一番黒いものが私の目だった頃

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一番黒いものが私の目だった頃

 二十年ぶりにポストに座る。 「あったかい」  スカートの内側、黒の下着がポストの赤と混じってやっぱり黒のままでいるだろう感触を太ももの温もりに感じた。この時間、二十年前と変わらずポストの頭には太陽の光が降り注いで、悲しくポストは金属である。 「後ろのお宅にはちょっとサービス」  スカートの丈が短くて露わな太ももの横、私の体で三番目に滑々なとこ。  駅から住宅街の抜け路地を緩い坂道上がってきて突き当り、立派な門構えの一軒家前にそのポストはあった。左側が普通郵便物と葉書、右側がそれ以外、投函後に振り向く人と振り向かない人、どっちも愛しい。 「何をしているんですか?」  平日のま昼間、暇な学生さんかな? カタン。ポストの左側に葉書を投函して、私に訊いた。この人はきっと振り向く。 「さぁ」  私はとぼけながらポストによっかからせたトートバッグを引き上げて、中から水中眼鏡を取り出した。透明なレンズの子供用。 「痛い、単純にサイズが合わなくて、痛い。目ん玉飛び出る」  強引に装着しようとしたけど諦めて、指でクルクル回した。ヒョンヒョンと夏の風が切れてうるさい。 「頭の変な人? それとも何かの撮影とか、じゃないか。大丈夫なんですか?」  大丈夫なんですか? 手ぶらで葉書だけを持っていた手をしきりに揺らしている。Tシャツは黒かった。彼の手に葉書より軽い私は変な人じゃないよ。って。 「大丈夫ですよ。私は」  ヒョンヒョンをバッグにしまって、スズっと地面に落っことす。自然とバッグはポストに寄り掛かった。ね、大丈夫。 「大丈夫な人がポストに座りますかね? お仕事は何されてるんです、地元の人?」  青年が言葉をずっと投げてくる。私は太陽の光を浴びていた。そちらをみる。 「眩しい、目が、痛い。みて、いられない」  ほうら。私は大丈夫。私の目よりお兄さんのTシャツの方が黒いよ。数秒で目を焼いて、瞬きする景色、お兄さんの顔が極彩色に埋もれた。大丈夫よ。 「仕事はイラストレーターをしています。この地域には二十年前に住んでいました」  お兄さんの顔がみえないままだったけど、声が安心していた。お兄さんは続けて私に質問をした。顔のない質問を。 「まともな人、なんですね? でも何か理由があってポストに座ってる。ちょっとホッとしました。なら訊いてもいいですか?」  ええ。よろしくてよ。今なら、と思って目線をお兄さんの緩い胸元にやる。丁度太陽のフラッシュが事切れて、ドキっとするほどピンクな乳首がみえた。ポストが赤くて、良かった。私は頷く。 「どうしてそのお仕事されてるんですか? イラストレーター。僕、進路に悩んでて……。会う人会う人にこの質問、するんです。変な出会いだけど、これも出会いだから」  お兄さんは私の視線に気が付いて、胸元を押さえた。 「言われます。ビーチクピンクってあだ名だった頃もあります」  笑って言う。やだ、太ももの温もりがやけに、熱いよ。 「少し長い話になるかもしれないけど」  私はまた、太陽をみる。ジージーと蝉がどこぞの電信柱で鳴いた。人の往来は結構あって幾つかの目がじっとりと私たちを伸ばしていく。 「じゃ、場所を変えましょう。駅前の喫茶店で聞かせてください」  お兄さんは気前良く、 「奢ります、昨日バイト代出たから」  と、なんでかお尻を叩いた。あ、お財布か。でもね、それは無理。 「ポストの上、ここでしか話せないんです。ここで起きたことだから。ごめんね。でも、話が終わったら、奢ってもらってもいい」  ふふふ、とお兄さんは隠しもせずに笑って、スニーカーでポストを蹴った。 「頑丈なポストだ、いいです。