幻妖奇譚

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幻妖奇譚

 私がそのヒトと初めて出逢ったのは、もう遠い遠い昔のこと。  年を重ねる事に、そのヒトの顔は朧気に散っていく。  それでも、この時季になると必ず思い出す。  妹想いの〝お姉さん〟のことを――。 「ふぇ……、ぐすっ。もうやだ……。なんで私ばっかり……」  私が初めて家出を決意したその日は、季節外れの雪がちらつく初春の頃。  白雪と薄紅色の花弁が混ざりあい、はらりはらりと舞う中、神社の冷たい石階段に座り込みべソをかいていた。鞄を脇に置き、寒くて手が(かじか)むのも構わずに、家に帰りたくない一心から人気の少ないこの場所に齧りついていた。   「――これこれ。こんな場所で何故(なにゆえ)一人で泣いておる」    その時だ。不意に後ろから声を投げ掛けられた。  突然のことに驚き慌てて振り向くと、そこには見目麗しい女性が立っていた。 「あっ、ぅ……こ、こんにちは」  気配もなく、音もなく。  唐突に現れたその麗人に戸惑いながらも、私はなんとか言葉を紡ぎ出す。すると、 「ほぅ、きちんと挨拶ができるとは。今時の若人にしては感心感心」  女性は(べに)が引かれた唇を薄く引き伸ばし、妖艶に笑った。 「一足先に、花見でもしに来たのかえ」 「……ち、違います。家に、帰りたくなくて」 「だから、このような場所で泣いておったのか」  カラン、と下駄の小気味良い音が響く。  一つ、二つ、三つ、四つ。そして気付けばその人はすぐ目の前の石段にまで来ていた。 「ほれ、この中に入るが良い」  そう言って、女性は鮮やかな紅の番傘を私の頭上にさしてくれた。 「ヌシよ。名はなんと言う?」  淡い桜色の着物と古風な口振りに内心戸惑いながらも、何とか目元の涙を拭うと改めて名前を告げた。 「私、雪緒って言います。雪に、鼻緒の緒で、雪緒」 「雪緒か……良い響きじゃ。ワシは、(くれない)じゃ。宜しくのう、雪緒」  季節外れの寒空の中。  はらりはらりと寂しげに花弁が舞い散る。  鳥居の先にある枝垂れ桜が、雪で装飾されるのを遠目に見つめる。  ただ単に、桜に見惚れていたのかも知れない。  もしかしたら、私に気を遣ってくれていたのかも知れない。  泣いていたことについて言及することなく、雪に濡れないよう傘をさし、紅さんは黙って寄り添ってくれた。  ――だから、だろう。普段なら人見知りで口下手な私が、こうして口火を切ることができたのは……。 「こんな、何もない所で紅さんは何をしてるんですか」 「何もなくはない。雅な桜があるではないか」 「……お花見、ですか?」 「そうさのう。花見も悪くはない――が、ワシの目当ては別でのう。人を待っておるのじゃ」 「こんな日に、待ち合わせしてるんですか」 「残念ながらそうではなくてのう。だが、待ち侘びておる。待ち人はワシの妹でのう。それはそれは可愛い妹なのじゃ」 「妹……」  その言葉に、胸の奥がツキリと傷む。  今こうして、此処にいる原因にもなった姉妹(かぞく)のことを思い出すと、つい眉間に皺が寄ってしまう。そんな私の表情に気づいたのだろう。  紅さんは囁くように問いかけてきた。 「家に帰りたくない理由は、喧嘩かのう」 「……はい。私にも、お姉ちゃんがいるんです。でも、今日お姉ちゃんと喧嘩しちゃって」  その言葉に、紅さんは何を思ったのか。慰めるように優しく頭を撫でてくれた。 「喧嘩は、なるべくすべきではないぞ」  紅さんは、不思議な雰囲気を持っているヒトだった。 「いずれ……したくても、できなくなる時もあるのじゃ」  意見を無理やり押しつけるでもなく、淡々とした口調。  だけれど冷たい印象がなく、何故かその言葉の中に温かみを感じられた。 「喧嘩をして帰りたくないのだとしても、あまり遅くまで此処に長居するべきではないぞ」 「え……?」 「遅くまでおると、鬼に喰われてしまう」 「鬼って……」  今時、そんな子供騙しで怖がるとでも思っているのだろうか。  今まで抱いていた、紅さんの印象とは少しズレたような言葉に私は目を瞬かせる。 「この路境(みちざかい)はのう、護られておらんのじゃ」  唐突な言葉に、どう言葉を返したものか。  