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十歳の頃から彼女と共にいる茜音には、彼女が遺構に登り、空中に脚を投げ出して座っているこの状況が二重の意味で信じられなかった。
幼い頃、どこかの研究機関に居たという野上翠那は犯罪留意地区や旧市街を知り尽くしている。追われる身ゆえ、共に行動するのなら常に目立たぬよう気を配り、危険を避けるようにと、茜音も徹底的に仕込まれてきた。
一緒に過ごす歳月は八年になったが、その間、捕まって彼らの望む薬を作らされかける事態は二、三度で済んでいる。それは彼女の情報収集力と気配察知力、さらには土地に関する豊富な知識のお陰だと茜音は思っている。
だが残念ながら、違和感があるのは、もう襲撃されることはない、という事実の方だった。
昨日、全ては終わった。その会合に立ち会ったし、決定した内容を一緒に確認もした。
翠那は自分の功績の中から、追手が欲しがるものを売ったのだ。それに対価を払った彼らのもう襲撃しないとの誓約書も今は手元にある。
けれど会合を終え、堂々と表玄関をくぐって随分経った頃に、翠那はただ目を伏せた。
『ありがとう。茜音が奮戦してくれたから、全部阻止しきれたんだと思う』
本当に、これで全部終わったのか。
不安で仕方がない茜音がそう聞くと、聞いたでしょう、と笑む。
『私よりもずっと進んだ研究も、すでに行われ始めてる。いつまでも協力しない未成年を小突き回すより、私が承諾しやすい最低限の権利だけ譲り受けて、新しい研究に投入する方が効率的。そう踏んだから、もう彼らは来ないわ』
『そうかもしれないけど──だったら、こんなに苦労することは』
『茜音。これはラッキーなのよ。彼らが考えを改める程のインパクトある論文がやっと世に出てきたと云う事だから。認可前のモノに頼る必要はもうない』
──釈然としない。
茜音はそう思いつつ、足元に座る翠那を見た。
大体、本当に追い回されるような生活から解放されたのなら、なぜそんなに辛そうに闇を見るのか。時々、思い出したように足を揺するのはなぜなのか。
確かに一応は安全なのだろうが、どうも腑に落ちない。
そう思っていると、茜音の脚に肩をつけたまま翠那が笑んだ。
「いま、なんでこんな時間にこんなトコに来なきゃいけないんだ、って思ったでしょ。やっと追われなくなったのに、って」
明るく言う声が静寂に消えると、宙に揃えた足を再びそっと揺らす。
「家でゆっくりしたかったよね……、ごめん。夕食、すごく美味しかった」
「当然だ、腕によりを掛けたんだから。ていうか、足揺らすな」
「……うん」
言い当てられた茜音が間髪入れずに返すと、翠那は暗がりに浮かぶ赤い灯を見遣った。そういえば、今まではどんなに切羽詰まろうと、犯罪留意地区の境にあるこの建築現場だけには入ろうとしなかったのに思い至る。
なのに今日、素敵な光景が見れるからと茜音の背を押したのはなぜか。
全てが解決した今、翠那は茜音と別の道を行こうとしているのではないか。
同じ年齢、斜向かいの家に住みながら、翠那と出会ったのは異常な状況の中だった。自身に降りかかった危機のため闘っていた茜音を、翠那が助けた。
二人とも、幸せな家庭には生まれなかった。理由は違っても、本来なら命を落とす局面を二人で乗り切ってきた。
死にたがりだった翠那の側に、嫌がられても居続けようとするうちに、いつの間にか存在を認められていて、今ではほとんど相棒のように生きている。
もしも──別の道を行こうと言われたら、自分はどうするのだろう。
(まさか、もう死ぬとか言いださないとは思うけど──)
いや、違う。翠那がいなければ途端に生きる理由がなくなるのは自分だ。情けない、と茜音は目を伏せる。
何より大事なのは、お互いの幸せのはず。
──その時は、その時だ。
「それでも、どうしても今日来たかったんだろ。ここに」
よく解らないけど、と水を向けると、翠那は腕時計に眼を落とした。
「そう。──どうしても、これを一緒に見て欲しかったんだ」
そして、静かに顔を上げる。
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