ここで聞きましょう」  揺れもせず、私は目を閉じたまま太陽をみていた。瞼の裏という名称ではないはずの空路に顕微鏡で覗いた風景がみえる。顕微鏡で覗きたかった結晶の話をしよう。一番黒いものが私の目だった頃の話を。                ☆  ポストに座って太陽をみてた。ズボンのお尻があったかい。足をプラプラさせたら口の邪魔になるから、横向きでプラプラさせた。登校時間過ぎ、通り過ぎる近所のおばさんは保育所に子供を預けた帰り道、パンと牛乳がコンビニ袋に透けてみえる。 「こんにちは」  私が挨拶をすると、「こんにちは」と、会釈しながら言ってくれる。瞬間的におばさんはコンビニ袋を持ち替える。 「学校は?」  って言わない。なら、こんにちはも言わなければいいのにと私は思った。ポストの上に毎日座っても、擦れ違う人は私に何も言わない。散歩中の犬だけが友達の目でみるようになっても、飼い主のおばさんはその後散歩ルートを変えた。ポストに足がないことを恨めしく思った。夜、夢の中で私はもの言うポストを愛馬に、あの犬と飼い主おばさんを追いかけて遊んだ。  目が、焼ける。  夏の日差しが瞬きを埋めてくれる。  なのに、目が全然痛くない。  涙も出ない。  ずっとみていられた。直接。太陽の光を。ドンドン、ドンドン見開いてやる。瞼壊れて目の玉、転げるまで。追っかけて歩けば、坂道の先で誰か抱きとめてくれるかもしれない。  遠くでチャイムの音がする。カタン、コトン、時々ハガキや封筒が落ちる音がする。日が沈むと、私はため息をついて、ポストから飛び降りた。その瞬間だけは、多分ちょっとだけ、痛かった。  でもそのちょびっとの痛みは、次の日の太陽に焼かれて消えた。  毎日、私はそうして過ごした。  ある日。  謎のおじさんに出会った。  謎のおじさんは暑苦しい黒い背広姿で、分厚いサングラスをしてた。ネクタイも黒かった。黒い鞄からいつまでも出てきそうな葉書と封筒を一通一通ポストに落としていった。あんまり音が続くから、 「どれだけあるん」  と、呟いてしまった。太陽をみながら。  おじさんは「ニヤリ」と言った。話しかけてはいけないタイプのおじさんだと思って、嬉しくなった私はすぐ「ニヤリ」と返した。おじさんは恥ずかしそうにネクタイでサングラスを拭いた。 「なにそれ?」 「脅かすつもりが脅かされたから」  って、おじさんらしくない綺麗な声で言う。 「目、潰れるよ」  カタンコトンの音が止まって、おじさんは一言、それだけ言い残して去った。  次の日。  謎のおじさんはまた現れて、封筒と葉書をカタコトポストに入れながら、私に話しかけてきた。 「学校は?」 「太陽を直接みちゃ、目が壊れるよ」 「凄いな、そんなにじっとみて、何がみえるの」 「何年生?」  カタコトの間にたくさん。私は一言だけ、 「目、壊したいの、でも、痛くなくて困ってるんです」と言った。本当のことだった。おじさんは無言のまま、私をみてたはず。太陽が言った。「おじさんがみてるよ、目を合わせてごらん」でもごめん。私の目、太陽の光以外全部暗くてみえないから。ごめん。  その次の日。  謎のおじさんは話を始めた。 「目は大事だ」 「みたいものがみられなくなるのは辛いよ」  カタコトとせわしなく鞄の手紙をポストの口に投げて、音の隙間に話した。私はじっと聞いてた。太陽の光は痛くなかった。 「変なやつ」 「学校も行けないのか」 「かわいそうに」  時々、幼稚園の帰りの子が勇気を出して私に石を投げてくれても、そしてそれが見事に頭に命中しても。 「全部、痛くない」  私は何も、痛がることが出来なかった。    三日目四日目、おじさんの話がだんだん自分勝手に楽し気になっていく。 「でっかいでっかいカエルをみたんだ。