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 ロングコートのポケットに手を突っ込み、風を切るように歩く。  町はずいぶんと静かになった。満員電車は死語になり、ハチ公前の交差点を歩いても、人にぶつかることはほとんどない。  寄り道をすることなく、駅から徒歩二十分ほどのところにある個人経営の喫茶店に入った。  軽やかな鈴の音が、来店客の訪れを告げる。  小さな喫茶店だ。ウッド調で統一された店内は、アンティーク茶器やドライフラワーなどが飾られ、落ち着いた雰囲気を醸し出す。店にはテーブル席が二つ、あとはカウンターとなっており、客はカウンター席に一人いるだけだった。  店内に漂うコーヒーの香りを吸い込むと、先客の隣に腰掛けた。 「お久しぶりです、柿崎さん」  そう声をかければ、彼女はこちらを見て口元に笑みを浮かべた。 「考えていただけましたか?」  店主にコーヒーを頼み、その姿が見えなくなったのを確認して尋ねる。  彼女はカップを持つとその香りを楽しんでいた。返事はない。今回ばかりは、はぐらかされるわけにはいかない。  だって彼女は、ボクらと対立する集団のリーダーなのだから。  それを知ったとき、ボクは驚いたのと同時に彼女のことを何も知らないことに思い至った。彼女を悪と決めつけるは早とちりだ。少なくともボクはそう思った。 「立花くん、申し訳ないけど君の望む答えは与えられそうもない」  カップの中を見つめながら彼女は言う。 「光と影が同じ方向を見つめられないように、我々が手を取り合うことはどんなに時間をかけてもあり得ない」 「もう一度考えてください」  胸の奥に爪を立てられたようだ。祈るような気持ちを込め言葉を紡ぐ。 「能力の有無で生きるか死ぬかが決められるなんて――。罪のない者からも生を奪うのは間違っています。確かにボクらはあの日、それまでの自分ではなくなりました。でも、ボクは今も人間で決して神ではない。他人の命を奪っていい理由なんてないでしょう」  ふっと息を吐いて言う。 「もう一度考えてください。――組織を抜けていただけることを」  沈黙が流れる。ノアの箱舟計画を実行している組織は、リーダーである柿崎を中心に成り立っている。そのリーダーが組織を抜ければ、自然と組織自体も崩壊していくはずだ。  だが、柿崎さんはゆっくり首を左右に振った。 「君も残酷なことを言う」  店主がコーヒーを持ってきた。香ばしい香りが鼻をつく。手をつける気になれず、立ち上る湯気を見つめていた。 「もし、私が君に同じことを言えば、君は考えを改めるのかい?」 「……いいえ」 「そういうことさ」  残りのコーヒーを一気に飲み干す彼女を横目に、ボクは唇を噛んだ。  このまま引き下がることはできない。少なくとも何十万という命がボクの肩にかかっている。 「私の言ったとおりになったね」  何のことかわからず、眉をしかめれば「人気者になるって話さ」と彼女は言う。  店主は空気を察したのか、再び店の奥へ姿を消した。 「君は今、多くの人にとって希望の光になっているんだろう。実際その通りなんだけどね。私が悪役で君がヒーロー」 「急に何言ってるんですか」  しかし、冗談で言っているようには見えなかった。 「でも君は知っている。旧人類が、特殊能力を持った新人類を無差別に殺す現実を。――人間はいつの時代も自分とは異なる存在を排除したがるのさ。我々がしているのもそれに乗っ取った行動なだけだ」  互いに守るものがあり、譲ることなどできない。  ボクは拳を強く握った。それこそ、手のひらに爪が食い込むほどに。  ――道は分かれたまま、一つに交わることはないのか。  ぐっと目を閉じたときだ。 「君は覚えているだろうか。――私に何故ヒーローショー、それも悪役の仕事を受けたのかと聞いてきたことを」  言われてみれば、そんなことを聞いたような気もしなくはない。だが、今更それがなんだというのか。今のこの世の中は、あの日演じていた舞台のような世界に変わってしまった。様変わりしてしまった世界。変わる前のことなんか今はどうでもいい。――少なくともボクは。  柿崎さんは、空になったカップを見つめて言う。 「私が子供向けの舞台に出ていたのはね、ただ単に私にとって悪と呼ばれる思想こそが正義だったからだよ」  意味が分からない。  そう言葉にしようとしたら、笑われた。 「君は顔に出やすい」  柿崎さんは言う。 「別に人を殺したいとか従わせたいとかそういう欲求があるわけじゃない。たとえば君はこの空を見て何色だと思う?」  カウンター席から振り返り、木枠の窓から空をみる。  雲一つない、青空だった。 「きれいな青色ですね」  そう答えれば「大多数の人間はそう答えるだろうね」と言う。 「私は黒に見えるよ」 「――目、悪いんですか?」  色彩を判別できない人がいると聞いたことがある。もしそうなら、彼女は今までそんなこと微塵も思わせずに生活していたことになる。申し訳なさを感じながらそう尋ねたのに、彼女は声を上げて笑った。 「別に。私の目はいたって健康そのもの。君と同じだよ」  それなら青色に見えるのでは。そう思えば、「それだよ」と心を読んだように言う。 「大多数と同じでないと、『異質』だと思われる。その『異質』は大多数の手によってやがて悪、排除される者に変わるんだ」  彼女は席を立つと、カウンターの上に小銭を置いた。 「君の思想や考え方を否定するつもりはない。ただ、それは大多数に認められるもので、一般的に『正義』と呼ばれるものであることは否定できない」 「待ってください、ボクは――」 「君にそのつもりはなくても、周囲はそう見ている。正義の味方だと。でも、私から言わせてもらえば、正義と悪なんて数の違いだけであって、それが覆れば私が正義で君が悪になる。ただそれだけなんだ、正義なんて」  追いかけなければ。そう思うのに体が動かない。  空が黒く見える彼女の目には、今、この世界はどう映っているのだろう。そればかりが気になった。 了
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