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「ねぇ、ドッペルゲンガーって知ってる?」
私は終業後に倉敷くんの家を訪ねていた。最近、この半同棲の状態が普通になってはいるが、今日は無理に押し掛けた、と言わざるを得ない。
「自己像幻視だろ。会ったら死ぬ、ってやつ」
倉敷くんは自分の言葉に薄く笑っている。彼は私と違って、オカルトの類を全く信じていない。その博識ぶりと、現実だけを見つめる瞳は、時に私を悩ませる。だが、今はかつてのように心の支えになると思った。
「そ、そうそう。なんか同じデザイン班の人をね、街中でしょっちゅう見かけるようになったんだ。でも会社でその話題を振っても、そんな所には行ってないって……」
私は出来るだけ他人事のように話した。頭の中では適当に後藤さんの姿を充てがう。
「じゃあ、パターンBだな」
「パターンBって?」
彼は私の問いかけを、ベッドに倒れながら聞いている。
私はまだ外着から着替えていないので、傍らに寄るのを憚った。
「さっき俺が言った虚像を自ら視てしまうのが、パターンA。瑠々香が言ったみたいに、第三者から覚えのない目撃情報を受けるのが、パターンB。瑠々香が目撃した側だったら、大した心配はないよ」
意味深な条件が後を引いた。
何故か今日に限って、倉敷くんは私の妄言に付き合ってくれる。
「された側だったら、何か違ってたの?」
「パターンAが老人のボケとか薬中で簡単に片付くのに対して、パターンBの方は報告件数が増えるに従って、他のオカルトと勝手が異なると思ってる」
心の声が漏れたのか、彼は前口上を述べてから説明に入った。
「ドッペルゲンガーは《シャドウ》とも呼ばれる。パラレルワールドの住人だとする見解が最も主流。《影の世界》かは別として、量子力学の観点からも、多世界解釈は簡単には否定できない。俺も意外と肯定派なんだ」
何で今日は、全ての目論見が外れるのだろうか。
──── 勘違いに決まってんだろ。
その言葉を待っているだけなのに。
「自分と姿かたちは全く同じなのに、中を決して覗いてはいけない。覗けば、最期。これまでの自分は、呑まれて死ぬ。これを磁石の双極に例える者もいた。眠っていたはずの性的嗜好や残虐性が、影と対峙することで強制的に引き寄せられてしまう」
私に眠る、《性的シコウ》や《ザンギャク性》?
身に覚えのない単語が、占い結果のように淡々と告げられていく。
「その瑠々香が頻繁に目撃する人、心が病んでるんじゃないか。現状への不満とか、他者に対する嫉妬心が、並行世界からシャドウを呼び寄せるというケースが多い」
私が、病んでいる……?
後藤さんの次に浮かんできたのは、営業部の丸さんだった。
倉敷くんの一個下の後輩で、私たちの秘密を知る数少ない男性。
「もしかしてさ、和泉さんって先輩とデキてる?」
私の狼狽ぶりを丸さんは満足そうに眺めていた。自身の若白髪までをネタにするような快活さが、コミュニケーションの不得意な私でも心地よかった。
そんな彼でも、人知れず心に闇を抱えていたのだ。
「おい、そんな暗い顔するなよ。瑠々香の勘違いだった可能性もあるんだから」
倉敷くんは黙りこくった私に気づき、慌てて取り繕う。
「そうだよね。ちょっとビビっちゃった」
LED照明を面光源とした私の影が、床に薄く広がっている。
私は笑顔の裏で「《も》う《遅》いよ」と呟いた。
彼の発する言葉に集中していた聴覚が、漸く部屋の音を取り込み始める。テレビで夜のバラエティ番組が流れているのを、今知った。司会者は人工的な明るさでゲストを盛り立てていた。
一方、キッチンからは物音一つしていない。
「突然来たお詫びに、なんかご飯つくるよ」
私は服を脱いで、預けていた部屋着になる。頭を通すと、彼と同じ匂いがした。
「それよりさ、こっち来れば……」
倉敷くんが寝そべりながら、枕横を数回叩く。ペットに成り下がった気分だったが、私は黙って布団に入った。彼の匂いが一段と強まる。
彼の利き腕が私を上から丁寧に擦っていく。また、テレビの音が遠くへ消えていった。この部屋には、私と倉敷くんの二人だけ。そんな二人も徐々に一体となる。
それなのに。
先程の会話が、快楽で溶けてなくならない。
仮面を被ったテレビの演者とは全くの別物。もっと欲に忠実で、醜い部分を臆面もなく衒らかす。そんな底のない影が、私たちの行為を冷たく見ている気がした。
そんな私を置いて、彼はただ貪っていた。
好きになった頃の記憶も、随分と砂に塗されてしまった。
彼は馬乗りになった状態から、脱ぎ捨てたネクタイへと手を伸ばす。私には何をしようとしているのか分からなかった。
「また縛ってやるからな」
私を見下ろしながら、確かにそう言った。
口でも滑らせたのか、と咄嗟に思った。知らない女の名前で呼ばれたかのように、私の中にだけ絶妙な間が流れる。
そのまま作業に入ろうとするのを、「ちょっと待って」と強めに制した。予期せぬ圧に、彼も思わず手を止めて逡巡している。
「また、ってどういう事?」
私は慎重になって尋ねた。
彼は何を訊かれているのか分からない、といった表情だった。
頭の良い彼がここまで気付かない訳がない。
このすれ違いを経験するのは、今日で2回目だ。
彼にとっては、本当に『また』の行為だったに違いない。
「いつ会ったの?」
私は上半身を起こして訊いた。彼は昼間の私と同じく、えっ、という間抜けな声を漏らす。
「だから……」
その温度差に思わず苛立ちが募る。
「ネクタイで縛った日。いつどこで『私』に会ったか訊いてんの!」
あまりの剣幕に、倉敷くんは平時の思考回路を取り戻した。
「月曜だから、4日前か。会社を出た辺りで、後ろから瑠々香に声かけられて、それで……。外食した後に、近くにあったホテルで。そんな、嘘だろ。さっきの話って……」
常に冷静な彼が声を震わせ、血の気を失っていく。私は想像する間もなく、吐き気を催した。黒い塊が胃液とともに逆流しようとする。
「ごめん、帰る」
私は裸のまま立ち上がると、出社時の服へと着替えた。
彼の匂いを纏った部屋着は方々に捨てられている。
電気を付けたままのリビングに対して、外へと続く廊下は暗い。
歩いてみると、酷く孤独に感じた。
ほんの少しだけ、速度を落としてみる。
玄関のドアノブを捻るまで、声は一切かからなかった。
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