男性が姿を現した。 花のような…そう花のようなという表現がぴったりと合うそんな男性だった。 自分より明らかに年上であろう男性。 「ようこそいらっしゃいました。『幸せな時間』へ」 男性はにっこりと微笑み中へ入るよう促す。 僕は促されるがまま中へ足を踏み入れた。 途端にふわりと微かに香る優しい香り。 心がざわざわとささめく。 「お好きな席へどうぞ」 改めて店内を見渡してみると、あちこちに花があり、猫が思いおもいの場所でくつろいでいるのが見えた。 あぁさっき香って来たのはこの花の香りか。 少しだけ残念に思う。 目の前に立つこの男性の物であったなら…。 と、考えてすぐに思い直す。 僕はフェロモンを嗅ぎ取る事ができないのだから彼であるはずがない。 笑顔のまま立って僕が座るのを待っている男性に気づき申し訳なく思う。 急いで適当な席に着く事にした。 すると真っ黒な猫が僕の膝に乗り欠伸をした。 猫が膝に乗るなんて事は初めてで、どうしていいのか分からない。 戸惑っているとさっきの男性が、 「怖くないですよ。その子は『黒豆』って言うんですけど、顔に似合わず優しい子なんです。そっと撫でてあげてください」 「くろまめ…」 確かに黒い…。 丸まった姿が大きな黒い豆のように見える。 この猫に『黒豆』という名前があまりにもぴったりで思わずくすりと笑ってしまった。 「ふふ。みなさん笑われるんですよ。僕はその子の名前は黒豆以外ないと思うんですけどね」 「僕も、そう思います」 二人でくすくすと笑い合った。 僕の膝の上の黒豆は自分が笑われていると思ったのか不機嫌そうに長いしっぽをぱたんぱたんと動かしていた。 それが余計に可笑しくて、さっきまでの不安な気持ちはどこかへ行ってしまった。 男性の名前は羽柴緑(はしばみどり)さんというそうだ。 「気軽に『緑さん』って呼んでください」と言われた。 知り合ってすぐのしかも年上の人を下の名前で呼ぶなんて、と思ったが緑さんと特別な関係になったような気がして嬉しかった。 僕は、カフェオレを頼み緑さんとの会話を楽しんだ。 黒豆は相変わらず僕の膝の上だ。 そして、次もまた来る事を約束して家に帰った。 この出来事は、引っ込み思案で人見知りの僕にしては驚くべき事だった。 それに帰りはすんなりと帰る事ができて、道に迷ったのが嘘のようだった。 ベッドに入り薄れゆく意識の中、今日出会ったばかりの年上の男性の事を『僕のお姫様』だったらいいのに、と思った。
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