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「部屋の中に羊の群れがいるので、どうにかして欲しいんです」
深夜のシティーホテル。
ハウスキーピングを担当する私はそんな妙な電話をとってしまった。
電話口の声は若い女性のようで、少し慌てているように聞こえた。
「申し訳ございません。お電話が遠いようでございます」
初めは聞き間違いかと思った。
「羊の群れがいるんです。1210号室の牧野です」
だが、どうやら聞き間違いでは無いらしい。
ほとんどの宿泊客が寝静まる23時以降は、ハウスキーピングの出番はほとんど無い。
だから今日も例外なく一人体制だった。私が部屋へ向かうしかない。
(面倒くさ。絶対おかしい人じゃん)
私はげんなりした表情でため息をつき、デスクから立ち上がる。
ハウスキーピングである私の仕事は、ベッドメイキングやアメニティの補充が多くを占めている。そして本来なら、その他の依頼は別の部署に任せることになってる。
だが、羊の群れが部屋にいるだなんて、他のスタッフに説明するのも馬鹿らしい。
他の電話がフロントへ転送されるように設定し、私は事務所を後にした。
重い足取りで12階の客室へと向かう。
夜勤は好きじゃない。
基本は暇だが、それ故に、ただひたすらに睡魔と戦う時間が続く。
客から電話が鳴ったとしても、真夜中の呼び出しなんてろくな事がない。
「何が羊よ……。やんなっちゃう」
一人だけのエレベーターの中。私は思わずそう呟いた。
12階に到着。
エレベーターを降り、1210号室の前まで来た。
そして静かめにノックをした。
「ハウスキーピングでございます」
反応を待つ。
「すみません! 自分で扉を開けられないので、入ってきてください!」
中からそんな声が聞こえた。
私はため息を吐きながら、マスターキーを取り出した。
施錠を解除し、ノブを下げ、扉を押す。
しかし、扉の先に荷物があるのか、中々開かない。
(ゲストの荷物を勝手に押し退けるわけにはいかないしな……)
私が悩んでいると、
「頑張って!」
なんて言う応援の声が聞こえてきた。
(頑張ってって……)
私は少しムッとなり、勢いよく扉を押した。
入れと言われたから入り、頑張ってと言われたから頑張って入った。
言い訳は十分成立するだろうと思った。
だが、そんな弁解はそもそも必要ないらしい。
「な、何これ!」
私は慌てて部屋の中に体を滑り込ませ、瞬時に扉を閉めた。
驚いたことに、1210の客室内には、床全体を埋め尽くすように、何匹もの羊が所狭しと歩き回っていた。
時折数匹の羊が鳴き声を上げている。
「あのぉ……」
ぎゅうぎゅうの状態で動き回る羊たちに目を奪われていたが、部屋の奥から聞こえたその声にハッと顔を上げる。
「すみません。こんな夜中に呼び出してしまって」
一人の若い女性が、ベッドの上に立ち、羊から避難している。
1210号室の牧野様だ。
ベッドの上には牧野様以外に、羊が一匹だけ寝転んでいる。
牧野様は部屋に備え付けてあるサテン生地のパジャマに身を包んでおり、肩まである色素の薄い髪はふわふわとカールしている。
「ま、牧野様。如何なされたのですか? この羊たちは一体……」
全く状況が理解できない私は、扉の前から一歩も動くことなく、ただそう質問するしかない。
「実を言いますと、眠れなくて、それで羊を数えていたら……気付いたら、この様な有り様になっていて……」
牧野様は慌てていると言うより、ただ単に困惑している様子であった。
まるで部屋のグラスを割ってしまったかのような、そんな些細なハプニング程度の動揺加減であった。
「羊を数えていた?」
私は怪しむようにそんなことを聞いてしまった。
「はい。最初は、鳴き声や物音がしても、外から聞こえる騒音だろうと思って、気にせず数え続けていたんですが、突然ベッドの上にこの子が落ちてきたんです。多分、もう床は場所が空いていなかったから、仕方なくベッドに現れたのでしょう」
牧野様は眉をひそめながらも淡々と説明する。
(原因なんてどうだっていいわよ。どうすんのこの羊たち)
私は表情を取り繕うこともせずに牧野様を見つめた。
私の視線に気が付くと、牧野様は叱られた子供のようにベッドにへたり込む。
「すみません。怒ってますよね。でも私もどうしたらいいのか……」
今にも泣き出しそうな声に、私はハッとなり、笑顔までとはいかないが、好意的な表情を心がけた。
もこもこと動き回る羊たち。
酷く落ち込んだ様子の牧野様。
荒らされたソファ。
今までにない不可思議な状況に、徐々に私は、仕事を始めたての冒険的やる気を取り戻す。
(こんなヘンテコな事件は初めてだけど、久しぶりにお客様とこんなに長く話したかも)
客室の清掃は、基本的には宿泊客が誰もいない間に行わなくてはならない。
もう長いこと、私は宿泊客と対面して会話をすることはなかった。
ゲストを助けたい。
その心も思い出してきた。
(仕方ない。どの道、解決しなくちゃ終わらないもんね)
楽しい。
私の心に、僅かにそんな感情が芽生えた。
牧野様に頼られている現状に、私は自分の仕事に対してのやり甲斐を強く感じていた。
「牧野様。牧野様が安心してお休み頂くためには、まずこの羊たちを何とかしなくてはなりません。一緒に解決策を見つけましょう」
私は心からの笑顔を向けて、明るく牧野様にそう言った。
