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私はデザインの初稿が出来上がると、パソコンから顔を上げた。時計の針は【12:07】を指していた。偶然にも、今日の日付と同じだ。
オフィスでは、学校のように昼を告げるチャイムは鳴らない。各自で業務管理を行い、空き時間を使って休憩に出る。ちなみに私の斜向かいに座る後藤さんは、必ず私より早くに席を立ち、遅くに席へと戻る。
「るるか、昼ご飯食べよー」
長机の端から声がかかる。響子が巾着袋を掲げて立っていた。
「おっけー、ちょい待ち」
私はパソコンにロックをかけると、鞄からおにぎりと野菜ジュースの詰まったコンビニ袋を取り出した。30代が近づき、慌てて『健康』を謳う商品を選び取った結果だ。響子のように朝から料理する女子力は生憎と持ち合わせていない。
響子は、この印刷会社で私と同じくデザイン職を務めている。私は転職組だったが、同い年という事もあり、直ぐに仲良くなった。私はBtoB、響子はBtoC、と上手いこと職種内で住み分けも成されている。
私たちは同フロアの片隅に設けられた、休憩スペースへと足を運んだ。決して都内だけでも上位には食い込まない今の会社は、質より価格で勝負、という下っ端根性で動いている。こうした経営方針では、自ずとオフィスも小さくなっていくのだろうか。
「あぁ、疲れた。いただきまーす」
響子は口を動かしながら、ポテトサラダに箸を突っ込む。私もそのまま彼女の言葉を借りて、おにぎりの封を切った。
「それで、最近はどうなのよ」
響子が箸先をこちらに向けて訊いてきた。
「どうって、何が?」
私は、分かった上で訊き返す。響子が休憩時間に仕事の話を振ることは絶対にない。
「だーかーら、倉敷さんと」
「まぁ……お変わりなくって感じ」
私はそれ以上の報告がない、という意味を込めて、野菜ジュースを口に含んだ。
響子が言った『倉敷さん』とは、弊社の営業職を務めている三個上の先輩社員だ。私が入社してきて初めての大仕事は、彼が取ってきた都内に新店をオープンするスーパーマーケットの販促物だった。私が手探り状態で練り上げたデザイン案は、一瞬にして上司に突き返された。
途方に暮れた私を社外に誘い出してくれたのが、彼だった。スラっと背の高い彼の横を歩くのが、凄い恥ずかしかったことを今でも覚えている。
導かれた先は、地元民から根強く愛されているスーパーだった。
パソコンの画面には映らない情報が、そこにはあった。買い物に来る客の年齢層、動向、ライフスタイル。限られたチラシの枠内において、何を選び、何を捨てるべきか。その足掛かりが倉敷さんによって齎された。
「俺さ、パソコン作業って超苦手なんだよね。足と口を動かすしか脳がないし。だから和泉さんの仕事、ほんとに尊敬してる。
仕事でデザインするの初めてなんだからさ、気楽でいいと思うよ。出来上がりに込めてくれた想いは俺がちゃんと受け取って、相手に100%伝えてみせるから」
彼が営業の中でトップに君臨し続けていることを、私は既に知っていた。それでも彼の言葉から傲岸不遜は一切感じられなかった。
「あの、ありがとうございます。倉敷さん」
彼はこどものように無邪気な笑顔を私に向けた。
スーッと奥底に沁み込んでくる。彼を好きになるまで、大した時間はかからなかった。紆余曲折はあったものの、私たちは交際して2年を迎えようとしている。
変な噂が社内に蔓延するのも癪なので、響子のような数少ない友人相手にしか、二人の事は話していない。それが嬉しかったのか、響子は事あるごとに進捗を尋ねてきた。やはり言葉に表さずとも、《結婚》の二文字がアラサー女の頭には浮かんでしまうらしい。
「そういえばさ、営業の丸さんの話知ってる?」
私は話題を変えるべく、少し声のトーンを落として訊いた。休憩中も引っ切り無しに稼働するコピー機の音が、ひそひそ声を包み隠す。
「もちろん。今期だけでも、もう五人目の休職者か。また戻ってこないかもね」
響子も私につられて前屈みになる。やっぱり私より圧倒的に顔の広い響子の耳にも届いていたか。
「ブラックなんだね、ウチって。デザイン職でまだ良かったかも」
「また病んじゃった系かな。あたしも気をつけないと」
「響子は、大丈夫でしょ」
「それってどういう意味よー」
響子は頬を膨らませたが、あながち冗談でもない。本当に危惧すべきなのは、私の方だ。今は仕事が比較的順調に行っているが、崩れた時の精神の不安定さは自分が一番よく知っている。怪しげな占いに泣きついたり、倉敷くんに鬼電を入れた想い出が頭を過ぎった。
「そろそろ戻ろっか」あと5時間で土日だっ、と響子の声が跳ねた。
私もデスクに戻る前に、手鏡で歯に海苔が付着していないか、さっと確認する。
「あ、そういえば……」
響子は人差し指を顎に添えながら尋ねてきた。
「昨日の夜さ、何で会社戻ってきたの」
え、という声がはっきりと漏れる。
コピー機は、なぜか全てが止まっていた。
「いや、午後休取ったから、ずっと学生時代の友達とご飯行ってたけど……」
「うそだー、あたしが残業してからだから、19時過ぎだよ。大通り沿いを会社方向に歩いてったじゃん。副部長と一緒だったから、声はかけてないけど」
最初は響子も笑っていた。ただ、私の引き攣った顔を見て、表情が徐々に萎んでいく。
「ほ、ほんとに来てない?」
「月曜の朝、だったかな。後藤さんにも似たようなこと言われた……」
「そっくりさん、とかかな。ほら、るるかって量産的な顔だから」
響子が無理やり冗談を言って、私たちは解散した。
中年を優に過ぎた後藤さんに言われた時は、正直軽く受け流していた。しかし、響子の言葉となると、話が変わってくる。あの驚愕の表情。疑いの余地がないほど、私と瓜二つだったのだろう。
休憩前より身体が重い。私は自分のデスクに戻った。が、直ぐに座ることができない。
斜め前には、後藤さんが座っていた。
不吉な予感が形となって、私の前に現れていく。
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