6 一番素直な日

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6 一番素直な日

 もしあの場に柿崎が現れなかったら、結局自分で切り抜けたと思う。  その後、落ち込まないようにメンタルをコントロールしたはずだ。  自分の機嫌は自分でとる。  怒りだけじゃなくて、悲しみ絶望やりきれなさ、そういったすべて。 (ずっとそうしてきたから、出来ないわけじゃない。だけど、誰かに話したり、少し寄りかからせてもらうだけで、こんなに楽になるんだ……)  内容が内容だけに、誰に話すのも慎重になったはず。  会社の、そういう対応をする部署にも言えたかどうか。  相手を「社会的に殺す」ことに躊躇いがあるし、自分が傷物と思われるのも嫌だ。「二十九歳でその程度で傷物だなんて大袈裟だ」と笑われるのも嫌だ。  傷ついたことを傷ついたと言いたいだけなのに、誰にどうやって話しても後悔しそうで、結局誰にも言えなかったかもしれない。 「会社に対して、断固として言うべきですよ。俺も証言します」  さほど物がないせいで、片付いているように見える部屋の中。  ローテーブルに置いたコーヒーのマグカップを持ちあげて、柿崎は真面目な調子で言った。  その後ろにベッドがあるが、あぐらをかいて背筋はすっと伸ばし、寄りかかることはない。  向かい合いながら、パソコンデスクの椅子に座った千花は、ようやく溜息をついた。 「今日の。つくづく嫌だった。なんで私はあれを許さないといけないんだろう」 「許す必要ないですよ」 「怒るのも、嫌なんだよね。疲れる。嫌な相手に感情を使いたくない」 「わかります。好きでもない相手のことで頭がいっぱいになると、囚われているみたいで悔しい」  声は優しく、距離感が心地よい。  彼が今ここにいてくれて良かった。 (引き留めて良かった)  通常の判断なら、あり得ない選択。  だけど、もし人生で一度、一番素直になる日があるとすれば、今日にしようと決めたから。 「先生、外ではずっとその話題避けていたから、気になってました。消化できてないんだろうなって」  視線が絡む。  心配されているのを痛いほどに感じながら、すぐに目を逸らした。 「そうだね。時間にするとほんの数分もない出来事に、こんなに傷つくんだって自分でもびっくりしてる。信頼とかいろんなものが、崩れちゃった」 「少なくとも先生の責任はゼロです。何も悪くないですよ」 「だといいんだけど……」  嫌味っぽくなりたくないのに、上手い言い回しも出てこない。 (さっきまで、結構笑えていたはずなのに。やっぱりこの件は自分の中では長引きそう……)  思い知りながらも、せめて柿崎にはこれ以上負担はかけたくないと笑ってみせる。 「柿崎くんがいて良かった」  心配かけまいと明るく言ってみたのに、柿崎は眉を寄せて表情をくもらせてしまった。  「無理に笑わなくて大丈夫ですよ。心のバランスの為に、悪いことの後に良いことがあったって、プラスマイナスで考えるのは良いと思いますが。自分責任じゃないマイナスを、自分の資産で補うのは理不尽だというか」  本来なら、損害を与えてきた相手方に請求したいところです、と柿崎は真面目くさった様子で言う。 「そう、だよね。被害者が自分の気持を軽くするためにぱぱっと気晴らしにお金を使うにしても、そこに理不尽さはある……。でも、今日の場合、私は自分の資産は何もマイナスになってないというか、柿崎くんで補わせてもらったわけでして。あのっ、柿崎くんはマイナスになってない? 大丈夫?」  柿崎のマイナスは、誰がどうやって穴埋めするんだろう。  にわかに心配になったが、柿崎は千花から目をそらし、視線をさまよわせながら言った。 「俺は、正直に言えばいま滅茶苦茶プラスですよ。人の不幸を喜ぶ趣味はないし、最低の男に感謝なんか絶対にしませんけど。先生に会えて、話すきっかけもできて、すごくテンション上がっているし」 「そうなの!?」  驚いて聞き返すと、少しだけムッとされる。 「なんでいまびっくりしました? 当然だと思いませんか、俺は先生のことが好きなんです」  手にしていたマグカップを取り落としそうになり、千花はローテーブルにカップを置いた。  心臓がドキドキしているのを感じながら、気づかれませんようにと祈りつつ、願い事を口にする。 「過去形で言ってください。それは、八年前のことだよね」 「今現在こうして再会しているのに、過去の話にする必要がありますか」  理解が遅れた。 「好きなの?」 「この流れでびっくりされると、俺がびっくりしますよ。先生、鈍感にもほどがある……」  柿崎は、ぶつぶつ言いながら瞑目してしまった。 (八年も経ってるのに!?)  八年前、自分はそれほどの何かを、彼にしたのだろうか?  あ然として言葉をかけることもできずにいると、柿崎は額を押さえて目を向けてきた。  頭が痛い、という顔をしていた。 「今すぐにでなくて、構いません。考えてくれませんか」
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