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終業時刻を過ぎて少しして、この間は遅くなったからと社長の計らいで早く帰宅することになった。
急ぎの仕事は特にない。椿もそれに甘えて帰宅することにした。
今日は早く帰れるから夕飯はちょっと手の込んだものにしようかなどと考えながらエレベーターに乗る。ちょうど混み合う時間帯だからか、下の階に降りるごとにエレベーターの密度は増えていった。隅の方に押されながらハンドバッグをぎゅっと抱え込む。
────うわあ、この時間人多いなあ。
一階のロビーに着くと、鮨詰め状態のエレベーターの中から人がなだれ出ていく。ようやく解放された椿は一息ついてエントランスに足を向けた。
「お疲れ様です」
出てきた人の波の中に、人事課の真鍋透がいた。どうやら、同じエレベーターに乗っていたらしい。人が多いせいで全く気が付かなかった。
「真鍋さん、お疲れ様です」
「この時間はすごい人ですね」
「ですね。エレベーターがもっとあればいいんですけど」
「こっちは高層階用ですから、まだマシな方ですよ」
真鍋は特に親しい人物ではないが、入社時のオリエンテーションで世話になった。年は三十代ぐらいで、いつも分厚いべっ甲の眼鏡を掛けている。性格はよく知らないが、気さくな人物だと思う。
「これから帰るところですか?」
「はい。今日は早く終われました」
「そうですか。もしよかったらこれから一緒に食事でもどうですか?」
食事って────。
唐突なことに驚いて思考がフル回転する。
まさかここで真鍋に誘われるとは思わなかった。彼は一体どういうつもりで自分を誘ったのだろう。一体一で食事だろうか。だが────。
『いくらうちの社員でも、簡単に信用するんじゃないぞ。世の中にはいろんな男がいるんだからな』
入社時に父に言われた言葉を思い出す。あの時は父の過保護だと思ったが今は違う。
真鍋の誘いが迷惑なわけではない。だが、特別親しくもない人間といきなり一体一で食事はどうだろう。しかし人事課は仕事で関わることも多いし、断ると角が立たないだろうか。
もだもだしていると余計に断りづらくなるだけだ。さっさと断ってしまえばいいのに新入社員の分際で生意気だろうか、とあれこれ考えてしまう。
「あ、ありがとうございます。えっと────」
「青葉さん」
ナイスタイミング! どこの誰だか知らないが、この状況を救ってくれる人間だったら誰でもいい。とにかく会社の中でややこしい事態だけは避けたい。
心底ホッとした顔を抑え込み、驚いたふうを装って振り返る。しかしそこにいたのは忍だった。
なぜ忍がこのタイミングで自分に声をかけるのだろうか。真鍋も驚いているようだった。
「社長から伝言です。急遽予定が入ったから、申し訳ないけど同行して欲しいそうです」
「え?」
そんなわけない。今日はもう予定がないと言ったのは他でもない社長だ。帰っていいと言ったのも社長だ。
まさか、これは忍の言い訳なのだろうか。以前も彼はこうして自分を助けてくれた。彼の中でその文句は絶対的な力を持つらしい。一体何人社長を召喚するつもりだろう。
だが、これに乗る手はない。
「そ……そうですか。分かりました」
椿はくるりと顔の向きを変え、真鍋に謝った。
「えっと……真鍋さん。申し訳ありません。予定が入ってしまいました……」
「仕方ないですね。じゃあまた今度」
真鍋は不思議そうに忍を見ていたが、納得してくれたのか、軽く頭を下げると去っていった。
残された椿はチラリと忍の方に視線を向ける。忍は無表情だ。また、気まずい空気が流れる。
「あの……忍くん。さっきのって……本当に社長が呼んでたの?」
「嘘に決まってるだろ」
忍は先ほどの嘘を悪いとは思っていないらしい。淡々と答えた。
────分からない。なんで忍くんは私を助けるようなことするの?
「どうして……助けてくれたの?」
気が付いたら尋ねていた。
ずっと不思議に思っていた。忍は自分を避けて、冷たい態度をとってばかりなのに、そういうことをしながらもピンチになったら助けてくれる。久しぶりに会ったばかりの幼なじみを。
もしかしたらそこに何か特別な理由があったりするかも────。
「それは……」
「それは?」
「お前がマヌケだからだ」
「……は?」
忍はなんだか呆れたような顔をして背を向けた。
椿はぽかんとしたまま動けず、スタスタ逃げていく性悪になった幼馴染をひたすら見つめ続けた。
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