内心、紅さんの言葉の真意を掴みあぐねながらも、私は言葉を紡ぎ出した。 「……神社とかあって、神聖な場所なんじゃないんですか」 「それは、護るべき〝場〟と〝役割〟が違えておる。路には路の神がおるのじゃ」 「路の神様? それって……例えばどんなのがあるんですか」 「そうさのう」  私の問いかけに、紅さんはフムと考える仕草をした後、 「雪緒は、道祖神の意味を知っておるか?」 「道祖神……? 道祖神ってあの、路の端とかにあるお地蔵様のことですか?」 「そうじゃ、それじゃ」 「あれに意味なんてあるんですか?」  率直な疑問だった。正直、言い方は酷いが路の端の石ころ程度の認識しかない。  だからこそ、急に投げかけられたその問いに戸惑った。意味などあったのか、と。 「境界線じゃ」  紅さんは至って真面目な声で、言葉を紡ぐ。 「本来であればな、集落や村の境などに置かれてのう。邪なものを村に入れないよう、結界の役割をしておったのじゃ」 「じゃあ、あれもですか?」  たまたま目の端に止まった、鳥居の傍に横たわっている苔生(こけむ)した小さな地蔵のようなものを指差す。 「……そうさの。アレは、そうだったモノじゃ。今では本来の役割を成してはおらんがな」 「…………」 「じゃからの。此処にはあまり遅くまでおらぬほうが良いのじゃ。鬼に取って喰われてしまえば……〝会いたくない者〟にも逢えなくなってしまうぞ」  ポンポンと二、三度頭が撫でられる。  チラリと腕時計を一瞥すると、もう数時間も此処で過ごしていた。 「私……やっぱり、帰ります」 「そうかそうか。帰るのかえ」 「あんまり夜遅くまでいると、鬼が出るんでしょう?」 「ふふっ。そういって、本当は姉に会いたくなったのではないか?」 「そ、そんなことないです」  まるで私の心の内を見透かしているような言葉に、顔が熱くなる。 「雪緒よ、すまぬが一つ使いを頼まれてくれぬか?」  不意に切り出されたその言葉に、私は目を瞬かせた。 「帰る道すがらで良い。あの枝垂れ桜の枝にコレを結んできて欲しい。――ワシがまだおることだけでも妹に知らせてやりたくての」  そう言って紅さんは組紐で結ばれた鈴を私の手のひらに乗せてきた。 「ワシは此処から先へは行けぬのじゃ」  すぐ目と鼻の先に枝垂れ桜は咲いている。  なのに、行けないとはどういう意味なのだろう。  まるで、この鳥居の内と外が、別世だと言っているかのようだ。 「わかりました。結んできますね」 「……恩に着るぞ、雪緒よ」  鞄を引き寄せ、石段から立ち上がり鳥居を潜ろうとした時、 「もし、妹を見つけられたら――……」 「え……?」  ザア、と一段と強い風が視界を奪う。  驚き振り返ると、そこに紅さんの姿はなかった。  次の日、私はまた鳥居の傍にやって来ていた。  帰宅してから、姉と仲直りできたことを紅さんに報告しようと思ったから――。 「あ……。良かった、まだ咲いてる」  鳥居が近くにあることを示す、枝垂れ桜が見えてきた。  昨日の雪で花弁も散ってしまったのではないかと不安に思っていたが、どうやら杞憂だったらしい。陽光で雪が溶けたのか、キラキラと雫を纏って輝いている。その姿を近くで見ようと、足早に歩み寄った。  ガツン……。  その時、足下に当たった固い感触に目線を落とす。  そこには小さな地蔵が湿った土に埋もれ横たわっていた。 「あ……」  その様を見た瞬間、ふと紅さんの言葉を思い出す。  妹をずっと待っていると言っていた、あの人の言葉の意味を。 「もしかして……」  湿った土からその〝片割れ〟を抱き上げると、私は一目散に鳥居の傍にある苔生し地蔵へと駆け寄る。  その地蔵の片割れは、ちょうど境で行き別れるように鳥居側へと倒れていた。  それぞれ汚れ方は違う。だが、双子のように同じ姿をしたそれを寄り添うように置いた。  ✿ ✿ ✿  今はもう、誰も訪れることのない神社。  その傍にあるのは、枝垂れ桜  誰もいなくなった桜の木の下。  微かな鈴の音に混じって、二人の女性の笑い声が響いていた――。
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