嘘じゃない2メートルぐらいあった」 「初めてみた深夜のエロ番組はそりゃ刺激的でさ」 「テレビで目の錯覚を起こすグルグルをみたんだ、ホントに、兄ちゃんの顔グニャグニャになった」 「欽ちゃんの仮装大賞、楽しみだったな。首を落とすマジックはあの番組に起源があるんだ」  ドンドン、好きなことを勝手に話す謎のおじさん。  私の真っ黒な目に、何かが漏れ始める。  みたいものなんか、ない。私に。 「ドラえもんの26巻」  とだけ。おじさんが言う。  ちょっと。気になる。 「なに?」 「ニヤリ」  と、おじさんは言った。私は今度はニヤリと返さなかった。 「ドラえもんって、漫画みたことないんだ。26巻に何があるの?」  会話が生まれた。  ポストの上で、初めてした会話は、私の目を埋め尽くした太陽の光を逃がす非常口になる。緑ではなく、黒のおじさん。 「あのコマに描かれた雫の絵をずっと勘違いしてたんだ」 「何と?」 「さぁ、ねぇ」 「もう」 「宇野亜喜良の画が大好きで、郵便局でポストカードを売るっていうから楽しみにして買いに行ったら局員が発売してること知らなかったんだ、呆れた」 「どんな絵?」 「さぁ、ねぇ」  何日目か。私はおじさんに尋ねた。 「図書カードってどうやって作るの?」  カタコト。おじさんは隙間に返事してくれた。 「おじさんがあげよう。なに、バレやしない」  おじさんがくれた図書カードには「園田千春」と子供みたいな字で誰か知らない名前が書かれていた。駅向こうの元木造校舎を改装した図書館でも、私に何か言ってくれる人は誰もいなくて、偽物のカードを使うドキドキも痛くなくて、瞼から光が逃げてしまっても、瞬きに司書のお姉さんは顔がなかった。  私は、ものをみたいと思ってしまった。  図書館で本の表紙絵に「宇野」という名前を探した。背伸びして、脚立に乗って、一生懸命に探して幾つかみつけた後で、画集コーナーに「宇野」をみつけた時、うっかり笑ってしまった。  宇野亜喜良の絵は、じっとみてると太陽より私の目を焼いた。 「いい絵だった。郵便局員あほだね」 「まぁ、他の仕事が忙しいさ。こんなに手紙を出す男がいるし」 「ホント、誰に出してる手紙なの? 毎日毎日」 「もうすぐ、終わるよ」  カタコトの隙間。焼けていく目。おじさんの声が、聞こえなくなるのか。 「ドラえもん。古本屋で立ち読みした」 「なんだと思った?」 「あれは涙でしょ? 裏山の」 「なんだよ、小学生なら仲間になれると思ったのに、今時の小学生は可愛くないね」 「何と勘違いしたの?」 「ドラえもんの汗だと思ってたんだ。のび太を必死に説得する汗だってね」 「ま、そうともみえたかもね」 「慰めるな、泣きたくなる」 「ニヤリ」 「可愛くねーな」  私は図書館で画集をみるようになった。 「金子國吉って結構良かった」 「アリスの挿絵の人か」 「そう、どっか連れてかれそうって思った、絵をみてて」 「ついていけばいいのに」 「冷たいな」 「ま、そう言うな。みたいものができた君にいいものをやる」  謎のおじさんと出会って何日目のことだったかな。私の目が太陽以外に焼かれるようになったお祝いにって、おじさんが水中眼鏡をくれた。ゴムとレンズ周りが黒くて、レンズは透明の。  その水中眼鏡をかけて太陽の光をじっとみていると、痛くもないのに涙が出た。レンズの中に溜まった涙はすぐに蒸発して、結晶になった。顕微鏡で覗いたら、自分が小っちゃくなって、木のうろに入れるかもしれない。 「これ、塩?」 「さぁ、ねぇ」 「どうするの、それ?」  おじさんはその結晶を小瓶に詰めると、背広の内ポケットに隠した。 「売るんだ。君の稼ぎだよ」 「私の?」 「通帳をみせてあげよう、君の稼ぎだ」  それからの日々は、涙と数字の日々で。おじさんと別れる最後の日には残高は七桁になっていた。  カタコト。 