シャドウ

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 家に向かう道中も、気が気ではなかった。反対ホームで電車を待つ人(だか)り。室外機が点在する路地裏。夜の公園ではブランコが風に揺れる。どこに視線を向けても『私』の気配を感じてしまう。  恐怖に憑りつかれると、日常で感じる安寧など脆くも崩れ去る。布団から手足を投げ出す解放感も、ひとたび四肢が削ぎ落とされるイメージが浮かぶと、二度と手に入らない。考えまいとする思考、そのものが私を締め上げていった。  震える手で家の扉を開けると、滑り込むようにして身体を入れ、静かに鍵をかけた。ガチャリ、という無機質な音が虚空に呑まれた。光一つない玄関口で、呼吸を整えて佇んでみる。あれだけ影に怯えていたのに、いざ完全なる闇に浸かると、様々な負の感情が収斂されていった。  私は両手で壁を探ると、感覚だけを頼りに洗面所へと歩いていく。部屋全体を照らす天井照明を付けるのは、どうも気が進まない。それだけ私自身に黒が馴染んでいるようだ。悩んだ結果、鏡の裏に設置された淡いブラケット照明だけを灯す。  私が目の前に、ぼーっと浮かび上がった。 「ねえねえ、聞いてよ」 「また遊んでほしいの?」 「違うよ。身の毛もよだつ経験をしたんだ」  幼稚園からのクセだった。一人で遊ぶのが寂しくて、鏡の前で一人二役を演じたのがキッカケ。それから大人になっても、私は事あるごとに鏡の前に立った。単なるひとり相撲なのは十分承知している。ただ、気持ちを落ち着かせるために。 「私のドッペルゲンガーが出たんだよ」 「それは大変だ」 「影の世界から、私に迫ってきてる」 「《ね》ぇ《ね》ぇ」 「響子も倉敷くんも、そいつに遭遇してるの」 「《もう茶番は止めにしたら?》」  口が開かれたまま、時が止まる。  私の意志に反して、勝手に言葉が紡がれていた。 「何を言ってるの、私は……」 「《お前》はすぐ《に》逃げる。現実から《目》を逸ら《す》」  自分の言葉が続かない。ブラケット照明を受けた顔が白飛びして、人間味を失っている。 「あなた、何者なのよ」  これでは、まるで……。  本当に二人で会話をしているように……。 「《ここはどこだ》」  鏡の私が疑問で返してくる。  そんなことを尋ねる意図が分からない。 「一人では《何》も決め《ら》れない《お前》が、《男》の家から《逃》げ《た》先。《ここはどこだ》」  そんなの決まっている。  私は洗面台に並べている日用品に目を落とした。  薄暗い靄の中、必死で目を凝らした。が、普段使っている歯ブラシやコンタクト用品が見当たらない。 「どうして、どうして」  私の暗闇を弄る手が何かに触れて、コトンと倒れた。  恐る恐る掴み上げると、照明の元へやる。  それは、響子にプレゼントした口紅だった。  ここは私の家なんかじゃない。  だ。  途端、蛆虫が蠢くようにして、鏡の奥へと隠した記憶がズズっと流れ込んできた。
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