二年後の自分の為に

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 午後の講義が始まる前だった。隣に座る友人の貴樹がしゃべりだした。 「履歴書に書くことがない」 「お……おう……」  僕は不意を突かれてそう答えることしか出来なかった。 「この前、川辺先生のセミナーで言ってたじゃん。就職活動なんてすぐ始まるぞって」 「うん、言ってたね」 「俺、大学に入って何もしてない。履歴書に書くことが無いから就職出来ない」  貴樹が話しているのは僕たち二回生を対象にした就職セミナーのことだ。そのセミナーを開催したのが就職担当の川辺先生だった。  セミナーでは主に今年の四回生の就職内定率、ひとり平均何社の面接を受けたか、今後予想される経済状況から僕たちの就職活動の予想と対策など、とにかく退屈な話を聞かされた。そのセミナーの最後に川辺先生は履歴書に書けるようなことをするよう、僕たちに指導していた。 「俺、部活にも入ってないし、資格も車の免許しかない」 「車の免許持ってれば十分でしょ。だって貴樹、ミッションでしょ。僕なんかオートマ限定よ」  貴樹はいまいち反応が良くない。 「そうだな。僕は思うに、履歴書なんて書いた者勝ちだと思うのよ」 「どういうこと?」  貴樹は不思議そうな顔をしている。 「貴樹、中学と高校は何部だった?」 「吹奏楽部」 「じゃあ大学で吹奏楽部に入ってた事にすればいい。うちの大学に吹奏楽部が無いって入学したとき言ってただろ。都合がいいよ」 「どういうこと?嘘を書けってこと?」 「部活が無いからホームページが無い。つまり嘘を書いてるって調べようがないだろ」  貴樹は無言で驚いた顔をした。普段の細目が倍くらいに開いている。 「それで人数が少ないからコンテストには出られなかったってことにして、そうだな、近くの幼稚園とか小学校とかにクリスマス演奏会をしに行ったとか書いておけばいい。完璧じゃん」  貴樹は唖然としている。我ながら完璧な筋書きだ。 「流石だよ。ずる賢さで単位を取ってるだけある」 「いや、あれは辞書を持ち込んでいいって言われてたから」  先月あった英語のテストでは辞書が持ち込み可能だった。だから僕は辞書の隙間に授業で習った英文をひたすら書き込んでテストを受けた。その結果、A判定を貰うことが出来た。貴樹も辞書を持ち込んではいたけれど、持ち込んでいた『だけ』だった。その結果、判定はC判定。ギリギリで貰えた単位だった。 僕から見て彼は純粋で正直者だ。悪く言えば要領が悪い。  テストの後、貴樹は僕のことを卑怯だとか、カンニングだとか言っていたけれど、英語の先生も僕たちにそこまでのことは期待していないのだ。所詮僕たちが通っているのは田舎の山奥のレベルが低い私立の工業大学だ。    先生が教室に入ってきて暫くしてから講義開始のチャイムが鳴った。午後の講義は和田先生で半導体の理論についてだ。眠くなりそうな内容なのに貴樹のせいで昼寝が出来なかった。  講義が始まると思いきや先生は 「皆さんに少しお願いがあります」 と話し始めた。 「大学の近くに楠小学校という小学校があるのを知っていますか?」  教室が少しざわついた。 「その楠小学校から大学に依頼が来て、君たち大学生に授業の手伝いをしてほしいそうです」  先生はゆっくりとした口調で、そう言いながら大学から小学校までの簡単な地図をホワイトボードに描いた。大学からだと原付で十分くらいの場所だ。僕も通学で小学校の横を通っている。よく見かける小学生はそこの生徒のようだ。 「内容はパソコンを使った授業の手伝いで、大体二週間に一回を予定しているみたいです。特別難しいことはありません。小学生が初めてパソコンに触れるので、どこにどのボタンがあるか教えてあげたりする程度です。一応、名目としてはボランティアですが一年間活動してくれた人には謝礼で商品券を頂けると聞いています。興味のある人は明日の夕方までに私のところに来てください。それじゃあ講義を始めますね」  先生はそう言ってホワイトボードに描いた地図を消して、講義を始めた。  退屈な授業が終わって教科書と筆記用具を鞄に詰めていると貴樹が声を掛けてきた。 「じゃあ行こうか」 今日は雨だから車で通学している貴樹に頼んで連れてきてもらっていた。 「乗せて帰ってもらうついでにスーパーに寄ってもらえると助かるよ」 「任せとけ」 そう言いながら教室を出ると貴樹は校舎の出口と反対方向へ歩き始めた。嫌な予感がする。 「あのさ、まさか和田先生の部屋に行くつもりじゃないよね?」 「え?だめなの?」 「だめじゃないけど、ひとりでやって」 「じゃあ雨の中、歩いて帰ってください」 「とりあえず付いていくだけだからな」 そう言いながら廊下を歩き、エレベーターに乗って先生の部屋がある階へ上がっていった。  ノックを二回して 「失礼します」 と言って、貴樹は先生の部屋の扉を開けた。そういえば川辺先生のセミナーでノックの回数がどうとか言ってた気がする。  六畳一間のワンルームマンション程度の広さの部屋の中は、見たことのない英語の本ばかりがあちこちに平積みされていて、図書館や古本屋のようなインクの匂いが鼻に入ってきた。はっきり言って汚い。その汚い部屋の奥で和田先生は机の上のパソコンのディスプレイを睨んでいた。分厚い老眼鏡を付けたり外したりしている。 「おやおや、どうぞ入ってください。足の踏み場が無くてすみませんね」 先生は柔らかな口調で僕たちを部屋に迎え入れてくれた。僕も貴樹と一緒に部屋に入ったが扉の前で待つことにした。  貴樹は先生のそばに寄って学年と名前を言った。 「さっきの講義の前にお話しされていたボランティアの申し込みに来ました」 貴樹は何となく嬉しそうだ。 「あぁ、良かった良かった。去年は誰も来てくれなかったから不安だったんですよ」 先生はそう言って、紙とペンを貴樹に差し出した。 「名前と連絡先を書いてください。電話番号でもメールアドレスでも良いですよ」 貴樹は電話番号をぶつぶつ言いながら書いている。 「そちらのあなたはどうしましたか?」 「僕は……彼の付き添いです」 「そうですか。一度くらい彼と行ってみてはどうですか?」 「そうだよ、一緒にやろうよ。どうせお前だって履歴書に書くことなんて何も無いだろ」 「あぁ、えーっと」 言い返してやりたいが先生の前だからいい言葉が見当たらない。 「体験してみてから決めても良いんですよ。それに嫌かどうかはやってから決めた方が自分の為になります」 先生は老眼鏡を少し下に下げて見上げるように僕に視線を向けた。睨まれているようで、思わず視線を外してしまった。どうにも逃げ道が見当たらない。 「じゃあ……やります……」  しょうがない。貴樹の言う通り僕も履歴書に書くことなんて、大学に入学してから何ひとつしてないのだ。  僕は貴樹の横に立ち、二年後の自分の為に名前と電話番号を書き込んだ。
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