シャドウ

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 私の意識は、再び響子の家に戻っていた。  あの時と同じ。  マスカラが溶け出し、目元から黒い涙が伝う。 「《ドッペルゲンガーなど(いない)》」 「《あいつらの作り話だ》」  自分の口から出ているとは思えないほど、冷酷な口調だった。 「いけ《な》い、《帰》らな《い》と」 「《まだそんな事を言ってるのか》」 「ゆる《せ》ない。《許》せ《な》いけ《ど》、だからって」 「《……こっち(みろ)》」  鏡の顔がこちらを強く睨む。吸い寄せられるように、目が離せない。  洗面台に手を付くと、徐々に乗り出していった。 「いや、《いやだ》……」  口を動かし、必死に抗う。  鏡の表情はどこか憐れみを帯びていた。 「わた《し》は、《そ》ん《な》人間(じゃない)……」  鼻先が付く。それに続いて、額と口元が鏡へと押し付けられていく。  堰き止めてきた感情が、慟哭となって家中に響いた────。 「なに、なんの音なの?」  暗闇から乾ききった声が聞こえてくる。  男に媚びる声より、幾分聞きやすい。  電気のスイッチをいじる音が鳴る。  ブレーカーを落としたのは、《あなた》。  合鍵を盗み取ったのも、《あなた》。  割れた鏡から、鋭利に尖ったものを自ら選び取る。  破片を強く握り込むと、鮮血が流れ出した。  響子に良く似合いそうな赤だった。 「ねぇ、誰もいないよね?」  ブラケット照明が消えても、響子との距離が詰まっている事が、手に取るように分かった。  研ぎ澄まされた空間の中、時機を窺う。  長い禁欲が興奮を更に高めた。  洗面所の扉がひらく。  私は、右手を大きく振り被った。    《了》
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