牧野様も元気な表情へと変わり、嬉しそうに大きく頷く。
しかし、その表情はすぐにまた暗いものへと変化してしまった。
「でも、一体どうやって……。外へは出せないし、どこに戻せば良いのか……」
牧野様は不安気に羊たちを見回した。
確かに、一体この羊たちがどこからやってきたのか、全く検討も付かない。
「柵から出したのがいけなかったのでしょうか」
牧野様は顎に指添え、考える素振りを見せる。
「柵、でございますか」
私は何とか羊をかき分け、牧野様がいるベッドの近くまでやってきた。
「ええ。数える時、羊が柵を飛び越えるところを想像したんです」
真剣な顔つきで、牧野様は言った。
そこで、私は閃いた。
「では、柵の中に戻っていくところを想像してはいかがでしょうか」
私の提案に、牧野様は明るい表情で、賞賛するかのように両手をパチンと合わせた。
「いい考えですね! 上手くいくかもしれないです!」
そう言って、牧野様はベッドに横になった。
ベッドの上の羊が、端の方に移動していく。
「羊は何匹まで数えたのですか?」
「えっと、確か54匹です」
「では、柵の中に戻っていく羊を、54匹数えましょう」
牧野様は頷いた後、両目を瞑り、一度咳払いをする。
「よし、いきます。羊が一匹。羊がぐえ!」
二匹目を数える前に、牧野様の腹の上に新たな羊が出現した。
「ま、牧野様! 大丈夫ですか!」
中々腹の上から退かない新入り羊。
牧野様は手足をばたつかせてもがいている。
新入り羊は、しばらく牧野様のお腹の上に居座った後、のそのそとシーツの上へと移動した。
ベッドの上には羊が二匹。
どうやら増やしてしまったらしい。
「な、何が起こったんですか?」
飛び起きた牧野様は、慌てた口調で私に聞いてきた。
「どうやら失敗してしまったようです。牧野様が羊を数えた途端、もう一匹増えてしまいました」
私の返答に、頭を抱える牧野様。
柵の中に戻る羊を想像しても、数えた数が出現してしまうらしい。
牧野様はあからさまに絶望している。
だが、私にはもう一つ有力な策が浮かんでいた。
「牧野様。次はマイナスを付けて数えてみませんか?」
「マイナス、ですか」
「はい。マイナス1からマイナス55まで、羊が帰って行くところを想像しながら数えるんです」
私の二度目の提案に、牧野様はすがるような表情で頷いた。
もう一度牧野様は布団に潜り、両目を瞑る。
「よし、いきます。羊がマイナス一匹。羊がマイナス二匹。羊がマイナス三匹」
牧野様は順調に羊を数えていく。
心なしか、客室内の羊の鳴き声の音量が小さくなっていくような気がした。
だがそれは気の所為ではなかったようで、牧野様がマイナス二十匹を数え終える頃には、部屋に大分ゆとりが感じられるまでとなった。
「牧野様、成功です。どんどん羊が減っております」
私の声掛けに、牧野様は目を開けずに数えながら頷いた。
「羊がマイナス五十匹。羊がマイナス五十一匹」
こんな調子で、牧野様は羊を数え続けた。
私の考えた通り、羊の数は着々と減少してきている。
残りは後、数匹。
私は早くも達成感に顔を緩ませた。
「羊がマイナス五十四匹。羊がマイナス……」
だが、最後の一匹に差し掛かったその瞬間。牧野様は深い眠りへと落ちてしまった。
「え、牧野様? 牧野様? 起きてください?」
私は牧野様の肩を揺さぶった。しかし、牧野様は起きる気配もない。
「こ、困った……」
客室内に羊が一匹、残されてしまった。
自由に動き回れるスペースが増えたおかげで、生き生きと部屋を駆け回る最後の一匹。
(どうしよ……。私にも羊を消せるのかな)
私は駄目元で両手を瞑って、牧野様が言いかけた最後の羊を数えた。
しかし、目を開けてみると、羊はまだそこにいた。増えても減ってもいない、一匹のまま、何も変化はなかった。
羊は疲れたのか、窓際に寄っていき、丸まって眠りの体勢に入る。
時刻は深夜3時。
牧野様も、最後の羊も、静かに寝息を立てている。
(ま、いっか。もう問題無さそうだし)
私は吹っ切ったように息を吐いた。
ホテルスタッフは、いつでも期待以上を追い求めなくてはならない。
しかし、完璧を深追いし過ぎては、仕事は一向に進まないのだ。
「明日また何か起きたら、すぐに駆けつければいっか」
そう呟いた私はその場で伸びをして、ストンと肩の力を抜いた。
牧野様の部屋は、羊たちが駆け回ったせいで、土まみれの上に備品も散らばっている。
私は一通り床やソファを掃除をして、一人と一匹を残し、そっと1210号室を出たのだった。
ホテルにハウスキーピングとして勤務してから、羊の足跡なんて汚れを相手にしたのは、今日が初めてだ。
あんな不思議な現象を起こしてしまったゲストと接したのも、もちろん初めてだ。
滅多に無い経験をした私は、妙に清々しい達成感を胸に、堂々と廊下を歩いていった。
事務所に戻った私は、慣れた手つきで電話の転送設定を元に戻した。
他に依頼が入ったかをフロントに確認するため、私は受話器を上げる。
だがその瞬間。またも電話が鳴り響いた。
「はい。ハウスキーピングでございます」
「すみません! クラゲが! 僕の部屋にクラゲがいきなり!」
電話の向こうから酷く動揺した声が聞こえた。
どうやら今日は、睡魔と戦う必要はないようだ。
私はまた、電話の転送設定を完了させ、意気揚々と事務所を後にしたのだった。
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