アンビバレンスーいつか、唇にキスをー

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 それはもちろん、歌澄がよく気がつき、優秀であることも一因だが、それだけではない。何より歌澄が、営業職、特に男性社員達に笑顔で挨拶し、頼られる様子に、激しい嫉妬を覚えたのだ。  ケルスは新興の会社で、営業職も若い社員が多い。全体的に、社内恋愛から結婚に至るカップルも多く、歌澄の前任の事務員も、相手は社内の男性だった。  このままではいつか、営業職の誰かと恋に落ち、結婚するのではないか。そんな焦りが、京也を駆り立てた。  普段は公私混同などせず、自分を律しているし、世間の耳目を集めるようになった今、軽率な振る舞いは控えている。秘書課は存在するものの、京也個人の秘書は付けず、グループ秘書にしている。どうしても個人としての対応が必要な場合は、副社長の森川を通すようにしていた。  幸い歌澄は、正社員登用試験を難なく合格した。もし不合格でも、一旦は契約社員にするつもりだったが、契約社員にした上で部署を異動させるのは、さすがに無理がある。  歌澄の試験結果を知った京也は、森川と希海を呼び出し、自身の秘書にしたいと告げた。  それから1ヶ月、京也は、歌澄のお陰で仕事が捗った。このまま側にいて欲しい、そんな思いが、つい口を滑らせたのだろう。気付けば歌澄を、個人的に呼び出していた。 「歌澄、」  京也がそう呼べば、歌澄は目を見開き、頬を染めた。  好意を抱かれている、と直感した。  それは身の内が震える程の喜びだった。  しかし同時にそれは、不遇な境遇を救った「ケルスの千川京也」に対するものであることもわかった。  この1ヶ月間、歌澄は一度も京也が、かつての「湯浅システムの三上京也」だと気付いた様子は無かった。知らない振りをしているにしても、何かしら反応があるものだ。しかし、そういった素振りは一切無い。  京也自身、当時よりかなり垢抜けた自覚がある。  社長として、外部との折衝をするため、服装に気を遣うようになった。メディアへの露出が増え、コーディネートをプロのスタイリストを頼むことも多い。何より当時は、極度の近眼で分厚い眼鏡を掛けていたが、レーシック手術を受け、今は裸眼で充分な視力がある。  だから歌澄が、京也に気付かないのも無理はない。
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