「今日で手紙は出し終わるよ」 「みたいもの、出来たのに」 「お別れだ」 「太陽みててもちっとも目、痛くない」 「鍵を例のところに残して行く」  例のところ、なんてカッコつけて言っても、そこには図書カードが粘着テープで貼られているだけ。先客が汚い字の園田千春じゃカッコつかない。ポストのお尻。 「壊れるの、嫌なのに、痛くない」 「君はもう、そう、思ってしまったからな」 「涙、揺れる、レンズの中、金子國吉も粒に混じってる」 「絵描きを好きになればいいぞ、何処へでも連れてってもらえる」 「そうかな、ポストの上以外も?」 「君は自分で図書館へ行った、古本屋へ行った」 「おじさんは絵描き?」 「かもしれない」 「ありがとう」 「ニヤリ」 「ニヤリ」  声に出したニヤリ。最後の結晶が詰まった瓶をおじさんは私の手にくれた。  その夜。  私はうちで泣いた。  太陽の強すぎる光を、自分の目を潰してしまう光を痛がれなかったことが嫌で、怖くて、たまらず泣いた。  うちに持って帰れなかった小瓶はポストのお尻にくっつけて。  ジリジリ、泣けば泣くほど足のないポストが私の方へ歩いてくる気がした。  ベランダの戸を開ける。  ワー。ワー。  ワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。  ワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。  泣き声が弾けて、体が光に分散した。  声の方の私が、私をみてた。  誰かが、私の目を閉じてくれた。                ☆ 「てなことがありまして」  よ。  話を終えて、ポストを降りた。  お兄さんが蹴ったところを撫でる。 「大変な生い立ちなんですね」 「一人っ子だから、甥はいないんだ」 「元気になれて、良かったですね」  グスっと、お兄さんは目に涙を溜めている。結晶化しない涙を。 「でも、どうして誰も介入してくれなかったんです? 学校は?」 「有名だったのよ、そりゃあ大変な親だったから、みんな怖がってしまったのね」 「泣いた日、通報してくれる人がいて良かった」 「そうね、それは本当に。で、伯父の家に引き取られて、そこからは普通の生活です。あの時、私をポストから降ろしてくれた絵描きに、私もなりたいと思ったの」 「話が壮絶で不可思議で、何も参考になりません」 「でしょうね、ところで、これよ」  ポストのお尻に二十年あった鍵。残念ながら結晶の小瓶はなかった。痛い水中眼鏡を我慢するしかないかとちょっと憂鬱。 「あ、通帳の!!」  お兄さんが声をあげて、口を押える。そうよ、そんな大きな声はダメよ。 「駅のロッカーに現金であるらしいの」 「奢るって言ったの撤回していいですか?」 「ダメ」  私たちは駅の係員さんに説明を受けた。 「こーいうのって、何年か放置すると処分されたりしないんですか?」 「いや、あの謎の男に三十年分の料金をもらっちゃって」 「あ、やっぱり謎よね、あの人」  ロッカーを開いたら、中に真っ黒なボストンバッグが一個入っていた。私とお兄さんには中身がわかっている。七桁の涙だ。私の目は壊れなかったけど、今も時々理由もなく痛くなる。  目が開けていられなくなって、ハンカチで目を押さえても涙は出てこない。高く、ついたもんだ。  私がバッグを取り出すと、係の人が興味津々に尋ねてくる。目が黒いけど、茶色い。 「中身はなんです? うちじゃもうそのことがみんな気になってましてね」 「さぁ、ねぇ」  とだけ言い残して、私はお兄さんと喫茶店に向かった。                                             
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